145. 山口家の事情 1/5 ― じいちゃん先生(茂)


「はあ~、わかんねぇ……」


 課題を前に、ため息が出た。


(じいちゃん先生、元気にしてっかな?)


 ノートの上で頬杖をつき、窓の外を見た――。



 俺は三歳の頃から学習学校に通っていた。普通はそんなに小さいときから通わない。三歳を預かってくれる学校は珍しい。


 俺が通えたのは父ちゃんのおかげ、だそうだ。


 父ちゃんが死んだとき、父ちゃんが仲良くしていた人に学習学校の経営者がいて、その人が小さい俺でも預かると言ってくれた。だから母ちゃんは働けて、父ちゃんとの思い出がいっぱいあるこの家で、俺と二人で暮らすことができる。

 母ちゃんは、嬉しかったり、怒ったりしたときに、この話をする。何回も聞かされてきた。


「今こうしていられるのは、もとをたどれば父ちゃんがいい人だったから」母ちゃんの口癖だ。


 その経営者は、子どもが好きで、先生もしていた。学校のやつらみんなに、『じいちゃん先生』と呼ばれていた。

 学校の先生に、若いやつはいなかった。じいちゃんばあちゃんみたいな先生ばっかりだった。その中でも、じいちゃん先生はじいちゃんだった。


 母ちゃんが仕事に行っている間は、じいちゃん先生と過ごした。ほかの先生たちも、学校のにいちゃんやねえちゃんたちも、俺と仲良くしてくれた。


 十二歳になっても、俺は学校で一番年下だった。生徒は、十四歳が三人と、十三歳が二人と、俺しかいなかった。前はもっと大勢いたけど、どんどん減ってきてしまった。ボロい学校だったから、人気がなかったんだと思う。


しげるを送り出すときに、学校をたたむのも悪くないな」


 じいちゃん先生は、少し前から、冗談まじりにそんなことを言うようになっていた。


 寂しいけど、しょうがないと思った。それに、じいちゃん先生はじいちゃんだ。仕事を辞めて、ゆっくりしたほうがいいんじゃないかとも思った。


 俺が最後の生徒になるかもしれない。俺はずっと世話になってきた。学園に行くまでに、じいちゃん先生孝行をちょっとでもしたい、と思うようになった。


 あと四年。じいちゃん先生との時間を大切にしようと思った。


 あと四年。あるはずだった。急に終わるなんて思わなかった。


 学校が火事になった。学校は空き地みたいなところに建っていた。夜だったから、誰もいなかった。校舎と、周りの木が数本燃えただけで、ほかに被害はなかった。


 じいちゃん先生は、俺たちに怪我がなくて良かったと笑った。でも、真っ黒焦げになってしまった校舎を、悲しそうな顔で見ていた。


 数日後、じいちゃん先生は倒れてしまった。


 学校が火事になってから、昼間はじいちゃん先生の家で過ごしていた。じいちゃん先生が倒れたのは、母ちゃんが俺を迎えに来たときだった。

 医者は、年齢と精神的なものだろうと言った。じいちゃん先生は入院することになった。


 一日おきに、母ちゃんとお見舞いに行った。じいちゃん先生の家族は近くにいない。俺たちが家族みたいなものだ。


 五回目か、六回目かのお見舞いに行った日。じいちゃん先生は、知らないばあちゃんと一緒にいた。


「小夜さん、すまん。茂、送り出せなくてごめんよ」


 じいちゃん先生は、母ちゃんと俺に謝った。体調が良くなったら、妹の近くに引っ越すことにしたと泣いた。知らないばあちゃんは、じいちゃん先生の妹だった。

 じいちゃん先生がいなくなってしまう。涙が出た。母ちゃんも、寂しくなると涙ぐんでいた。


「しばらくの間、家で勉強でいい?」


 母ちゃんは顔の前で両手を合わせて言った。


「別にずっとでもいーよ」と返すと、「そういうわけにはいかないの」と俺の頭を小突いた。


 ウチは貧乏ではない。けど、余裕があるわけでもない。じいちゃん先生の学校は、ほかの学校と比べて、かなり安いらしいが、俺が三歳の頃からずっと払い続けてきた。それに、俺が学園に通うための金を貯金している。


 家の近くには、じいちゃん先生の学校と同じ金で通える学校はないらしかった。探して引っ越すしかない。でも、引っ越した先で、母ちゃんにいい仕事が見つかるかはわからない。

 学園貯金をやめて、学校に払う金にすればいいと思った。でも、貯金をやめたくないのか、母ちゃんはすぐにそうしなかった。


「もしもし、茂くん。相談があるんだけど」


 火事から三週間とちょっと経った日、母ちゃんが俺の顔をのぞき込んできた。どうするか決めたみたいだった。


 母ちゃんはこの家が好きだ。今の仕事が好きだ。だから、引っ越しを選んだときは、反対しようと思った。

 俺は、このまま家で勉強するか、学園貯金をやめるで構わない。学園に行く金が足りないなら、俺が国から借りればいいだけだ。


 母ちゃんが出した答えは、俺が考えていたどの答えとも違っていた。


 正直、華族かぞくのお屋敷なんかに通いたくなかった。華族のお嬢様と一緒に、家庭教師に教えてもらうなんて、面倒くさいと思った。だけど、一番今までと変わらないと思った。


「それでいーよ」うなずいた。


 母ちゃんは、一瞬、ホッとしたような顔をした。でも、すぐに「本当にいいの?」と心配そうな顔をした。


「マジでいーよ。母ちゃんと通うのも、母ちゃんたちの仕事の手伝いすんのも、めんどくせぇから、家にいるのが一番いーけどな」


「茂……。ありがとう。でも、母ちゃんと一緒が面倒ってなによ。嬉しいでしょ!」


 母ちゃんは、笑顔で俺の頭を小突いた。



「――ふぁ~あ。はあ」


 アクビとため息が出た。


(ねみぃ)


 顔を洗うために勉強部屋を出た。


(学校の火事。ぜってー、あの二人がやったはずなのに……)


 俺は怪しいやつらに会っていた。少しだけやり合った。近所の騎士団に伝えた。どうにもならなかった。

 相手にされなかったわけじゃない。騎士のにいちゃんは、ちゃんと話を聞いてくれた。


 ただ、そいつらが誰かもわからなかったし、証拠もなかった。それに、会ったのは当日じゃない。


 火事から一ヶ月以上経っていた――。



 学校に向かっていた。九年くらい過ごした場所だ。火事になってからも、ちょくちょく眺めに行っていた。


 もう少しで学校、というところで、話し声が聞こえてきた。俺は細い路地から通りに出るところだった。そいつらは俺に気づいていなかった。


「きれいに燃えてましたね」


「真っ黒だったな。火事って怖いな。今度から気をつけよう」


「でも、遠いところ、わざわざ見に来るなんて。犯人は現場に戻ってくるって、本当ですね」


「犯人? 僕は被害者だよ。たまたまタバコを吸っていた場所が、たまたま火事になってただけだ」


「被害者?」


「偶然のせいで、こうして遠出した。気分も悪い。被害者だ」


 カッとなり、路地から飛び出した。


「おいっ! お前ら! 今の話、聞いたぞ! あの火事はお前らのせいかっ!!」


 話をしていたのは、俺と同じ年くらいの二人組の男だった。


「な、何を言ってるんだ! 言いがかりはよせ!」


「そうですよ! 何か証拠でもあるんですか!?」


「今の話が証拠だろっ!」


 あわてている二人をにらみながら、少しずつゆっくりと近づいた。


「おい、来るな……」


 今にも逃げ出しそうな、背が低いほうのやつの肩を掴もうとした。


「庶民が気安く触るなっ!」


「うっ! いってぇ……」


 そいつは、まだ触っていない俺の手を振りほどこうと、腕を振り回した。

 たぶん、指輪だ。そいつのしていた指輪が、俺の頬を引っかいた。


「お前が悪いっ!」


 突き飛ばされた。よろけて建物にぶつかった。


 そいつは走り出した。もう一人も、「お坊ちゃま、待ってください」と言いながら逃げていった。


 追いかけようとしたができなかった。壊れた壁の出っぱりに、服が引っかかっていた。外している間に見失ってしまった。


 騎士の詰め所に駆け込んだ。騎士のにいちゃんに、二人組の男の話をした。

 二人の特徴を聞かれたが、ほとんど答えられなかった。顔はしっかりと見たが、説明はできなかった。二人とも俺みたいな普通の服を着ていた。お坊ちゃまと呼ばれていたほうもだ。変装していたのかもしれない。


「君と同じくらいの年。たぶん一人は華族。たぶん近くには住んでいない。これだけでは、見つけることは難しいかもしれない」


 騎士のにいちゃんは、俺の頬に絆創膏を貼りながら、言いにくそうに言った。


 二ヶ月経っても、二人組の男は見つからなかった。


 じいちゃん先生が、人に被害はなかったからと、犯人探しに消極的だったこともあり、学校の火事は原因不明で片づけられた。


 結局、変わったのは、俺がぶつかった建物の壁の出っぱりだけだった。体にあたっていたら、怪我をしていたかもしれない。騎士のにいちゃんに、危ないと言っておいた。対応してくれたんだと思う。修理されていた。



(――俺が冷静だったら……)


 二人の前に飛び出さずに、尾行すれば良かった。あとから思った。そうすればきっと、どこのどいつだったのか特定できたはずだ。


菖蒲ショウたちには、わりぃことしたな)


 俺が二人組の男に会ったのは、湖月こげつ邸に通いはじめる前日だった。


 ムカついていた。華族とその腰巾着に。


 だから、思いっきりバカにしてやった。お嬢様と呼ばれていたやつと、お嬢様と呼んでいたやつらを。


(あいつらは関係ねーのにな……)


 ひたいを右手でなでた。

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