第18話 迂闊

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阿須倣あすならくん、誕生日はいつなの?」


 世灰がそんなことを言った。


「覚えていない」


 とアルサは答える。


「なら今日にしましょう。ちょうど休日だもの。盛大にお祝いするわ」


「どうして?」


「恋人の誕生日を祝いたいと思うのは当然のことなのよ」


      ⁂

 

 それがアルサが自らの過去を語った夜のその後の会話だった。世灰は昼前に買い出しに行くといって部屋を出て行った。久しぶりに昼間から一人になったアルサであったが、何をするでもなく、世灰に続いて部屋で出て、彼女のはるか後方から尾行をした。

 世灰はよく目立っていたので尾行は困難ではなかった。何しろ彼女の周りの人々は彼女を避けているのである。

 おおよそ本能が近寄っていけないと声高に叫んでいるのだろう。

 最強はどこにも馴染まずに淡々と道を進んで行った。


 尾行を続けながらも、アルサは昨夜の出来事を考えていた。自分が兵罠世灰へいわなせかいに自らの過去を語ったことが意外だった。

 別に隠しておきたいことではなかった。アルサにとって記憶は映像に過ぎないのだから。

 いいや、そうじゃないとアルサは否定する。

 意外に思ったのは自分が過去を話したことではない。世灰の反応と彼女が与えた解釈が意外だったのだ。

 世灰はまるで自らのことのように沈痛な顔をしているように見えた。最強のそんな顔は意外だった。

 そしてアルサにとってキョウダが愛する人だという解釈はもっと意外だった。

 そのような視点で考えたことなどなかったからである。


 アルサにとってキョウダは兄であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。しかし今、世灰の言葉によってキョウダは兄という存在を超えてしまっていた。

 自らに起こった変化はただモノの見方を変えたというだけで、本質的にはまるで変わりがない。しかしその変化はアルサにとって重大だった。

 兄がぐっと近くに感じられたからだろうか。ただの憧れではなく、実体を帯びて感じられたからだろうか。

 アルサにはやはり分からなかった。

 けれど自身に起きたその変化を彼は素直に楽しんでいたし、また不思議なものを見つけたような心境でそれは周囲を見る彼の視線にも影響を与えた。

 

 目に映るものがどこか新しく感じられたのだ。

 それは彼の中で目の前の現実が無味乾燥な映像の領域を超えて、好奇心をそそるものに変わりつつあるという証拠だろう。

 アルサはそんなことに気づかない。

 彼はただ無垢な子供が蝶の羽ばたきに魅せられ追いかけるように、あたりを見回しぼんやりとしていた。


 そう、あまりに迂闊だったのだ。


「お兄ちゃん!」


 悲鳴にも似た声をアルサは聞いた。ぼんやりとした彼の頭はすぐに覚醒し、目まぐるしい速度で作動した五感は状況を速やかに認識させ、次の瞬間に動き出していた。


 しかしながらアルサの脳裏にはある言葉は浮上する。


 なぜ? ——


 である。


 およそアルサの現在位置から十メートルほどの位置にバレーボールが転がっていた。あろうことか、車道にである。

 それを追いかける少年が一人。

 少年の視野は狭窄し、ボールのみを視界におさめていることは明らかだった。

 なぜなら少年の目前にまで制限速度をゆうに超越したパッソが迫っていたからだ。


 叫んだ少年はボールを追う少年とは違う。

 おそらくはボールを追う少年の弟だろう。恐怖に見開かれた両眼、叫んだまま維持された口の奥は喉の奥まで光が入っている。


 よくある悲劇だ。

 ありふれた現実だ。

 そして自分とはいかなる接点も持たない事故の一つに過ぎない。


 なのになぜ。


 アルサは少年と車の間に身を滑り込ませ、そのまま速度を維持して少年を担ぐと安全圏へと移動する。


 そう、迂闊が過ぎたのだ。


 いるはずのない兄弟。

 米国によって空き家と化した近隣には存在しないはずの光景だ。


 抱き寄せられた少年は、アルサの首筋に何か硬いものを押し付けた。


 バチバチという衝撃とともに、アルサの意識は暗転する。

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