◆021. 目が覚めた


 窓から木々の葉が見える。薄い緑色の葉が揺れている。五月になった。


 私は談話室にある新聞を読んでいた。


「お嬢様。新しい髪型を覚えたんですよ。試していいですか?」


 黒羽くろはがにこにこと、クシと鏡を握りしめていた。


 黒羽は、先生の前になるとよそよそしくなる。大地だいち隼人はやともだ。最初の頃は普通だった。みんなが、先生と楽しそうにしているから、私が勝手にそう感じているだけかもしれない。


(まあ、気になる女性がいたら、そちらに気を取られるのは仕方のないことですし)


 ハッとして、頭を左右に振った。すっかりひねくれた考え方をするようになった。そんな考え方が、どこかへ飛んでいけばいいのに、と思った。


「いいよ」


 黒羽に笑顔を向けた。急に頭を振ったことに驚いたようだが、いそいそと髪をとかし始めた。


「お嬢様、新聞楽しいですか?」


 談話室にある新聞は、父が本邸から持ち帰ってくるものだ。私が読むのは一日遅れだ。

 テレビはないので、テレビ欄はない。私が目を通しているのは、政治経済だ。というのは嘘で、コラムや連載小説を読んでいる。


「楽しい」


「漢字、読めます?」


「眺めてるのが楽しい」


「そうですか?」


 漢字は簡単なものは習い始めたが、新聞を読めるほどではもちろんない。なので、眺めているだけ、ということにしている。


「黒羽、礼儀作法の授業楽しい?」


 先日、父にお風呂で聞かれたこともあって、口をついて出てしまった。


「うーん、楽しくはないですけど。学ばせてもらえるのはありがたいです」


「お嬢様は?」と聞き返されたので、「私も」と答えた。黒羽の答えは、最もだ。つい聞いてしまった質問の裏に「先生に会えるの嬉しい?」なんて含ませた自分がバカみたいだ。


 聞けない質問ではない、会話として普通に出していい質問だ。でも、この数ヶ月間、なんて自分は嫌なやつなんだろう悩み、みんなと距離をとらなければと思うようになっていた。この質問は、踏み込む質問のような気がしてできなかった。


「できました!」


 鏡を二枚使って、後頭部を見せてくれた。

 左右二つにわけた髪の毛が、耳の後ろ辺りから編み込まれている。たぶん、フィッシュボーンって編み方だ。上手に編み込まれていて、思わず「すごい!」と声が出た。


 黒羽は満足そうに私の隣に座った。頭をなでようと思って手を伸ばした。黒羽は嬉しそうにそれを待っている。


(つい、くせで……)


 手を下ろし、新聞を折り畳んだ。「ありがとう」とお礼を言って、部屋に戻った。




「お嬢様!」


 隼人に呼び止められた。手には新聞を持っていた。私が振り向くと、小説などの新刊紹介が載っている面を、私の目の前に広げた。


「気になる本はありませんか?」


 隼人とはこうしてたまに、気になる本はないか、あれがおもしろいらしいなど本の話をする。最初は、私の気になっていた本を、隼人がプレゼントしてくれた。それ以降は、気になる本やおもしろそうな本をリストアップして、その中から一緒に選んで、父に購入してもらっている。


 いつもは表紙を眺めるフリをして、紹介文もしっかり読んでいる。でも、気分が乗らず、眺めるフリのフリをしただけで終わりにしてしまった。


「うーん、ないかな」


「お嬢様?」


 隼人の手が頭に伸びてきた。思わず後退あとずさりしてけてしまった。


「ご、ごめんなさい」


 そのまま隼人から逃げだし、部屋に閉じこもった。

 夕食のとき、顔を合わせた。逃げだしてしまい、気まずくなるかと心配したが、隼人は何事もなかったかのように接してくれた。私なんかより、余程大人だ。



 談話室で新聞を広げた。昨日、隼人に悪いことをしてしまった。気になる本があるかどうか、きちんと確認して、隼人に報告しようと思った。


「また、新聞眺めてんのか?」


「うん」


 大地が新聞を覗きこむように正面にしゃがみこんだ。


「グルグルしてやろうか?」


「え!」


 私を抱えたり、私が腕にぶら下がった状態で、大地がグルグル回ってくれるらしい。やってもらうと、とっても楽しくなる。笑いが込み上げてくる。普段はやってとお願いしても、「どうしよっかなあ」などと勿体もったいぶって、なかなか素直にやってくれない。


「うん! ……ううん。今はいいや」


 一度うなずいてしまったが、断った。新聞を折り畳み片づけた。やってもらおうかと思ったが、なぜか大地の腕に寄り添う先生を思い出してしまった。


「また今度お願い」


 談話室に大地を残して、部屋に戻った。




 窓から見える木々の葉の緑色がかなり濃くなってきた。私はベッドに寝転がり、バルコニーのある窓の外を眺めていた。


 最近、怪我をすることが多くなった。


 礼儀作法の授業中に服が引っかかって転んでしまったり、急にドアが開いてぶつかってしまったりした。怪我はしなかったが、ノートが目の前に落ちてきたこともあった。先生が二階から誤って落としてしまったときに、ちょうどその下を通りかかったからだ。


(運がないなー。厄年かしら……)


 ボスッ!!


「んなわけ、あるかー! なんなの、あの先生。ノートでも、二階から落ちてきたら危ないでしょ!」


 枕に顔を押しあて、叫んだ。枕が声を吸収してくれる。


 あからさまな嫌がらせだ。あまりの仕打ちに、この数ヶ月間悩んでいたのがバカバカしくなる。


 以前は授業で間違えても何もされなかったのに、最近は手を叩かれるようになった。もちろん黒羽は叩かれない。私が叩かれても、黒羽はにこにこしていた。


「だから~、ひなって呼んでください」


 大地や隼人も、楽しそうに話している。「何回目だよ!」とツッコミたくなるやり取りを繰り返している。


 先生は、最初は清楚な服装だったのに、露出の多い服装になってきた。暖かくなってきたからと言われればそれまでだが。羽織ってきたものを別邸に着くと脱ぐ。父が帰ってくる前には、また羽織る。


(まあ、そういう女の人が好きなら好きで、いーんじゃないかなあ)


 私の世界は、父と大地と隼人と黒羽で回っていて、その大事な人たちがとられてしまう、と思い込んでいた。でも、私だっていつまでも、ここにこのままいるわけではない。


(ちょっと、鬱々してたな。ひとりぼっちの悲劇のヒロインぶってたかも。自分に酔うのは良くないな)


「嫌がらせは困るけど、目が覚めたわ」


 枕を抱いて、ゴロンと横に転がり仰向けになった。


 怪我は今のところ、失敗した、転んだ、とみんなには伝えている。これ以上ひどくなるようなら、父に伝えよう。


「まずは、少しやり返すか」


 ここまでやられたら、嫌みの一つや二つ言ってもバチは当たらないだろう。


 でも、目が覚めるのが遅かった。こんなことになるなら、父に聞かれたときに思ってたことを言えば良かった。


 黒羽がまさかあんなことをするなんて思わなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る