◆070. その気持ちを大事に 1/2


 頬に柔らかいものが触れたような気がした。


「……う……ん」


 今度は手に何か触れたような気がした。薄目を開けると、黒羽くろはがこちらを向いて横になっていた。


「起きました?」


 黒羽に手を握られていた。返事をせずに目をつむった――。



「……う、う~ん。あ、暑い~」


「あれ? 起きちゃったんですか? もっと眠っててもいいですよ?」


「んん、なんで? 離れて!」


「お嬢様がくっついてきたんですよ」


「え? 私が?」


「そうですよ」


 黒羽の胸に、顔をうずめるようにして眠っていた。腕の中にスッポリおさまっている。暑くて目が覚めてしまった。


「起きたから、離れて~」


「かわいい」ギュッと抱きしめられた。


「ちょっと、外。外だから!」


「お嬢様からくっついてきたのに~」


 黒羽はしぶしぶながら離れてくれた。体を起こすと、風があたって涼しかった。


「大丈夫ですか?」


 黒羽の指が、私の頬に触れた。張りついていた髪の毛を払ってくれた。


「なんで?」


「何かあったんじゃないんですか?」


「どうして?」


 黒羽は親指で、私の目尻の辺りをゴシゴシとこすった。思わず目をつむった。


「涙のあとはあるし。くっついてきて、かわいかったので。いつもかわいいですけど」


 眠る前、寂しいような変な気分になってしまい、少し泣いてしまった。拭かずにそのままにしていた。涙のあとはそのせいだ。


(黒羽にくっついたのは……)


「……それは、たぶん」


「たぶん?」


「お父様と間違えた」


「旦那様と僕をですか?」黒羽は首をかしげた。


「今夜はお父様と眠ろうって思ってたから」


「旦那様とはもう一緒に眠らないって、言ってませんでしたっけ?」


「言ったけど、いいの。お父様と眠りたいから。っていうか、起こしてよ!」


「一回起こしましたよ。目を開けたのに、また寝ちゃったじゃないですか」


「そ、それでも、起きるまで起こしてよ」


「起こすわけないじゃないですか! かわいいのに!」


「かわいいじゃないよ。外なんだから、起こして!」


「じゃあ、中ならいいんですね。あ~あ、もっと寝顔を見てたかった。くっついてきてかわいかったなあ。夏じゃなければ。涼しかったら、もっとあの状態で……」


 私から視線をそらして小さい声でぶつぶつと呟く黒羽を見ていると、チラチラと眩しさを感じた。目を細めて上を見ると、木陰をつくっている枝や葉が風に揺れていた。揺れる枝葉の隙間から光が射し込んできていた。


(ホント、いい天気)


「ん~~! はあ~~」両手を上げて伸びをして、息を吐きながら横に下ろした。


「私、どれくらい寝ちゃってた?」


「僕が来てから……、十分経ってないですね」


「それくらいか~」


 私が自室を出たのが、黒羽の家庭教師の時間が終わる二十分前だった。律穂りつほとお喋りをしていた時間や考え事をしていた時間を加味して、眠っていたのは十五分から二十分くらいだと思う。


「僕の腕の中には、三分くらいです」


「だから、起こしてよ……」


「もう一回、お願いします」黒羽が両手を広げた。ジトッにらむと、黒羽は口を尖らせて手を下ろした。


 袋から流出制御訓練機を取り出し、感覚を確認した。ゲーム機を手に取り、電源を入れた。


「それ、好きですね。そんなにおもしろいですか?」


「おもしろいよ。黒羽もやる?」


「いえ、僕はいいです」


「一回しかやったことないよね。もっとやってみたら、ハマるかもしれないのに」


「隣で見てるだけで充分です」


「……見てるだけにしてよ。邪魔したら怒るからね」


 このゲーム機は三種類のパズルゲームが収録されている。その中から、落ち物ゲームを選択した。落ちてくるいろいろな形のブロックを、回転させるなどしてめ込んでいき、一行まると消えるゲームだ。中級モードでスタートした。


(最初は楽勝~)


 順調に進み、落ちてくるスピードが上がってきた。気を抜くと失敗してしまいそうなスピードになってきたとき、黒羽がくっついてきた。


「黒羽、邪魔」


「応援してるだけです」


「あ、ほら、くっつくから」


 下のほうで消していたブロックが、真ん中より上まで積み上がってきてしまった。


「お嬢様、頑張れ~」


「応援するなら、離れてよ」


「ふ~~」

「っ! あ、あ~~……」


 耳を押さえて、黒羽のことをにらんだ。黒羽はにこにこしている。耳に息を吹きかけられた。驚いて、ゲームオーバーになってしまった。


「邪魔しないでって言ったのに!」


「邪魔じゃなくて応援です」


「も~。だったら、応援しなくていいよ」


 もう一度、ゲーム機の電源を入れた。「まだ、やるんですか」と黒羽が呟いたが、聞こえないフリをした。

 今度は、ペンシルパズルを選択した。『1』から『9』までの数字を指定された合計になるようにめていくゲームだ。これなら、くっつかれても失敗することはない。


(このゲームはセーブ機能が欲しいかな。どの問題まで解いたか忘れちゃう)


「確か、十三問目からだったかな」


 問題は全部で六百ある。簡単、普通、難しいが、それぞれ二百問ずつだ。


(まだまだ、簡単~。……ん、あれ? ここは……)


 簡単だと思っていた初心者用の問題で、つまずいてしまった。


「8、ですよ」


「あ、なんで言っちゃうの。まあ、ありがとう」


 『8』を入力し、カーソルを次のマスに移動させた。


「6、ですね。その隣が9、2、7です」


「く、黒羽~~! なんで意地悪するの!」


「意地悪してるのは、お嬢様です。僕がいるのに、ゲームなんかしてるから」


「別にいいでしょ。本読んでるのと一緒でしょ」


「本とは違います。途中でお喋りできないし。僕のこと、全然相手にしてくれないし。それでも一緒にいるからいいですけど。今はかまってほしいんで」


(かまってほしいって……。でも、確かにゲーム中は無視に近いかも。手を離すと電源落ちちゃうし)


「は~~」


 長いため息をいてから、ゲーム機を手提げ袋にしまい、黒羽のほうを向いた。「袋を貸してください」と言われたので渡すと、シートの端に置いた。


「今日の家庭教師は短かったね」


「本当はなかったんですけど。今月は予定よりも日数が少なくなってしまったので。課題の確認だけでもって、来てくださったんですよ」


「そっか。だから、午前中に一時間くらいだったんだ。そんな風に来てくれるなんて、いい先生だね」


「そうですね」


「課題はどう? 難しいところとかあった?」


「解けないものはありませんでした。ちょっと怪しいところがありましたけど。さっき、質問して解決しました」


「すごいね。黒羽って頭いいよね」


「そうですか?」


「運動神経もいいし」


「普通だと思いますけど……」


「料理も作れるし」


隼人はやとに教えてもらったものはですけど」


「教えてもらったからって、できるものでもないよ。私がそうでしょ。苦手なことってある?」


「髪を結うのは苦手でした。包丁も。馬もちょっと……」


「今は結うのも上手じょうずだし。包丁も今は使えるし。馬? 黒国丸くろくにまるに触れたよね?」


「触れるんですけど。乗れないので」


大地だいちに習うのはね……。律穂りつほさんに教えてもらうとか? きっと、習う機会があれば乗れるようになるよ。まあ、もしも、乗れるようにならなかったとしても、いいんじゃないかな」


「かわいい」


「ダメ!」


 黒羽が腕を広げて抱きつこうとしたので、拒否した。


「なんでですか!」


「なんでも! あと、何がかわいかったのか、全然わかんない」


「全部ですけど。それじゃ、髪の毛を結わせてください」


「まあ、それならいいけど。私、ゴムは持ってるけど、クシは持ってきてないよ?」


「手グシで大丈夫です」


「寝汗かいちゃったし……」


「気にしません」


「うーん。黒羽がいいならいいけど。ゴムは、一つ? 二つ?」


「二つで」


「じゃあ、もう一つか。袋の中に入ってるから取って使って」


 髪を右耳の後ろでゆるく一つに結んでいた。それをほどいた。黒羽は袋からゴムを一つ取り出し、私からもう一つ受け取ると、ひざ立ちをし、私の後ろ側に回った。髪の毛を真ん中で分け、左側を軽くゴムで結んだ。

 右側の髪の毛をすくうと、編み込みはじめた。


「明日はお茶会でしょ?」


「はい」


「七月のお茶会かあ。どんなのだろ?」


「出たかったですか?」


「出席したいわけじゃないんだけど。様子だけ見て帰ってこれるなら、行ってみたいな。お菓子をつまみ食いして帰ってきたい。アイスとかありそうじゃない? アイスいいな~」


「要するに、アイスが食べたいんですね」


「アイスだけじゃないよ。珍しい冷たいお菓子とかも、あるかもしれないでしょ」


「結局、お菓子ですね」


「だって、お茶会って、お菓子食べて、お茶を飲むくらいしかやることないよね」


「ふっ、あはは。そうですね」


(私にはお菓子しかないけど。黒羽には、ひと夏の恋、とかあるかもしれないよね。ひと夏だけじゃなくて続いてほしいけど。今度こそ、出会いがあるといいな)


 黒羽がお茶会に出席するようになって、二年ほど経った。他の女の子に目が行くようになると思っていた。少しも行く気配がない。それどころか、ますます私に執着してしまっているような気がする。


 私に婚約の話がきたとき、婚約しないでほしい、結婚しないでほしい、と黒羽は私にお願いしてきた。あまりにも必死だったので、十八歳までは婚約しない、学園を卒業するまでは結婚しない、と期間限定で約束してしまった。ただし、恋人に関する約束はしないと言ってしなかった。恋人のことまで約束するのは良くないと思った。


(お茶会のあとに慰めてるから? 黒羽のお願いを聞いてるから? 他の女の子に目が行かないのは……、私のせい?)


 そのうち自然とお嬢様離れするだろうと、普通に過ごしてきた。大地、隼人、黒羽、三人と距離をとろうと考えた時期もあった。だが、それはやめた。つまらない距離をとらずに過ごして良かったと思っている。

 大地も隼人も進む道を決め、旅立っていった。変に距離をとっていたら後悔していたと思う。二人が出ていってしまったことは寂しいが、一緒に過ごした日々は楽しい想い出として残っている。


「…………スしますよ?」


 黒羽の目を他の女の子に向けさせるために、私が冷たくするのもどうかと思う。でも、黒羽のことを想うのであれば、突き放すことも必要なのかもしれない。


(ただ、見たくないんだよね。黒羽が悲しい顔するの。それに無理やり冷たくするとかできないし。きっと、学園に行けば……。寮に入って、ここを離れて生活すれば、大切な人が――)


 ふにっ


「え?」


 左頬に柔らかいものが触れたので、思わずそちらを向いてしまった。すぐ近くに黒羽の顔があった。私の唇が黒羽の鼻先をかすめた。


「お……、惜しい!」


 黒羽はひどく残念そうな顔をして、左手をシートについてうなだれた。いつの間にか、髪の毛は三つ編みに結い終わっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る