◆183. どうしたらよかったの? 03/10 ― 大地の名字


(そっか!)


 机の上には、小さな時計も置いてある。黒羽くろはが私の部屋に来た正確な時間は覚えていないが、確実に三十分以上経っている。


「ごめんね、気がつかなくて! もう戻ら――」


 黒羽はこちらを向くと、私の手首を掴み、立ち上がった。引っ張られて、私も立ち上がる。


「黒羽?」


 腕の下から背中に手が回され、引き寄せられた。


「どうしたの? ……ちょっ、く、黒羽っ!? や、やめっ――」


 黒羽の腕の中から抜け出そうともがく。うまく押し返せない。ただでさえ黒羽の力には敵わないのに、体が少し持ち上げられ、つま先立ちになっている。


「――く、苦しいっ! 折れる、どっか折れる!」


「ふふ。どっか、って」


「どっかは、どっか! せ、背骨! も、もう、やめ、く、くる、くる……しい~! ……っ、はっ、はあ~~……」


 やっと腕の力を抜いてくれた。大きく息を吐く。


「もうっ! 何してるの!」


 ポスッ!


 思わず黒羽のひたいを叩く。前髪に邪魔され、良い音はしなかった。


隼人はやとに苦しくされて、嬉しそうにしてたので」


「苦しいのが嬉しいんじゃないよ! 隼人らしいって話! ……わざとでしょ?」


 こんなことは説明しなくてもわかっているはずだ。


「も~。ふっ、ふふっ」


 私が笑うと、黒羽も作り笑顔で微笑んだ。


「ありがとう、黒羽。落ち込んだりしてないよ。それよりも、腹が立つって感じ。だから、大丈夫」


 父から打ち明けられた話――母が芝崎しばさき家、谷原たにはら家から受けていた仕打ちは、ひどいものだった。私自身も和也かずなりにひどい言葉を投げつけられた。


 黒羽は私を元気づけようと、故意に力いっぱい抱きしめてくれた。そう思った。


菖蒲あやめ様……」


 黒羽の腕に再び力が入る。苦しくない。今度は優しく抱きしめられた。


「なあに」


 黒羽は私の頭に頬を寄せた。


「気をつけてください。旦那様が言うように、次に会ってしまったとき、家の外で会ってしまったときは、逃げてください。言い合いをして、刺激するのはダメです」


「うん」


「絶対に、ですよ」


「うん。絶対に逃げるね。逃げられなさそうだったり、しつこかったりしたら、大地だいちの名前!」


「そうです」


 黒羽は私の頭に頬をくっつけたままうなずいた。


(心配してくれて、ありがとう)


「…………菖蒲様。大地の名前、言ってみてください」


「え? 大地でしょ?」


(……ん? ……あっ!)


 両腕を掴まれ、グイッと体を離された。


 黒羽は私を見据えている。ジトッとした目をしている。


「え、えっと~……。え、えへへ?」


 上目遣いで首をかしげる。怒られると思ったので、少しでも取りつくろおうとした。


「かっ――……、はーっ。えへへ、じゃないですよ! 大地の名字、覚えてないじゃないですか!」


「だ、だって! 大地のこと、みんな『大地』って呼ぶから! ちょっといきなりだったから、すぐに出てこなかっただけだよ」


「じゃあ、待ちます。言ってみてください」


「……えっと~」


(あ、秋塚あきつか。い、う、え、お、大西おおにし。か、き、く、け、こ、湖月こげつ小清水こしみず……)


 五十音を順番に思い浮かべていく。


(……や、山口やまぐち山科やましな。ゆ、よ。ら、り、る、れ、ろ。わ……)


 ゆっくりと黒羽の顔を見上げた。目が合う。


「答えてください」


「……わ、忘れちゃった」


 大地は「自分の名前が嫌いだから」と、ずっと名字を教えてくれなかった。

 小清水邸で湖月家の使用人を辞めると大地に聞いた日から二日後。休暇が終わり帰ってきた大地から、改めて辞めることを聞いた。その時に「もう教えてくれてもいいでしょ?」とたずねたら、「もういいか」と教えてくれた。

 隼人の名字も「大地さんが教えたら、私も教えますね」と教えてもらえずにいた。大地が教えてくれたので、隼人も教えてくれた。


 やっと知ることができた二人の名字だったのだが、名字を呼ぶことはなかったので、どちらもすぐに忘れてしまった。特に大地の名字は聞きなれない名字で覚えにくかった。数日おきに、「もう一回教えて」を繰り返し、なんとか覚えた。


 あれから数年、大地の名字を口にすることも、書くこともなかった。隼人の名字――『山科』を覚えているのは、手紙に書いてあるし、書くからだ。

 一度だけだが、大地からも手紙をもらったことはある。でも、あの手紙の送り主は《大地》となっていた。名字どころか住所も書かれていなかった。


 黒羽は、はああ、と大きなため息をつき、「ササウラ、です」と教えてくれた。


「あ~、そうそう。そんな感じだった」


「ちゃんと、ササウラ、って言わないとダメですよ」


「そうだね。ササウラ大地、って言わないと」


「しっかり覚えてください。すぐに言えるように」


 大地という名前の騎士は、たくさんいるかもしれない。騎士としては、名字で通っているかもしれない。

『最短の二年で上級になったすごい騎士が味方にいるんだぞ』と牽制するためには、フルネームで言わないと伝わらないかもしれない。


(危なかった~。……そうだ)


 黒羽から離れ、机に向かう。メモ帳を取り出し、ペンを握った。


「ササウラ、ね。ササ……」


(……『佐々』だっけ? 『笹』ではなかったような? 繰り返しの『々』はついてたよね? ウラは『浦』だったはず)


 メモ帳に視線を落としたまま尋ねる。


「ササって、どう書くんだっけ?」


「貸してください」


 後ろから伸びてきた手にペンを奪われた。


 黒羽は左手を机につき、私を机との間に置いたまま、メモ帳に書きはじめた。じっとする。書きやすいようにどきたいが逃げ場がない。


「……あ~、そうだった」


(『楽々』でササだった。『楽々浦ささうら』って書いてあったら……)


「ラクラクウラって読んじゃいそう、って言ったような気がする」


(……でも、この字って見たことある……かも? 教えてもらった時じゃなくて。……地名? うーん……。あ、『谷原』と『大西』もメモしておいたほうがいいかな? 芝崎は忘れないけど、お母様の実家とお姉さんの名字は忘れちゃうかも……)


 ふと時計が視界に入る。


「そうだ! 時間だよ、時間。ごめんね、いっぱい喋っちゃって。早く戻らないと――」


 先ほど言いかけたままになっていたことを思いだし、黒羽に顔を向けた。


(――あっ)


 鼻先が黒羽の顔をかすめた。思ったよりも近くに黒羽の顔があった。


 ごめんね、と私が口にするよりも速く、黒羽は数歩後ろに下がった。飛び退くような動きだった。私と目が合うと、ゆっくりともう二三歩にさんぽ後退した。


「……ごめんね」


「いえ。大丈夫です」


 黒羽は困ったような顔で微笑んだ。かすかに胸がチクリとする。


「話、聞いてくれてありがとう。大地の名前も教えてくれて。これで、芝崎が来てもバッチリ」


「来ないのが一番です」


「そうだね。もう二度と会いたくないな。……それじゃ、また明日ね。おやすみ」


 その場で小さく手を振った。近づかないほうがよいと思ったからだ。


「菖蒲様」


「なあに」


「おやすみのキスを」


「大丈夫」


「……大丈夫っていうのは?」


「しなくて大丈夫」


一加いちかさんと一護いちごくんとは?」


「え? してるけど」


「そうですか」


 黒羽がつかつかと歩み寄ってきた。むにっと顔を両手ではさまれる。


「にゃ、にゃに?」


「仲間はずれはダメですよ」


「ほういう意味やにゃいよ!」


「四日分、しときますね」


 黒羽はそう言うと、手を後頭部のほうにずらし、ひたい、鼻先、左頬、右頬と、おやすみのキスをした。ゆっくりと黒羽の手が離れる。


「……無理しなくていいのに……」キスされた頬に指先でふれ、呟いた。


「さあ、菖蒲様。お願いします」


 黒羽が少しかがんだ。肩に手を置き、おやすみのキスをする。同じように四箇所、軽くふれた。


 ベッドに入ってから気がついた。三泊四日なのだから、おやすみのキスは三回だ。四回では一回多い。

 黒羽も私もうっかりさんだな、と思いながら目をつむった。

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