◆183. どうしたらよかったの? 03/10 ― 大地の名字
(そっか!)
机の上には、小さな時計も置いてある。
「ごめんね、気がつかなくて! もう戻ら――」
黒羽はこちらを向くと、私の手首を掴み、立ち上がった。引っ張られて、私も立ち上がる。
「黒羽?」
腕の下から背中に手が回され、引き寄せられた。
「どうしたの? ……ちょっ、く、黒羽っ!? や、やめっ――」
黒羽の腕の中から抜け出そうともがく。うまく押し返せない。ただでさえ黒羽の力には敵わないのに、体が少し持ち上げられ、つま先立ちになっている。
「――く、苦しいっ! 折れる、どっか折れる!」
「ふふ。どっか、って」
「どっかは、どっか! せ、背骨! も、もう、やめ、く、くる、くる……しい~! ……っ、はっ、はあ~~……」
やっと腕の力を抜いてくれた。大きく息を吐く。
「もうっ! 何してるの!」
ポスッ!
思わず黒羽の
「
「苦しいのが嬉しいんじゃないよ! 隼人らしいって話! ……わざとでしょ?」
こんなことは説明しなくてもわかっているはずだ。
「も~。ふっ、ふふっ」
私が笑うと、黒羽も作り笑顔で微笑んだ。
「ありがとう、黒羽。落ち込んだりしてないよ。それよりも、腹が立つって感じ。だから、大丈夫」
父から打ち明けられた話――母が
黒羽は私を元気づけようと、故意に力いっぱい抱きしめてくれた。そう思った。
「
黒羽の腕に再び力が入る。苦しくない。今度は優しく抱きしめられた。
「なあに」
黒羽は私の頭に頬を寄せた。
「気をつけてください。旦那様が言うように、次に会ってしまったとき、家の外で会ってしまったときは、逃げてください。言い合いをして、刺激するのはダメです」
「うん」
「絶対に、ですよ」
「うん。絶対に逃げるね。逃げられなさそうだったり、しつこかったりしたら、
「そうです」
黒羽は私の頭に頬をくっつけたまま
(心配してくれて、ありがとう)
「…………菖蒲様。大地の名前、言ってみてください」
「え? 大地でしょ?」
(……ん? ……あっ!)
両腕を掴まれ、グイッと体を離された。
黒羽は私を見据えている。ジトッとした目をしている。
「え、えっと~……。え、えへへ?」
上目遣いで首をかしげる。怒られると思ったので、少しでも取りつくろおうとした。
「かっ――……、はーっ。えへへ、じゃないですよ! 大地の名字、覚えてないじゃないですか!」
「だ、だって! 大地のこと、みんな『大地』って呼ぶから! ちょっといきなりだったから、すぐに出てこなかっただけだよ」
「じゃあ、待ちます。言ってみてください」
「……えっと~」
(あ、
五十音を順番に思い浮かべていく。
(……や、
ゆっくりと黒羽の顔を見上げた。目が合う。
「答えてください」
「……わ、忘れちゃった」
大地は「自分の名前が嫌いだから」と、ずっと名字を教えてくれなかった。
小清水邸で湖月家の使用人を辞めると大地に聞いた日から二日後。休暇が終わり帰ってきた大地から、改めて辞めることを聞いた。その時に「もう教えてくれてもいいでしょ?」と
隼人の名字も「大地さんが教えたら、私も教えますね」と教えてもらえずにいた。大地が教えてくれたので、隼人も教えてくれた。
やっと知ることができた二人の名字だったのだが、名字を呼ぶことはなかったので、どちらもすぐに忘れてしまった。特に大地の名字は聞きなれない名字で覚えにくかった。数日おきに、「もう一回教えて」を繰り返し、なんとか覚えた。
あれから数年、大地の名字を口にすることも、書くこともなかった。隼人の名字――『山科』を覚えているのは、手紙に書いてあるし、書くからだ。
一度だけだが、大地からも手紙をもらったことはある。でも、あの手紙の送り主は《大地》となっていた。名字どころか住所も書かれていなかった。
黒羽は、はああ、と大きなため息をつき、「ササウラ、です」と教えてくれた。
「あ~、そうそう。そんな感じだった」
「ちゃんと、ササウラ、って言わないとダメですよ」
「そうだね。ササウラ大地、って言わないと」
「しっかり覚えてください。すぐに言えるように」
大地という名前の騎士は、たくさんいるかもしれない。騎士としては、名字で通っているかもしれない。
『最短の二年で上級になったすごい騎士が味方にいるんだぞ』と牽制するためには、フルネームで言わないと伝わらないかもしれない。
(危なかった~。……そうだ)
黒羽から離れ、机に向かう。メモ帳を取り出し、ペンを握った。
「ササウラ、ね。ササ……」
(……『佐々』だっけ? 『笹』ではなかったような? 繰り返しの『々』はついてたよね? ウラは『浦』だったはず)
メモ帳に視線を落としたまま尋ねる。
「ササって、どう書くんだっけ?」
「貸してください」
後ろから伸びてきた手にペンを奪われた。
黒羽は左手を机につき、私を机との間に置いたまま、メモ帳に書きはじめた。じっとする。書きやすいようにどきたいが逃げ場がない。
「……あ~、そうだった」
(『楽々』でササだった。『
「ラクラクウラって読んじゃいそう、って言ったような気がする」
(……でも、この字って見たことある……かも? 教えてもらった時じゃなくて。……地名? うーん……。あ、『谷原』と『大西』もメモしておいたほうがいいかな? 芝崎は忘れないけど、お母様の実家とお姉さんの名字は忘れちゃうかも……)
ふと時計が視界に入る。
「そうだ! 時間だよ、時間。ごめんね、いっぱい喋っちゃって。早く戻らないと――」
先ほど言いかけたままになっていたことを思いだし、黒羽に顔を向けた。
(――あっ)
鼻先が黒羽の顔をかすめた。思ったよりも近くに黒羽の顔があった。
ごめんね、と私が口にするよりも速く、黒羽は数歩後ろに下がった。飛び退くような動きだった。私と目が合うと、ゆっくりともう
「……ごめんね」
「いえ。大丈夫です」
黒羽は困ったような顔で微笑んだ。かすかに胸がチクリとする。
「話、聞いてくれてありがとう。大地の名前も教えてくれて。これで、芝崎が来てもバッチリ」
「来ないのが一番です」
「そうだね。もう二度と会いたくないな。……それじゃ、また明日ね。おやすみ」
その場で小さく手を振った。近づかないほうがよいと思ったからだ。
「菖蒲様」
「なあに」
「おやすみのキスを」
「大丈夫」
「……大丈夫っていうのは?」
「しなくて大丈夫」
「
「え? してるけど」
「そうですか」
黒羽がつかつかと歩み寄ってきた。むにっと顔を両手で
「にゃ、にゃに?」
「仲間はずれはダメですよ」
「ほういう意味やにゃいよ!」
「四日分、しときますね」
黒羽はそう言うと、手を後頭部のほうにずらし、
「……無理しなくていいのに……」キスされた頬に指先でふれ、呟いた。
「さあ、菖蒲様。お願いします」
黒羽が少し
ベッドに入ってから気がついた。三泊四日なのだから、おやすみのキスは三回だ。四回では一回多い。
黒羽も私もうっかりさんだな、と思いながら目を
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