第6話 最強とラブコメ ②

     ⁂


 夜唾よつばが用意したアルサの新居は学校から徒歩にして五分ほどの位置にあった。

 二階建てのアパートは打ちっ放しのコンクリート建築で、部屋は全部で八つあり、アルサの部屋は二階である。

 入り口から入り、正面の途中で折り返しのある階段を上ると、若干開けた空間があり左右にそれぞれ二つずつドアが並んでいる。

 右手の東向きの部屋がそれだった。


 アルサもこの部屋に来るのは初めてであった。兵罠世灰を連れてくると予め分かって入ればそれなりに用意をしておいたのだが、今更の話である。トラップ等の仕掛けで盛大にもてなしたかったのだが残念だ。

 世灰はアルサの後ろを無表情でついてきていた。


 部屋はそれなりの広さがあった。二部屋ありリビングと寝室といった感じだ。寝室にはすでにベッドが一つ運び込まれていた。キッチンには冷蔵庫と調理器具、洗面所にはバスタオルなど完備されている。

 なかなか気が利くじゃないかとアルサは夜唾に感謝した。


「お腹が空いたわ」


 と世灰が言うので冷蔵庫を開けてみると空であったので、何か買いに再び二人で外に出た。

 外は斜陽に包まれている。金色が長閑な一日の幕を閉じようとしているのだ。ちょうど舞台に降りる幕が閉まりきる直前に、残された隙間から溢れ出る華やかなステージの光のそれである。

 近所にスーパーがあったのでそこへ向かう。

 スーパーは主婦や仕事帰りのサラリーマンなどでごった返していた。


「おい、弁当はそっちじゃないぞ」


 呼び止めると世灰は「弁当を買うなんてお金の無駄よ」と言う。


「だが俺は料理ができない。とても人様に振舞えるようなものは作れない」


「あら、わたしがいるじゃない」


「料理が好きなのか?」


「別にそういうわけじゃないけど」それから世灰は少し微笑んで、「恋人が喜ぶ顔を見たいと思うのは、不自然なことじゃないでしょう?」


「そうか。ならよろしく頼む」


 一通りの食材を世灰の指示のまま買ってアパートに戻った。意外だったのは彼女がしっかりと値段を気にして購入を決めていた点である。最強というからもっと豪快な買い物を予想し、財布の中身を危惧していたのだが、なんというか拍子の抜けたような心境だった。


 アパートに戻ると世界は真っ先にキッチンに向かい、アルサをリビングのソファーに座らせると、「じゃあ待っててね、ダーリン」などと言って、食材と一緒に買ってきたエプロンを制服の上から装着した。


 すぐに食欲をそそる香りが、油が躍るジュージューという音とともに飛び込んでくる。

 アルサは食事に求めるのは栄養だけであって、普段はサプリメント等で済ませているから、それはほとんど作業と変わりがなかった。

 しかし目の前に出されたオムライスはアルサに食事の楽しみを思い起こさせるのに十分すぎる力を持っていた。


「さあ、召し上がれ」


 まず飛び込んでくるのは黄色である。固まっているようないまだに流体を保っているようなそれはあたかも世界の始まりを飾る大いなる一歩であるかのように魅惑的に、しかしどこか刺激をもって全体をあますところなく支配し、まるで春が掻き立てる始まりの予感と期待の表れである。

 黄色の上でハートを描くケッチャプはどことなく挑発的であり、しかし恥じらいと気品を備えていて、それは春の息吹と全時代の終焉を仄かに示しつつ、これから来る夏の強烈な熱風でもってして見る者の姿勢を正させる。

 スプーンで中央を割るとわっと湯気が立ち昇り、部屋の空間に霧散する。熱気が頬に付着し、前髪をかすかに揺らす。甘い芳香が鼻孔を刺激し、食欲にいっそうの活力を与える。

 内側はまさに神秘だった。世界の秘密をあたかも目の当たりにしたように、感情を持て余し、言語は己の力不足に膝をつく。感覚は鋭敏のその感嘆を主張するがあいにく人類はそれを表現する術を持たない。

 一口食べると、まるで全身が痺れるような快楽が駆け抜け、どっと疲労が押し寄せる。脳がくらくらと降参を告げ、しかして本能は強欲であり、さらなる刺激と快楽を求め、スプーンを握る手が休むことを許さない。


「どうかしら」


 世灰が言った。


「美味い」アルサは素直に答える。「こんなにも美味いものを俺は食べたことがない」


「あら、嬉しいわ」


 アルサはおかわりを要求し、しばらくの間世灰と座卓で向かう合うように黙々と食事を続けた。

 食後はアルサが風呂を沸かし、先に世灰が入ることになった。


「覗いたら殺すわよ」


 アルサは意外に思って訊いた。


「おまえもそういうことを気にするんだな」


 羞恥心など大昔に忘れたものだと思っていたのだ。


「当たり前でしょ。わたしは最強である前に、女子高生なのよ。クラスメイトの男の子と二人きりなんて、恥ずかしさで失神しそうよ」


「とてもそうは見えないが」


「ところがどっこい真実なのよ。わたしはあくまで普通の女子高生だわ。つまり、殺せるとしたらそのあたりがキーになってくるのじゃないかしら」


 世灰は挑発的に言った。

 この話題はアルサが最も関心とするところであったので、その詳細を問い直す。


「だからね、わたしをメロメロにすることができれば、あるいはチャンスが舞い降りてくるかもしれないということよ」


 アルサは少し考えてから立ち上がって、風呂場に行こうとする世灰を呼び止めた。

 振り返りざまに世灰を壁に押し付けて、その顔の真横の壁をドンと手で叩く。


「世灰、死んでくれないか」


 言わずと知れた壁ドンである。

 世灰はしばらくの間、ぼんやりしていたが次の瞬間には瞬きをし、アルサは反対側の壁を突き抜けんばかりに身体を打ち付けていた。何をされたのか分からないが、まあ察するに彼女を怒らせてしまったのだろう。


「不合格。出直してきなさい」


 世灰はそう言い残すと風呂場へ消えていった。アルサは背中を中心に甚大な痛みに襲われていたので、その場で悶えていた。苦痛を叫ぶ脳裏で夜唾の言葉を思い出す。


『壁ドン! それから下の名前で呼ぶ。そうすればどんな女の子でもイチコロよ』


 しかしながらドアを閉めた世灰の顔がほんのりと赤らんでいるようであったので、作戦は成功したと言えるのじゃないか。

 もちろん、こんなことで最強を殺せるわけがないのだが、打つ手がない現状はどんなことを試しても愚かとは言えないだろうと、痛みにのたうちまわりながら、アルサは自分に言い聞かせた。



     ⁂


 世灰は寝室で、アルサはリビングの中央の床に何も引かずに寝ていた。そもそも彼はベッドを使う習慣がないので、世灰が使用することに関しては何ら異論を挟む余地がなかった。


 床で寝れば振動が直に伝わってくる。

 アルサの鋭敏な感覚は、寝ていてもその振動を分析し、危険を認識すれば即座に睡眠から覚醒を強要する。


 新居のドア付近は夜の間実に騒がしいものがあった。おそらくフロアに監視カメラなどつけているのだろう。

 他の暗殺者たちにとっては、世灰が拠点をアルサの新居に移すことなど想定外であったに違いない。あわただしくプランを立て直しているのだろうと推測された。


 実際世灰と付き合う意味合いとして、彼女の傍に常に居座るという理由のほかに、他の暗殺者を妨害するという意図もあったから、作戦はうまくいっていると言えた。


 さすがに深夜を二時間も回れば足音も数と頻度を減らす。そんななか、気になる歩調をアルサは見つけた。


 パチリと目を覚ます。


 身体をゆっくりと起こしながらも、注意を怠らない。ドアの前までやってきた足音はそのまま二秒ほど停止し、まったく同じ経路とペースで引き返すと、階段を下りて行った。


 明らかに誘っている節がある。


 制服のまま寝ていたので、上にブレザーだけを羽織って立ち上がる。生憎、拳銃などの武器は持ち合わせていない。

 アルサには武器を持ち歩く習慣がなかった。なぜなら彼の殺しの手段としてそのようなものは不要であるからだ。

 確かに人間は他の動物に比べ肉体的に優れているとは言えない。だが使いようによってはいくらでも汎用できるのが人間である。最初から武器を頼っていてはその可能性を捨てることに直結する。たいていの場合、武器がなくとも人は殺せるのである。


 現在アルサを誘っているのが殺し屋であったとしても、相手が兵罠世灰さいきょうでない限り、彼のルールは適用される。

 もし仮に武器が必要となったならば、相手が用意してきたものを借りればいいのだ。


 誘われている以上、気配を消す必要も、足音を消す必要もない。だが、世灰を起こさない程度に自重して、部屋を抜け、月光のさんざめく外へとアルサは身体を運んだ。


 アパートから出ると、男が一人月を見上げていた。髪の長い若い男だ。あるいはアルサと同年代かもしれない。

 彼の顔を教室で見つけたことをアルサは思い出した。要するに殺し屋である。先ほどの歩き方から察するにそれなりの実力者と言えるだろう。

 そもそもあれだけの行為でアルサを誘いだせると踏んだわけだから、アルサの実力を見抜いていたと言える。


「何か用か?」


 振り返った彼は実に優し気に微笑んだ。


「ついて来てほしいんだ。何、そんなに遠くないさ」


「わかった。だが、おまえが先に歩け」


 男は頷いて歩き始める。アルサは少し距離をおいて、しかし瞬時に接近できる位置を保ったまま、彼の背中を追いかけた。


 夜の街は静かである。


 ときおり遠くの空からパトカーのサイレンが聞こえるのみで、風の音すら音を立てまいと気を漬かっているかのようだった。


 前方を見つめながら、男は話し始めた。


「ぼくの名前は夫檀ふだんドオリと言うんだけど、聞いたことはあるかな?」


 アルサには心当たりがあった。


「何年か前に、まったくの同時刻に夫檀という殺し屋が別々の場所にいる二人のターゲットを殺したという噂を聞いたことがある」


「君に知ってもらえているとは光栄だな。何せ君は殺し屋稼業では有名人だからね。――そうだよ、ぼくがそれをやった」


「方法は?」


「企業秘密さ」


「振り向くな」


「悪い悪い、ついうっかり楽しくなっちゃってね。――でもまさか兵罠世灰と恋人同士になるとは思わなかったな、殺しのトリックスターのぼくですら虚をつかれたよ」


「それが狙いだ」


「だろうね。――で、どうだい。最強を殺す算段は立っているのかな」


「企業秘密だ」


「立っていないのだろうね。まあみんな同じさ。もうずっとあの最強を前に手をこまねている。少なくともぼくには彼女は殺せないだろうなあ」


「ならなぜ辞退しない?」


「報酬がね、他の仕事と段違いなんだ。世界の存続が天秤に載っているわけだから、驚くには値しないけどね」


「このおしゃべりはまだ続くのか?」


 フフフと夫檀は笑った。「もう少しだけ」


「ところで阿須倣あすならくん、この近辺、空き家が多いのには気づいたかな」


「そうは見えないが」


「だろうね。念を入れて隠されている。君は昼間にスーパーに行ったけれど、あそこにいた人々はほぼ全員が地域住民ではないよ。空き家から出てくる人々も、そこには住んでいない。瑞廉高校に現在いる一般生徒のほとんどもすでに一般生徒ではない」


「ほう」


「空き家はここ一年で増加している。何者かが法外な値段で土地ごと買い取っているからさ。何者とは、何者だと思う?」


 アルサが黙っていると、夫檀は笑って述べた。


「米国さ。近々彼らはいよいよ武力でもって最強に挑むようだね。ぼくからしたら無駄な努力だと思うけど、何もしないわけにはいかないんだろう」


「なぜそれを俺に教える?」


「ほんの世間話さ。――ほらついた」


 夫檀ふだんドオリが立ち止まったそこはごく普通の一軒家に見えた。だが彼はここも空き家だという。中に米国の諜報員が入っていない点においても、根っからの空き家であるそうだ。


「ぼくから先に入ったほうがいいかな?」


「当たり前だ」


 ドアに鍵は掛かっていなかった。

 夫檀はゆっくりとドアのぶを回して、開くと、真っ暗な空間に月あかりがサッと差し、中を朧気に照らした。


 そのまま夫檀は中に入る。土足のまま上がり框を越えたのを目撃して、アルサも続いた。

 灯りはつけるつもりがないらしい。

 アルサの身体が玄関の内側へ完全に入り込み、突然背後でドアが閉められたのをきっかけとして、夫檀はどこからかサプレッサーの装着された拳銃を取り出し、アルサに銃口を向け躊躇なく引き金を引いた。


 アルサはその前に反応していた。その前とはドアが不自然な閉まり方をする予兆を本能的に感知した時点である。

 ほとんど第六感とも言うべき経験が導き出した危機は、脳の許可を待たずして目の前の男の拘束に全能力を向かわさせた。


 この時点で夫檀は拳銃を取り出したばかりだった。


 夫檀が拳銃を構えた時には、アルサの身体はすでに元の位置にはなく、人知を超える勢いにまで加速した肉体は、二人の距離を急激に縮めると、銃口が火を噴く済んでのタイミングで、拳銃を下から上に押し上げた。


 発射された弾丸は玄関の壁を突き抜けたまま行方は知れない。


 アルサは止まらない。


 アルサは何も考えていない。


 もはや彼は一つの目的のみに脳の全領域を駆動しており、つまり夫檀の命の消滅という目的の遂行のみを目指して身体は自動的に次なる正解を取り続ける。


 アルサの経験は殺人に必要な運動のすべてを反射の域にまで高めていた。


 十秒。


 これがアルサの絶対なルールである。ターゲットと向かい合って十秒が経過するまでに目的を完遂できなければ、その場を去る。それは自分の身を守る意味であると同時に、制限を付けることで自らの能力を最大限に引き出す目論見がある。


 ゆえに、十秒はアルサにとって実に長すぎる時間だった。


 一秒も経たない間に、アルサは夫檀を背後から間接を捩じり上げ、彼の首をねじ切ろうと今まさに顎に手を置いたところだった。

 暗殺とは相手が死を認識する間もないうちに行わなければならない。暗殺とはつまり相手の命を擦る行為である。ドンとぶつかって財布を抜き取られ、それと気づかない人間と同じように、アルサは刹那的な時間においてターゲットから命を奪い取り、そしてターゲットは死んでなおその事実に気づかないのである。


 だから――と、


 アルサの背中に重い感覚が突き付けられた。


「動くな」


 その声は明らかに後方から発せられたものであるのにも関わらず、今まさに目の前でアルサに命を奪われんとしている者の声であった。

 敵を刺激せぬよう、慎重に首を回すと、そこには夫檀ドオリが立っていた。


「ほう」


 アルサが呟くのと、夫檀ドオリがニヤリと笑い引き金を引くのはほぼ同時であった。


 パン!


 乾いた銃声が夜に鳴く。


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