◆083. 門出 1/2 ― お守り
梅の花の季節が終わろうとしていた。
この世界の梅や桜の花は不思議で、開花の時期がずれることがない。梅の花は三月になれば咲き、桜の花は四月になれば咲く。種類による開花のずれもない。最初の一週間で満開になり、二週間かけて徐々に散っていく。
父と
黒羽と私は、換気中の私の部屋でお喋りをしていた。大人たちは、いろいろと確認中だ。
「お嬢様。髪、結い直しましょうか?」
「このままでいいよ」
「結い直しますね」
「ちょっと~。いいって言ったのに」
黒羽は私の言葉を無視して、一つに結んでいた髪をほどいてしまった。こういうときは、だいたい一つから二つに結い直す。髪ゴムがもう一つ必要だと思い、お出かけ用のポシェットに手を伸ばそうとした。
「あ、バッグ置いてきちゃった。取りに行ってくるね」
ポシェットを食堂に忘れてきてしまった。先ほどまで、みんなでお弁当を食べていた。
黒羽を部屋に残して食堂に向かった。ポシェットは椅子の上に置いてあった。中に小さい紙袋が入っていることを確認した。涙が出そうになった。気持ちを落ち着かせるために、何回か深呼吸をし、最後の一回は大きく息を吸って吐いた。
自室の近くまで戻ると、換気のために開けておいたドアから、立って壁に寄りかかっている黒羽が見えた。バルコニー付きの窓のところから外を眺めていた。
九歳の黒羽が、今の十五歳の黒羽に重なって見えたような気がした。
あの日、お風呂から出て部屋に戻ったとき、あのときも黒羽はこんな風に外を見ていた。
(もう何年も前のことなのに。熱が下がった日のことは、今でも鮮明に覚えてる。父の顔を見上げた日のことも)
「どうかしましたか?」黒羽はドアのところから見ていた私に気づくと近寄ってきた。
「大きくなったな、と思って」
背が伸びて、声も低くなった。
「大きくなったって……。お嬢様に言われると、変な感じですね」首を傾げている。
「黒羽に渡したいものがあるの」
部屋に入り、ポシェットをソファーに置いた。ポシェットの中から小さい紙袋を取り出した。
「お父様と私から」黒羽に手渡した。
黒羽は紙袋を開け、中身を手に取り、目の前にかざした。陽の光を反射して、キラッと光った。
「きれいですね」
円形のチャームが付いたキーホルダーだ。チャームの土台は、ホールケーキの型のような形をしている。青色で直径二センチ厚さ数ミリくらい、内面に三日月が描かれていて、透明なもので満たされている。表面は少しふっくらしていて、触るとつるっとしている。その樹脂のようなガラスのような透明なものの中に、小さくて黒い羽根が一枚入っている。鳥の羽根だ。
月夜に黒い羽根が舞っている、というチャームなのだと思う。でも私には、丸くて青い土台が
(黒い羽根は、黒羽の名前そのものだし。それに、空なんだろうけど、湖にも見えるから、湖と月で
「お守りだよ」
黒羽はキーホルダーを握りしめたあと、紙袋に戻した。紙袋をソファーに置き、ドアの取っ手に触れた。
「部屋に閉じ込めてもいいですか?」
黒羽の目には涙が
「少しだけね」
黒羽はドアストッパーを外し、静かにドアを閉めた。私の手を引き、バルコニー付きの窓の前まで行くと、ゆっくりと両
黒羽を胸に抱きしめた。
「
「隼人の場合、手が飛んできそうですね」
「そうだね。この場合、チョップされるのは私になるのかな?」
ふふっ、と二人で笑った。
自然と無言になった。
「う、うぅ……」黒羽から声が
私が生まれてから、十一年近く一緒に過ごしてきた。五歳だった私が、記憶喪失みたいな私――前世の記憶――を思い出してから、約六年間一緒に過ごしてきた。
いろいろなことがあった。部屋から出ないでほしい、『僕のお嬢様』だと困ったことを言った。
でも、僕のものにしたいんだったら頑張れと言うと、素直に頑張った。いろんなことを頑張っていた。
私にはできないこと、努力ができる良い子だ。
『お嬢様のために傷ついたら、お嬢様は僕とずっと一緒にいてくれますよね』と言った。私が黒羽のものになるのであれば、自分は傷ついても構わないと、バカなことを言った。
でも、それだけ私のことを純粋に想ってくれていたのだと思う。私の気持ちを繋ぎ止めるための手段を選ばなかっただけだ。
黒羽の純粋で愚かな行為を止められて良かった。私のことで黒羽に影を落とすようなことにならなくて、無事で本当に良かった。
私は黒羽に幸せになってほしい。黒羽の世界は、
「黒羽」
「はい」
「健康第一だよ」
「はい」
「勉強頑張って」
「はい」
「やりたいこと見つかるといいね」
「はい」
「変なことしちゃダメだよ」
「はい」
「あんまりしつこいのもダメだよ」
「はい」
「ほどほどにね」
「はい」
「楽しんでね」
「はい」
「どうしても辛いことがあったら、休みじゃなくても帰って来ていいんだからね。お父様も怒ったりしないよ」
「はい」
黒羽の頭を掴んで胸から離した。涙でぐちゃぐちゃだ。鼻水も出てる。
(それでも、かわいい)
今ここでキスをしたら、数年後の約束にとらわれることなく学園生活を過ごせるだろうか。それとも逆に縛ってしまうだろうか。
(約束を忘れてしまうくらい楽しい学園生活を)
黒羽の顔にゆっくりと近づき、鼻先にチュッとキスをした。
(雪の日のお返し。鼻水……を舐めるのは嫌だから)
目元にキスして涙をすくった。
「ふふ、しょっぱい」
(黒羽、ありがとう。楽しかったよ)
黒羽の顔を胸に戻し、抱きしめた。涙がこぼれた。こぼれてしまった。泣いたら止まらなくなりそうだったから、泣きたくなかった。声を出さないように、これ以上泣かないように、深呼吸をした。
「お嬢様?」
「…………」
声が震えてしまいそうで何も言えなかった。黒羽に腕を掴まれ、体を離された。涙を見られたくなくて顔を背けたが、黒羽の顔のほうが下にあったのであまり意味がなかった。
「お嬢様……」
「なあに」
黒羽は立ち上がって、私のことを抱きしめた。
「……っ。うぅ」
「お嬢様」黒羽の腕にギュッと力が込められた。
学園への入学、入寮は義務のようなものだ。この国のほとんどの人が通る道だ。父も母もみんなもそうだった。私も五年後にはその道を通る。
(わかってる)
黒羽と、もう二度と会えないわけではない。在学中は、夏と冬に帰ってくる予定だ。学園を卒業したあとも、しばらくは
(わかってる)
黒羽には、大切に思える人に出会って幸せになってほしい。大地や隼人のようにやりたいことを見つけてほしい。
湖月家を離れることでそれが叶うのであれば、そうしてほしいと思っている。
(ちゃんとわかってるし、そう思ってる。けど、ダメだ。寂しい……、すごく寂しい)
いろいろと考えて、寂しい気持ちを誤魔化そうとしたができなかった。ただ言葉にはしない。旅立つ黒羽には言わない。大地や隼人のときのように、寂しいと泣いて
黒羽をギューッと抱きしめた。思い切り、可能な限り力を込めた。
「お嬢様、苦しい!」
「ふふふっ」
黒羽の顔を見上げた。涙は
(うん、かわいい。満足!)
「そろそろ離れて~。鼻、
「お断りします」
「ほどほど~。黒羽も鼻水出てるよ」
「う……」
黒羽は離れるとポケットから、ティッシュを一つ取り出した。
「あれ? 準備がいいね」
「今日はこうなるだろうなと思ったので」
黒羽も私も、いつもポケットにはハンカチしか入れていない。ポケットティッシュはバッグに入れている。
私もポシェットからティッシュを取り出そうと思った。ポシェットはソファーの上だ。ここからでは手が届かない。取りに行こうと体の向きを変えたところで、黒羽に腕を掴まれ止められた。
黒羽は自分の涙と鼻水を拭いたあと、私の涙と鼻水も拭いてくれた。二人で一つのポケットティッシュを使いきってしまった。黒羽は丸めたティッシュをポケットにしまい込むと、右手を私の肩に置いた。また涙が、と言いながら、左手の親指で私の目尻をなでた。
「お嬢様」
「なあに」
「かわいい」
「……ありがとう」
素直にお礼を言うと、黒羽は少しだけ目を見開いたあと、嬉しそうな顔をした。
「かわいい。とってもかわいい」
黒羽は、にこにこともニヤニヤとも違う微笑みを浮かべた。目を細めて私のことを見つめている。この表情はなんと表現したらよいのだろうか。黒羽の顔を眺めながら、表現するに
少しの間、見つめあっていた。その間、黒羽の左手は、私の頭の横をなでては髪をすくうを繰り返していた。
「お嬢様」
「なあに」
そういえば、結い直したいからと髪をほどかれ、そのままになっていた。
(忘れてた。バッグから髪ゴム出さないと)
そんなことを考えながら、黒羽の次の言葉を待った。
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