第16話 忍び寄る変化

     ⁂


 深夜三時を回っていた。遠くの空が薄っすらと白む中、新聞配達が50㏄の排気音をどこか遠くで鳴らしている。近隣には阿須倣あすならアルサの足音一つ。

 と、電話が鳴った。


『つい今しがたの情報なのだけど』


 誰からの電話なのかは察しろとばかりに夜唾よつばが本題でもって切り込んでくる。


「いったい何時だと思っているんだ」


 アルサはひとまず不満を口にしてみた。


『ワンコールで繋がる相手の台詞とは思えないわね。——むしろこっちの台詞よ。いったい何時だと思っているの? 誰かさんがしでかした行いのせいで、わたしの睡眠が脅かされているのよ』


「おまえは寝ないだろうが」


 実際、夜唾と長らく生活を共にした経験がアルサにはあったが、彼女が寝ている姿など見たことがなかった。


『何世紀ぶりかの睡眠ね。まったくすっかり眼が覚めてしまったわ』


「それで用件は?」


 小さく舌打ちが聞こえた。


『この一夜で某大国の要人が、もっと細やかに言うならこの瑞廉市国に滞在している要人が次々と暗殺されたわ』


「ほう」


『おかげで例の計画は頓挫、控えていた人員もろとも一夜で暗殺されてしまったのだもの、当然よね。復旧には最低でも二週間はかかるでしょう。何しろ計画の詳細を知っている者が軒並み永遠の眠りについてしまったのだから

 また一から練り直しというわけよ』


「誰かさんに感謝しなければならないな」


『とんでもない愚か者と言わざるを得ないけれどね』


「なぜ?」


『誰かさんはとうとう某大国を敵に回したわけ。平穏な日々はもはや過去のものよ。他にやり方は幾らでもあったでしょうに』


「哀しいことに誰かさんはやり方を一つしか知らないんだ」


『哀しいわね』


「そうなることを見越して誰かさんを仕向けた誰かさんがいるような気がするが」


『気のせいよ』


「おまえがそういうならそうなんだろう」


『くれぐれも何かあってもわたしの名前は出さないように。安心しなさい。こちらでもしっかり誰かさんとの繋がりを記す諸々は処分しておいたから』


「処分してから電話してきたのか?」


『当然じゃない』


「まあ、いつものことか」


『勘違いしないでちょうだい。これはわたしからの優しさなのよ。きっと誰かさんはわたしにだけは迷惑をかけたくないと思っていることでしょうから、こちらもその気持ちに応えてあげたというわけよ』


「それはまったく有難い」


『すべて済んだら相手をしてあげるわよ』


「結構だ。おまえのは――そうだな、少々過激が過ぎる」


『あら、すっかり世灰せかいちゃんの虜になったみたいね』


「そういうわけじゃない」


『愛の巣まではあと百メートルというところかしら。さぞやウキウキが止まらないのでしょう。——このエロガキ』


「待て、どうして俺の現在位置を知っている」


『あなたスマホ持っているでしょ?』


「ああ。……ああ」


『そういうことよ。じゃあ愛しの最強ちゃんによろしく』


「あいつはきっと寝ているぞ」



     ⁂


 ところがどっこい起きていた。アルサは兵罠世灰へいわなせかいが間接照明に浮かんだソファーの上で佇んでいる姿を意外に思ったが、彼女の第一声はもっと意外だった。


「大勢殺したような顔をしているわ」


「なぜ分かった?」


「……冗談だったのに」


「一杯食わされたってわけか」


「違うわ。あなたが勝手に食ったのよ。わたしが後で食べようと残しておいたのに」


「そんなに食われたくなかったら名前でも書いておくことだ」


「飲む?」


 世灰は琥珀色のコーヒーが入ったカップをかかげた。


「頼む。——ちなみに何か食べたいんだが」


「夜食は身体に悪いわ」


「もう朝だ」


 世灰はキッチンへ向かった。アルサは寝間着の背中に広がる長い髪を見つめながら、自分の発言にまた驚いていた。

 実際アルサは空腹だった。けれど空腹というものは彼にとってただの反応に過ぎなかった。腹が減って死にそうだという体験をしたことはない。それはただの胃の内容物が尽きたことを主張するメッセージに過ぎず、死にかけるときは栄養失調やらで身体が完全に動かなくなってからだ。そして足りない栄養分を順次補給していればそのような状況に陥ることはない。

 だが今、アルサは何か食べたいと思っていた。正確には世灰の料理を食べたいと思っていたのだ。そしてその気持ちが素直に口に出た。何かを食べたいという感情はアルサには新鮮だった。おそらく近頃食べる世灰の料理が異様なほど美味しいからだろう。

 しなしながらそれとは関係なしにアルサは自らに起こった変化を面白いと感じ、それをじっくりと弄んでいた。


 運ばれてきたチャーハンを堪能していると世灰が言った。


「阿須倣くん、あなたは人を殺すことに抵抗感はないの?」


「さあ」とアルサは素直に答える。「考えたこともない」


「考えないようにしているだけじゃないかしら」


「かもしれない。だがどちらにせよ、殺さなければ俺は生きて来れなかった」


「そうまでして生きたかったの?」


 世灰はどこかぼんやりとした表情をしていた。


「そうじゃない」アルサはやはり素直に答えた。偽る理由が思い浮かばなかったからだ。「ある人が俺に生きろと言った。死んではならないと。だから俺は生きてきた。それだけの話だ」


「きっと大切な人なのでしょうね」


 アルサは兄のキョウダを思い浮かべた。彼は自分にとって大切なのか。それがどんな状態なのかアルサには分からなかった。だから逆に訊ねてみた。


「大切って何だ?」


「そんな質問されるとは思わなかったわ」世灰は少し笑った。「そうね、失いたくないってことじゃないかしら」


 アルサは再び考えてみた。自分は兄を失いたくないのか。だがアルサには兄を失った後、自分にどのような変化が起こるのかを想像することができなかったし、そしてまた兄が死ぬ想像もできなかった。

 だから黙っていると世灰が再び口を開いた。


「その人はあなたにとってどういう存在なの?」


「兄だ。唯一の」


「他に家族は?」


「死んだ」


「そう。——聞かせて、あなたの話」


「俺の過去という意味か?」


 世灰は頷いた。


「どうしてそんなことを知りたがる」


「どうしてって、恋人だからに決まっているじゃない。好きな人のことを知りたいと思うのは恋人としての摂理でしょう?」


 そう言った世灰の顔はまたしてもアルサを意外に思わせるほど普通だった。

 

 アルサは自らの過去を話すことにした。大して面白い話ではないが、彼女せかいが望むならそうしよう。極上のチャーハンのお礼としてあまりに安い。

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