118. 本屋巡り 3/3 ― 幸せな不満 (悠子)
「あ、あのね、
「はい?」
「パンケーキ、食べたくないですか? あの、食べませんか?」
「いいですね」
「半分こしますか? 一つずつ頼みますか?」
「わ、私は一つ食べられますよ。二つ違うものを頼んで、は、半分こしてもいいですし。お嬢様におまかせします。好きなものを頼んでください」
「二つ頼んでもいいんですか? それじゃ、注文しちゃいますね。あ、紅茶も飲みたいな。どうしますか?」
「私も紅茶で。ホットで、お、お願いします」
「はい!」
お嬢様はすぐさま給仕人を呼び、迷うことなく注文した。食べたいものを二つ、私に確認する前から決めていたようだ。紅茶を二つと、パンケーキと玉子サンドを頼んでいた。
こうして見ていると、お嬢様は、お嬢様っぽくない。本人もそう思っていて、家の外で『お嬢様』と呼ばれることを嫌がっている。
決してお嬢様のことを
(あ、ほら、今の表情とか。伏し目がちにしてると、すごくそれっぽい)
気だるげな視線の先が、氷の下に入り込んだサクランボという点が少し残念だが、お嬢様っぽい表情だった。
(気の強い感じじゃなくて、儚げな感じのお嬢様なんですよね。でも、見た目の儚さが、雰囲気と言動で相殺されてるというか……)
お嬢様は、ストローの先をサクランボにあて、息を吸った。サクランボをストローの先にくっつけたまま、コップの一番下から上のほうまで持ち上げた。
(……私の願望が、そう思わせてるだけなんでしょうか)
私に意地悪をしない、私のことを
お喋りをしながら、お嬢様のことを観察していると、注文したものが運ばれてきた。お嬢様は、玉子サンドを手に取った。
「
お嬢様は話の最後に、私の顔をジッと見つめた。
私が黒羽くんのことを良く思っていないことは、使用人のみんなが知っている。本人もだ。
警戒心がだだ
このことを知らないのは、旦那様とお嬢様、
お嬢様は、私が未だに黒羽くんに人見知りをしていると思っている。お嬢様の前で黒羽くんに宣戦布告して以降、お嬢様の前だけではそのように振る舞ってきた。
本当のことを知らないお嬢様は、私が少しでも黒羽くんに親しみを感じられるようにと、たまにこうして黒羽くんのことを教えてくれる。
「そそ、そうなんですね。それは、きっと玉子サンドが好きですね。玉子サンド、美味しいですよね。お嬢様も好きですか?」
私が笑顔で返すと、お嬢様はホッとしたような顔で「はい」と
パンケーキを半分に切り分けた。片方にバターを半分乗せ、シロップをかけた。一口サイズに切り、口に運んだ。
黒羽くんのことは、前より嫌いではなくなった。素敵な作り笑顔ではない顔も見せてくれた。嫌がらせもしてこない。
お嬢様に対しても、悪さをしないような気がしてきている。黒羽くんが狙っているのは、お嬢様の先にある湖月家ではなく、お嬢様自身のようだ。
(もし、もしも、お嬢様と黒羽くんが……。そうなったら、信用してもいいですけど……。でも、その先で何があるかわからないですし)
テーブルの上の小さいメニューに目を向けた。『カツサンド』がオススメと載っている。オススメ好きのお嬢様なら、こちらを頼みそうだ。「初めてのお店では、オススメを頼まないと! あと、迷ったときも!」と言っているのを聞いたことがある。
ここはお嬢様にとって、初めてのお店だ。たまたまそういう気分では、なかったのかもしれない。私に黒羽くんの話をするためだったのかもしれない。
(オススメではなくて、黒羽くんの好きな玉子サンド……ですか)
お嬢様は、玉子サンドを食べ終え、パンケーキを食べはじめた。
残っていた玉子サンドを手に取った。気をつけて食べないと、具がこぼれ落ちそうだ。口を大きく開けて頬張った。
お嬢様が慕っている人を疑うのは、気が引ける。だけど、警戒しておくに越したことはない。
(いつか、この警戒が無駄であったと笑わせてください)
大嫌いな令息令嬢ではないが、大嫌いな素敵な作り笑顔をする黒羽くんに、そう願った。
(ふふ。可愛らしい)
喫茶店を出ると、お嬢様が手をつないできた。
今日、最初に手を握ってきたときは驚いた。お嬢様もハッとして手を離した。焦りながら、癖だと教えてくれた。何度か間違って手に触れてきた。「迷子にならないように、つないでおきましょう」と私が言うと、「ありがとうございます」とはにかむように微笑んだ。
それから、移動中は手をつないでいる。
(
あとから聞いた話だが、旦那様たちは私が相談窓口でいろいろ言われているのを聞いていたのだそうだ。窓口の女性の声は大きく、響いていた。たぶん、響かせていた。嫌な言い方をさせてもらうと、私のことを
私のこれまでの勤め口は、問題のある家ばかりだった。最初のところは、新人か新人から二人目が、子どもの標的となり潰される家。老夫婦のところは、使用人が孫たちのオモチャにされる家。残り二つも似たような家だった。
たまたま意地の悪い令息令嬢ばかり相手にしていたということがわかった。それでも、令息令嬢が嫌いだという気持ちは変わらなかった。
そんなところばかりを紹介してきた斡旋所に腹が立ったが、私も悪かったと反省した。
他の使用人と、もっと話をして、噂話に耳を傾けていれば、三、四口目は回避できたかもしれない。斡旋所の人と、もっと話し合いをしていれば、違うところを紹介してもらえたかもしれない。
人と接するのが苦手だからと、他の使用人とも斡旋所の人とも、あまり話をしてこなかった。
「あの家であの期間なら、続いたほうよ」
教えてもらった事実に呆然としていると、理恵さんは笑いながら励ましてくれた。
(ここの待遇と雇用条件、普通だって理恵さんは言ってましたけど。かなり良いと思うんですよね。家賃とか出費が増えましたけど、前より全然手元に残りますし。その他も。大事にされてるっていいますか……。本当、地獄から天国って感じです)
湖月邸で働くことに不満はない。
と、言いたいところだが、実は一つだけ不満がある。
(仕事着が、ズボンにエプロンっていうのが……。メイド服だったら文句なしだったんですけど。ホワイトブリム着けたかったな)
「ふふ」
「嬉しそうですね」
私が思わず笑みをこぼすと、お嬢様が見上げてきた。
「はい。不満があって」
「不満? ですか?」お嬢様は首を
「ええ。幸せな不満です」
数年前に比べて、なんて幸せな不満なんだろうと嬉しくなった。
微かに花の香りのする春の空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。お嬢様とつないだ手を、少し大きく前後に振りながら、湖月邸までの道をゆっくりと歩いた。
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