第19話 拷問

     ⁂


 あの兄弟もろとも罠だったのだろう。阿須倣アルサは暗闇の中で考えていた。

 しかしながら少年に向かって突進してきた車はまるで速度を緩める様子もなく、あのままいけば激突は免れなかったはずだ。

 もし車に予め避けようという意志があったのだとすればアルサは即座に感じ取っていただろうし、少年を助けようと身体を動かすこともなかった。


 いやそれは違う。

 もし少年が目の前で死ぬことになったとしてもアルサには関係のないことであり、どうでもいい映像の一つとして保存されるだけで、いつもの変わらぬ日常を送っていたはずなのだ。

 これまでならば。


 自分はいよいよ変わってしまったのだということをアルサは認めざるを得なかった。そのことに関して癪でも何でもない。不可解なだけだ。

 何が要因で変わってしまったのか、それが分からなかったからだ。


 夫檀兄弟が要因だろうか。

 初めて命乞いをされたという経験がこれまでの視点を歪めてしまったのか。


 それとも兵罠世灰へいわなせかいの言葉がかつての平和だった時代の感覚を呼び覚ましたのだろうか。


 あるいは最強と出会ったそのこと自体が少しずつ自分の感覚に狂いを生じさせているのだろうか。


 答えは出そうになかった。


 頭にかぶせられた布袋を外れた。

 アルサは全裸で椅子に座らされており、何やら全身びしょぬれで両手両足は縛られていた。身動きは取れない。プロの仕事だ。脱出は考えるだけ無駄だろう。


 ならば考えるべきは奴らの目的である。


 狭く電灯が一つぶら下がっただけの部屋だ。コンクリート剥き出しの壁は冷たい印象を与える。まるで懲罰房のようである。あるさはかつて戦場で捕虜となり、拷問を受けた経験を思い出した。

 その時の傷はいまでも克明に身体に刻まれていた。


 アルサを除いて部屋にいる人間は三人だった。一人は高級そうなスーツを身にまとった役人面のアジア人で、残る二人は黒人でジャージを着ていた。おそらくこの二人はこれから拷問を仕掛けようというのだろう。


「さて、阿須倣アルサ。君には答えてもらいたいことがある」


 スーツの男が言った。


「何も言うことはないと思うが」


 アルサは言った。


「それはこちらで判断することだよ。——君だろう、我々の仲間を殺したのは」


 なるほど。これで彼らの正体が明らかになった。アルサが昨夜殺した米国人の関係者だろう。ならば吐かせたい内容は――


「君自体には何の恨みもないんだ。君はただ仕事をしたに過ぎないのだからね。だから依頼人が誰なのかを教えてくれさえしたら、君は無傷のまま帰れる。——悪い話ではないだろう」


「確かに悪い話ではない。——だが残念なことが一つある」


「なんだね」


「あんたらが何を言っているのか分からないからだ」


 スーツの男がジャージ二人に指示を出した。


 さて、無意味な拷問が始まった。


 アルサはじっとスーツの男の眼だけを見つめながら、すべての苦痛を受け入れて、ただそれを傍観する。

 痛みは肉体からの危険シグナルに過ぎない。

 痛みなど幻想である。

 ただ肉体が壊れた、あるいは壊れつつあるという情報を脳に伝えるために手段に他ならない。

 そうと分かっていればあとは耐えるだけである。

 なんてことはない。

 ときおり意識が揺らぐだけのことだ。


 どれくらい時間が経ったのか、正確なところアルサには分からなかった。何度か意識を失っていたからだ。

 意識を失った間に、どれだけの時間が経ったのかはわかりようがなかった。

 だがとてつもなく長い時間が経過したかのように思えた。と、同時に何もかも一瞬のことのようにも感じられた。


 右目の調子が悪かった。

 それから思い出す。

 そういえば眼球を抉り出されたのだ。

 取り出された右目は目の前の床に転がり、こちらを恨めしそうに見ていた。


「君も強情だ。だが近頃は簡単に口を割る者が多いからね。実に楽しいよ」


 スーツの男が言った。


「楽しんでくれて何より」


 アルサが言うと、彼はにんまり笑った。そうして取り出した針を足の爪の間にゆっくりと差し込んでいく。


 アルサは爆笑した。


 スーツの男も爆笑していた。


 笑いが止まらなかった。何やら滑稽なものを見せつけられている気分だった。


 そうしてまた気絶した。



      ⁂


「阿須倣くん」


 何度目か数えるのをやめた気絶から覚醒すると、兵罠世灰へいわなせかいの顔があった。

 彼女が触れるとアルサを拘束していた諸々が砕け散った。


 片目で世界を観察すると、アルサの正面の壁に三つの肉体が埋め込まれていた。


「あんまりジロジロ見たいでくれ」アルサは言った。「こちとら思春期の男なんだ。裸を見られるのは嬉しくない」


「わたしだって見たくないわ」


 世灰は眉間に皺を寄せていた。


「どうして助けに来たんだ?」


 アルサは立ち上がろうとして情けなく転倒した。全身血塗れで、特に足の下方にかけて感覚がなかった。

 回復するにはしばらくかかりそうである。

 この分だといま襲撃されたらひとたまりもない違いない。


 世灰が手を差し伸べていた。

 アルサは驚いてその手を見つめた。


「あなたを助けに来たのは、恋人だからよ」


「それは建前だろう。俺は殺し屋で、おまえは標的に過ぎない」


「なら他にどんな答えを聞きたいわけ?」


 言われて気が付いた。——俺は兵罠世灰へいわなせかいの口から何を聞きたかったのだろう。

 アルサは困惑していた。

 自分の真意を測り損ねていた。

 まるで世灰に、おまえにとって兄は愛する人なのだと言われた時のような心境だった。

 そうした困惑の中で、アルサはふと思いついた言葉を口にしてみた。大した感慨もなく口にした言葉であったが、音にしてみると、それは驚くほどアルサの心に動揺を与えていた。


「俺はおまえが好きなのかもしれない」


 世灰はあいまいに微笑んだ。


「おまえは?」


「わたしは最強よ」


「そんなことはどうでもいい」


 すると世灰は少し驚いたようにアルサを見た。


「そんなことを言われたのは初めてだわ」


 アルサは焦点の定まらない身体を起こしながら口を開いた。


「俺は自分が分からない。感情というものを今まで相手にしてこなかったからだ。だがもし俺がおまえのことを好きだと思っているのなら、俺はおまえの気持ちが知りたい」


「きっとそれは勘違いよ」


「そうなのか?」


「ええ。あなたはただ寂しいだけ」


「なるほど」


「でも、わたしはあなたの恋人だからあなたが死んでもらっては困るのよ。だってあなたはわたしを殺さなくてはならないのだから」


「おまえは死にたいのか?」


「さあ、どうかしら」


 世灰は首を傾げた。それから――


「とんだ誕生日になったわね。せっかく作った料理も台無しよ」


「ああ。悪いが何も食べられそうにない。だが、助けてくれたのは感謝している。俺にはまだやらなければならないことが残っているからな。死ぬわけにはいかなかった」


「やらなければならないこと?」


「おまえを殺さなくちゃならない」


「楽しみにしているわ。——それを誕生日プレゼントにしてちょうだい」


「死を?」


「そう。わたしの誕生日にはとっておきの死をちょうだい」


 世灰はくるりと回ってスカートを翻し狭い部屋でどこか遠くを見ながら微笑んでいた。

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