第9話 最強の朝

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 なぜ死を恐れるのかアルサには理解ができなかった。

 いったい彼らは死の何を知っているというのか。それがどういうものなのか、なぜ彼らは知り得たのだろう。

 少なくともアルサは死というものがいったい何なのか、人の生のなかでどうのような意味を持つのか、まるで無知であった。

 もし死を畏怖する彼らがアルサと同様に、死について如何なる知識も持たないのであるならば、ただ知らないものに対し、不必要な恐怖を抱いていることになる。


 確かに知らないというのは怖いことだ。

 暗闇の向こうに何があるのか分からないというのは確かに怖い。

 だが、どうして人は暗闇の向こうに悪しきものだけが潜んでいると思い込むのだろうか。

 そのネガティブな思考が、人を窮地から事前に救ってきたことは知っている。その臆病こそが力のない種族に、今日の繁栄をもたらしたことは理解に容易い。

 だが、本質はそこにはない。


 あたかも人は死の何たるかを知っているかのように死を恐れる。

 だからどんなことをしても生き延びようとする。その『どんなこと』というものが自らの生の価値を甚だしく貶めるものだとしても、それが死を遠ざけるものであるなら構いもしない。

 まるでその一時、死を逃れることができたならば、不死を手に入れることができるとでも言わんばかりに、醜態を晒すのである。


 そんなことはあり得ない。

 どれほど遠ざけようと、どれほど懸命に逃げようと、死はその者の背後にぴったりとくっついて決して離れない。

 気づいたときには死の背中を見ていることになる。


 だからこそ死に怯えるだけの生は、庭を覆った初雪の結晶を、一粒ずつ数えようとするかのように不毛なのである。

 そのようなことをするならば、雪原の彼方へ向け、己が足を用いて歩くことのほうが、ことさらに有意義だ。

 死がどのようなものか分からないのであれば、憂う必要もなければ、まして歓迎する必要もない。暗闇の向こうに華やかなものが待っているなどというつもりもない。

 どれだけ邪見に扱っても、一端のメンヘラである死は必ずやってくる。

 ならば生きている者ができることは、ひたすらみ自らの生を全うすることである。何をもって全うというのかは分からないだが、少なくとも死から逃げることではない。

 負けの決まった鬼ごっこに興じる者などいないはずだ。


 しかし、とアルサは思った。


 夫檀ふだん兄弟の兄、ナラバは違っていた。彼は自分の死を恐れているわけではなかった。

 彼はほかでもない弟の死を恐れていたのだ。


 アルサはそれがどうしても解せなかった。

 自分が誰かの死を恐れる状況など微塵も想像できなかったからである。果たしてキョウダは自分の死を恐れるだろうか。

 あるいは自分は兄の死を恐れるのだろうか。


 アルサはナイフを構えた。

 ナイフを人に向かうのは久しぶりのことだ。普段のアルサならばナイフなど使わない。けれど、今回は事情が違う。

 それほど切羽詰まった状況なのだ。


 したがってアルサはナイフを標的の眉間に向かって鋭く突き差す。


 が――、ナイフは眉間に当たる前に、刃先から崩れるようにして崩壊した。


 次の瞬間、アルサの身体は壁に激突し、苦痛が全身を駆け抜ける。


 目の前では標的がむくりと身体を起こしていた。


「よお」とアルサは言う。「最悪の寝起きだな、最強せかい


「乙女の寝室に無断で入るなんて、それでもあなた人なの?」


 世灰は不機嫌そうに目をこすった。


「世界を破壊するとかほざいている奴にだけは言われたくない台詞だ」


「で、何の用?」


「緊急事態だ」


 世灰は眉をしかめた。

 アルサは続ける。


「学校に遅刻する。校門が閉まるぞ」


「最強を阻める門なんて存在しないわ。もうひと眠りするから、静かにしてちょうだい」


「おまえが状況が分かっていない。俺とおまえが恋人になってまだ一日も経っていない」


「だから?」


「もし二人ともども遅刻すれば、何か事が起きたと殺し屋諸君クラスメイトが思うのは当然のことだ。そうすれば奴らはこぞってここに押し寄せる。おまえは最強だから問題はないかもしれないが、俺は最強じゃない。厄介ごとは避けたい」


「わたしに問題がないならいいじゃない」


 どうやら最強は頑として動こうとしないらしい。

 アルサは散々に散らかった寝室を見渡した。最強を起こそうとした結果である。しかしようやく起こすことに成功したのだ、再び眠らせるわけにはいかない。この機を逃せば、完全に遅刻してしまうだろう。

 アルサは歯噛みした。


「最強もしょせんはその程度か」


 すると世灰はむくりと身体を起こした。


「どういう意味かしら」


「深い意味はない。ただおまえは、睡眠欲に負ける程度の最強なんだなと思っただけだ」


「言ってくれるわね」


 世灰は布団を蹴飛ばした。


 布団は宙を舞い、やがて重力の魔の手に捕まり、ぴたりと止まり、そこから落下するかと思いきや、爆発する。

 寝室に羽毛が舞い落ちる。


「わたしはね、寝てあげているの。睡眠などわたしの眼中にないということよ」


「なら、さっさと支度しろ、学校に行くぞ」


 帰ってからの掃除が大変だ、とアルサは溜め息をついた。

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