第37話 サイバートリップ
遺棄エリアに存在する、人々にあらゆる享楽をヴァーチャルに提供する施設。サイバー・トリップと呼ばれるそのシステムは、本来は戦闘シミュレーターとして統合軍科学技術部に拠り開発された代物だが、その試作段階で開発されたプロトタイプが、データ収集の為に使用目的を偽装して設営されているのだ。
大戦後、統合行政府に依り一応の平穏を手にした人々が求めたものは、現実から乖離した幻想だった。遺棄エリア住人達は、日頃の辛さを忘れる為、シティの要人の子息達は現実を超える快楽を求めて。その潜在的需要は、広域犯罪組織ザイードが資金源として眼を付けるのに充分だった。脳組織に直接神経パルスでリンクして、五感を欺き、現実と判別出来ない程の疑似体験をさせるシステムは、容易に人々の精神を虜にする。故に、麻薬同様の常習性を誘起するシステム依存症に因り、廃人になる者も少なからず存在する。ザイードは統合軍との繋がりを背景に、サイバートリップの実質的な経営権を掌握する事を目的として暗躍して居るが、統合軍はザイードの潜在的危険性を憂慮して、経営権を譲渡或いは委任する事は拒絶して居る。両者は相互に利用し合う関係で在り、完全な協調体制を構築しては居ない。
「エリック、此処でカイルに連絡を取れるんだな?サイバートリップは統合軍が管轄していると言う情報も在るが、大丈夫なのか?」
サイバートリップ施設を眺めながら、爽児は不安を隠し切れずにエリックに訊いた。
「ああ。心配は要らないぜ。この施設の設営は師匠が陣頭指揮を執ったんだ。統合軍のネットから独立したシステムが極秘裏に組み込まれてる。其処に不正アクセスすればいいんだ。」
実際には口で言う程簡単な作業では無いのだが、エリックには初歩的な技術を行使すれば事足りる。カイルの英才教育とエリック自身の天才的資質の賜物だ。
「ゲートで脳波測定の後、認証用のチップを渡されるから、それをこのチップに摩り替えて端末に挿入すれば、管理コンピューターを偽情報で欺いて、悠々と師匠とコンタクト出来る様になってる。」
エリックは指の第一関節程度の小型偽造チップを爽児に手渡した。
「・・・そうか。実は俺はヴァーチャル・ダイブは初めてなんだ。脳組織への悪影響は心配要らないのか?」
不安げに訊く爽児に、エリックは呆れた様に答える。
「ソージさん、ジャーナリストだろ?此処の施設はサイバートリップで、ヴァーチャル・ダイブじゃない。ヴァーチャル・ダイブは人間の深層意識を仮想空間に再構築して探索する技術で、主に精神治療や警察の鑑定に利用されてる。サイバートリップは、仮想電脳空間で様々な疑似体験を可能にする技術で、利用目的は軍事シミュレーションや娯楽さ。根本的な技術理論は共通する部分も多いけど、利用目的の点で大きく異なってる。他にも、ヴァーチャル・ヴィジョンってシステムも在るけど、これは空間投影の映像を視覚と聴覚のみで楽しむもの。サイバートリップの簡易版ってところだね。脳組織への影響だけど、長期間に亘って神経パルスに干渉を受けない限り大丈夫。ソージさんは、師匠とのコンタクトの為に短時間仮想空間を体感するだけだから心配要らないよ。」
「成る程。良く解った。・・・それじゃあ、初体験に行って来るか。」
爽児は意を決して、サイバートリップ施設に向かった。
ヴァーチャル・ヴィジョンを看板代わりに使用した派手な外観は、夜の闇で威容を誇って居る。セクシュアリティを強調した美女達が妖艶に舞い踊り、気障に飾り立てたエージェントが颯爽と敵を撃つ。
入口では、均整の取れた顔立ちのエスコートレディが待って居た。案内されるままに、ゲート脇に在るメディカルチェックルームへと入った。簡単な健康検査を受けると、脳波を詳細に測定する為に、環状の機材が爽児の頭部をスキャニングした。
「以上でチェックは終了です。御客様。トリップカプセルに御案内致しますので、こちらのパーソナルデータチップを御持ち下さい。」
エスコートレディが微笑んで、爽児を先導して歩き始めた。
「サイバートリップでは、様々な御客様の夢を仮想体験して頂く事が出来ます。トリップカプセルのナビゲーションシステムの案内に従って簡単な操作を実行するだけで、貴方は素敵な夢の世界の住民になれます。後程フロントに御申し付け頂ければ、長期契約も可能です。」
暫く歩くと、ヴァーチャル・ヴィジョンでトリップルームの文字が躍る入口に着いた。中は無機質な白亜の大広間で、上層階に到る迄数百基のトリップカプセルが設置されている。磁力エレベーターで3階に昇ると、爽児の使用するカプセルに案内された。
「それでは、このカプセルで快適なトリップをお楽しみ下さい。」
音も無く開口した楕円形のカプセルに身を潜り込ませると、目の前の画面でナビゲーションシステムが起動した。合成音声が流れる。
「サイバートリップへようこそ。最初に、御客様のパーソナルデータチップをスロットに挿入して下さい。」
淡く明滅するスロットに、爽児はエリックから渡された偽造チップを挿入した。
「ヘッドセットを装着してリラックスして下さい。脳波とリンクを開始します。」
爽児はカプセル上部から静かに降りて来たヘッドセットを装着して、シートに深く身を委ねると、眠りに落ちる様に爽児の意識は薄れて行った。次に目覚めた時には、溢れる光の奔流の中で爽児の身体は浮遊していた。暖かで眩い光も、羊水中に浮かぶ胎児の様な浮遊感覚も、その全てが仮想空間の事象で在るにも拘らず、爽児の五感は現実世界の出来事で在ると告げている。幾分感覚が慣れたところで周囲を見渡してみたが、視認出来るのは光が満ち溢れた世界が延々と続く光景だけだった。通常のトリップなら、既に精密な仮想空間が構築されてチュートリアルが開始されている処だが、爽児が幾ら待っても何事も起こらない。静寂に耐えかね、不安に駆られた爽児は光の虚空に叫んだ。
「誰か居ないのか!?カイル!俺は貴方に会いに来たんだ!」
数刻の後、突如として空間が歪み、光の中に暗黒の球体が出現した。蒼い電流がコロナの様に球体の表面を走っている。
「これは?どうすればいいんだ!?」
爽児の問いに応えるかの如く、暗黒の球体は周囲に激しく放電して拡散し始めた。光を闇が覆い尽くして、爽児は闇に呑まれた。
朦朧とする意識が覚醒して来ると、周囲の様相が一変しているのが判った。其処は風光明媚なビーチだった。カモメが鳴き、何処迄も続く青い海が、燦然と輝く太陽光を反射して煌いている。
白い砂浜に嬌声が響き、最新流行の際どい水着を身に着けた若い女達が駆け寄って来た。皆モデル並みのプロポーションで、その美貌は眼を瞠る程だ。
「お兄さん、何処から来たの?良かったら一緒に遊ばない?」
「こんな綺麗なビーチで孤独に過ごすなんて馬鹿げてるわ。」
口々に爽児を誘い、纏わり着いて来る。滑らかな柔肌が絡み付く。
「俺は今、遊んでる場合じゃないんだ。悪いけど他を当たってくれ。」
突き放す様に答えると、爽児を取り巻いて居た女達は光の粒子になって霧散した。世界の境界が溶け出してビーチは跡形も無くなり、再び爽児は暗黒の空間に取り込まれた。透過する緑色の燐光を放つ0と1で構成された、立体的な波動が爽児の周囲に満ち溢れる。波動が光り輝きながら鳴動して、人間の音声が合成されて響いた。
「試す様な真似をして済まなかった。仮想世界の快楽に溺れる様な俗物と会見する気は無いのでね。私はカイル。君が捜し求めた相手だ。この空間は私のコンピューターが創り上げた、特別な会見用のシークレットスペースだ。此処での会話は統合軍に感知される心配は無い。」
波動が静かに語り掛けて来る。
「貴方がカイルなのか。俺は緑野爽児。エリックから貴方を紹介して貰ったフリージャーナリストだ。」
「私のデータベースで検索しよう。・・・成る程。君は元プロメタルボウラーなのか。事故に因る怪我が原因で引退後、フリージャーナリストに転身したと言う訳か。しかし、君が扱う記事はスポーツ関連とは程遠い、諸々の犯罪や軍事関連の内容が圧倒的に多い様だが、理由を訊いても構わないかな?」
コンタクトを求めて来た爽児の意図を探る為とも、純粋な好奇心故とも取れる声音で問い掛ける。爽児は躊躇わずに答えた。
「何者かに俺の親友が無残に殺された事件を契機に、俺は変わった。
親友が殺された訳を調査する内に、俺はこの世界の暗部と深く関り、底知れない闇に蠢く邪悪を理解する様になった。外面上は平和を維持して、人々が享楽を謳歌する世界は、その裏側で腐敗が進行している。犯罪組織ザイードや統合軍は、アウタータウンの住民達を蹂躙し、シティの住民達には悦楽を与え、世界を裏と表から支配している。俺はその現実を白日の許に曝したいんだ。そうする事が親友の無念を晴らす事に繋がると信じている。」
数刻の間を置いて、波動がカイルの意思を示す様に反応した。
「・・・個人的な復讐心が君の行動の源泉なのか。その点で君は我々と動機を共有している様だな。単なる青臭い正義感からでは無いと言う事は、私が協力する条件の一つをクリアしている。」
暗に課題を残す含みの在る表現に、爽児は真剣な眼差しで応じる。
「他の条件は何だ?俺は覚悟を決めている。何だろうと呑む。」
薄く笑う様に波動がさざめくと、カイルの声が爽児を制する。
「まあ、そう焦るな。君は、裏社会のネットを利用して何を行おうと言うのだ?」
一転して真剣な口調で問い掛ける。
「統合政府の築き上げた欺瞞に満ちた世界の偽りの仮面を剥ぎ取り、NBC兵器の人体実験やザイードと組んだ麻薬密売の事実を人々に知らせたいんだ。」
熱く語る爽児に、カイルは冷やかに答える。
「だが、それで事態がどう変わる?仮に統合政府の造り上げた世界の欺瞞に気付いたとしても、享楽を求め続けた人々が今更統合政府の管理の母胎からの脱却を望むと思うか?連中の支配体制は磐石だ。君が考えているより遥かに政府は狡猾なのだよ。人々の叛意を奪い、飼い殺しにする事が可能な程の高度管理社会を政府が構築した時、既に我々は大空を自由に舞う翼を捥ぎ取られて居たのだ。」
少しの間考えてから、爽児は答えた。
「その通りかも知れない。だが、貴方も統合軍への抵抗を諦めては居ない筈だ。それに、俺は人々がそれ程愚かだとは思わない。隠匿されてきた真実に触れる事で、この世界は確実に変化を遂げる。時を経る毎に社会の意識は改革され、小さな流れはやがて集積されて巨大な濁流となり、統合政府の構築した巨大な防波堤を崩壊させる。俺はその可能性に賭けて居る。」
爽児の言葉を受け、諦念した隠遁者の如きカイルの口調が一変した。
「君の信条は理解出来た。私の目指す帰結と方向性は同じ様だな。統合軍の完全な破滅と統合政府のイオン量子ヨタAIオメガの構築した管理システムの破壊が私の目標だ。君の信念に基づく行動が、連中の体制を打倒し得る可能性はゼロでは無い。私は君に協力しよう。但し・・・」
「交換条件が在る、と言う訳か。」
「そうだ。君には種を蒔いて貰いたい。」
「種と言うのは?」
「私が開発した、統合政府のネットワークを内部から侵食する時限式プログラムだ。正規のシステムにアクセス可能な、優良市民の君に頼みたい。だが、当然リスクは有る。発覚すれば、統合政府への叛逆罪で極刑も有り得る。それでも請け容れるなら、必ず君の要望に応えよう。」
極刑と言う重い言葉に、爽児は逡巡した。死すらも覚悟の上で臨むと決意しては居たが、リンダの顔が脳裏を過ぎり、心が揺らいだ。
だが、その想い以上に統合軍やザイードに対する怒りの念が爽児を駆り立てる。
「・・・解った。条件を承諾しよう。」
爽児の言葉を受けて、波動が光度を変化させながら歌う様に踊る。
「快諾して貰えて何よりだ。プログラムの受け渡しは、シュトロハイムを通じて、黙示録の旅団に送り届ける。プログラムがそちらに届き次第、追って指示を出す。君は指示の通りに統合政府の施設にプログラムを仕掛けるだけでいい。」
「了解した。それで、俺の依頼は請けて貰えるんだな?」
「無論だ。君が流したい情報が纏まり次第、再度私とコンタクトを取ってくれれば、全世界規模で構築した裏のネットで即座に対応しよう。情報の拡散は加速度的になる筈だ。情報伝播の確実性を担保する為には、確証を掴んで提示する必要が有るが、統合軍の中枢部で正確なデータを得れば済むだろう。シュトロハイムは黙示録の旅団と合同で攻勢を掛ける予定だな。私と違い、君は独りではない。エリックには、解析が終了次第、審判の光計画の詳細データを転送する様に伝えて欲しい。・・・バカ弟子を宜しく頼む。」
次の瞬間、波動を構成していた記号が静止してスピンし始め、数刻後に渦を巻く様に拡散して消滅した。周囲の暗黒の空間が光の波濤に押し流され、爽児の身体が暖かい光に包まれると、次第に爽児の意識は薄れて行った。
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