117. 本屋巡り 2/3 ― ある決意  (悠子)


「この期間で、こんなに辞められたんですか? 考え直してみてはいかがですか?」


 斡旋あっせん所の相談窓口で、職員の女性にそんなことを言われた。遠回しに、この仕事向いてないですよ、と言われてしまった。

 何をされても続ける気概はないのに、夢をあきらめることができなかった。老夫婦のところをクビになってから、同じようなことを二回繰り返していた。

 考え直せと言いたくもなるだろう。


 どこに行っても、なぜか笑顔の素敵な令息令嬢がいて、なぜか堂々とまたは裏で私にひどいことをしてきた。

 私は、すぐにビクビクするし、どもるので、からかいやすいということはわかっている。でも、こんな揃いも揃って、辞めるまで追い込むようなことをしてくるなんて、令息令嬢なんそうでもあるのではないかと思った。


 よろよろとその場を離れた。邪魔にならないよう壁に寄った。窓口を眺め、途方に暮れた。仕事を紹介してもらえなかった。

 あきらめるしかないのかと涙ぐんでいると、横から声をかけられた。


「少しお話よろしいですか?」


 顔を向けると、髪を一つに結んだ、三十代くらいの女性がいた。思わず一歩、壁伝いに後退あとずさりしてしまった。女性の後ろに、仮面みたいなものをつけた、顔の怖い男性が立っていたからだ。


 斡旋所には、顔合わせをしたりするための小部屋がある。その小部屋の一つを借り、話をすることになった。


 女性は、里山さとやま理恵りえと名乗った。理恵さんは、書類を広げて、仕事内容やお給料の話をテキパキとしてくれた。

 とても良い条件だった。話を聞いていて、途中から、何か裏があるのではないか、と思ってしまうほどだった。


 住み込みでも通いでも、どちらでも構わないという点に驚いた。普通は住み込みだ。しかも、労働時間がはっきりと決められていた。その日の仕事によっては、多少ズレることもあるらしいが全く問題なかった。

 普通は休みなど、あってないようなものだ。大きなお屋敷で、使用人を何十人と抱えているところだと交代で取れる。そうでないところでは、ほとんど休みはない。私がこの二年弱で働いたところは、どこもそうだった。そういうものだと教えられた。休みはあるものだと思っていた私は、考えが甘いと叱られてきた。


 私には、もうあとがない。嘘をついてでも、この話に飛びつきたかった。でも、嘘はつけない。自分の経歴を正直に話した。これまで、どのような仕事を経験し、辞めてきたのかを話した。辞めた理由は、一身上の都合ということにした。令息令嬢たちのことは言うべきではないと思った。それに、自分の都合には違いなかった。

 二年間で四口も辞めている。この話はなかったことになるだろうと、顔を伏せた。理恵さんではなく、一緒にいた男性が「問題ない」と応えた。最後の最後に、怖い顔の男性が、旦那様だということを知った。


 こうして私は湖月こげつ邸で働くことになった。


 不安はあった。条件は良いが、お嬢様がいる。今度こそ頑張ろうという気持ちはあったが、自信はなかった。


 どうか、どうか今までの令息令嬢たちとは違いますように――。


 祈るような気持ちで迎えた、お嬢様との初顔合わせの日。私は恐れおののいた。お嬢様ではなく、隣に立っていた男の子に。


 とても素敵な笑顔だった。誰もがつられて微笑んでしまうような、素敵な笑顔。

 私が湖月家で一番警戒しなければならないのは、お嬢様ではなく、この男の子だと確信した。絶対に騙されない、と気合いを入れた。


 一番警戒すべきは黒羽くろはくんだが、お嬢様にも警戒は怠れない。いつ豹変するかわからない。おとなしそうに見えて実は、ということもある。


 湖月邸で働きはじめて数週間後。どうしても耐えられず、廊下にあるソファーに腰を下ろした。うなだれ、目をつむり、両手をこめかみにあてた。

 失敗はできないと、気を張りすぎていたのかもしれない。毎日、頭痛がひどかった。いつの頃からか、慢性的な頭痛に悩まされるようになっていた。時おり襲ってくる頭痛を、なんとか誤魔化しながらやってきた。


「あの~、大丈夫ですか?」


 ハッとして、顔を上げた。お嬢様が目の前に立っていた。しまった、やってしまった、私の馬鹿、と心の中で叫んだ。

 いつもは別邸にいるお嬢様たちが、こちらに来ている日だった。仕事中に座っているところを見られてしまった。何を言われるかわからない。終わった、と思った。終わらなくても、つらい日々がはじまるのだと覚悟した。


「気分が悪いんですか? お腹痛いんですか? 風邪ですか? 熱ですか? 熱は……、ないですね? 頭押さえてるから……、頭痛ですか? 他に痛いところは?」


 話しかけてこないだけではなく、自分からは近くにすら寄ってこないお嬢様からの質問攻めに、つい素直に答えてしまった。ひどい頭痛のせいで、判断力が低下していたのかもしれない。質問の途中、小さい手が私の手にそっと触れた。小首をかしげて、熱があるかどうかを確認している様子を見て、可愛らしいな、などと関係のないことを思ってしまっていた。


 お嬢様はパタパタと駆けていった。ボーッとお嬢様が消えた先を眺めていた。一人分ではない足音が聞こえてきた。理恵りえさんを連れて戻ってきた。


 客間のベッドで休ませてもらうことになった。


「今日は、小夜さよさんはお休みですけど、隼人はやともいるし、黒羽もいますから。仕事のことは気にせず、休んでてくださいね。……って、仕事のことは私が言えることではないんですけど」お嬢様はチラリと理恵さんを見た。


「ふふ。菖蒲あやめの言う通りよ。気にせず休んでてね」


 お嬢様と理恵さんは、そう言うと部屋を出ていった。「私にも何か手伝えることありますか?」とお嬢様が理恵さんに尋ねているのが、閉まるドアの隙間から聞こえてきた。


 我ながら単純だと思う。


 お嬢様への警戒が解けてしまった。頭痛を疑われなかったことが嬉しかった。こんなに痛くてつらいのに、わかってもらえないことが多い。働きだしてからは、仮病だと疑われ続けてきた。頭痛も辛かったが、それも辛かった。


「旦那様と奥様と、お坊ちゃんにお嬢様、みんなと仲良しの使用人になりたいです。みんなの生活のお手伝いをしたいです。ビシッと華麗に家事をこなして喜んでもらうのが、将来の夢です」


 昔の私がスラスラと言った。夢の中ではどもらない。

 一般的な、普通、とは違う。仲良しなんて、使用人に求められていないこともわかっている。だけど、私がなりたかった『普通の使用人』は、そういう使用人だった。忘れかけていたことを思い出した。


 目覚めると、頭痛は治まっていた。


 カチャ、とドアが開いた。お嬢様が顔をのぞかせた。体を起こした私と目が合うと、お嬢様は軽く頭を下げてから中に入ってきた。後ろから、黒羽くんも入ってきた。水の入ったコップをお盆に乗せて持っていた。


 私は『普通の使用人』になることの他に、もう一つの決意を胸にした。


 お嬢様を守ると決めた。


 黒羽くんが、なんのために作り笑顔をしているのかはわからなかった。でも、手の平を返し、何かをするとしたら、お嬢様か私に対してのはずだ。これまでの人たちがそうだった。使用人の私だけではなく、立場や力など、自分より弱い人を狙って嫌がらせをしている人もいた。

 お嬢様は黒羽くんより立場は上だが、年下のかよわい女の子だ。簡単にやり込めることができると思われているはずだ。


 お嬢様に牙をいたとき、私だけは絶対にお嬢様の味方でいようと決めた。お嬢様の無実を訴える。そのためには、私自身も黒羽くんにおとしいれられないように、気をつけなければならない。


 黒羽くんの持つお盆から、お嬢様がコップを取り、手渡してくれた。そのコップに入った水を、ゴクゴクと一気に飲み干した。


 絶対、好きにはさせない。


 口元を手の甲でぬぐいながら、黒羽くんのことをにらんだ。宣戦布告だ。

 黒羽くんは素敵な作り笑顔を崩さなかった。お嬢様は、驚いたような表情で、私と黒羽くんのことを交互に見ていた。



(お嬢様を油断させておとしいれて、旦那様に取り入って、湖月家を乗っ取ろうとしてる。とか。悪気はないフリをして、チクチクとお嬢様のことをいじめて楽しむ。とかだと思ったんですけど……)


 溶けてきたアイスをスプーンで底まで沈めた。乳白色になったソーダ水をストローで吸い上げた。

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