第1章 別邸 5歳、6歳

話数. タイトル(誰視点か。ないのは主人公視点)

◆001. 生死をさまよう


「おはようございます、お嬢様。今日は、お誕生日ですね。おめでとうございます」


 ――オジョウサマ?


 今日は、私の誕生日だっただろうか。お嬢様とは誰のことだろうか。この声の主は誰だろうか。看護師さんか、ヘルパーさんだろうか。


 私はお嬢様じゃありません。私の名前は『  』ですよ。私、私の名前は――。


 私の名前は何だっけ?


 何ともいえない焦りとともに、まぶたを押し上げると、少年がこちらを覗き込んでいた。声をかけたのに無反応だったから、生きているのか不安になったのだろうか。


「おあ…………、ごじゃま……」


 少年が誰なのか、わからなかった。とりあえず挨拶をと思い、おはようございます、と声に出したつもりだった。しかし、寝起きだからかうまく声が出せず、きちんと言葉にできなかった。


 ゆっくりと上半身を起こした。今日は腰が痛くない、体が動かしやすいような気がする。


 でも、頭が重い。


 周りを見回すと知らない部屋だった。いや、知ってる部屋だ。私の部屋だ。少年のことも知っている。


 違う、私の夫は?

 違う、お母様に会いたいの。

 違う、夫?

 違う、いつお母様は会いに来てくれるの?


「っ!」


 めまいがして、後ろに倒れ込んだ。両手で目をおおった。


「お嬢様? どうかしましたか? 大丈夫ですか?」


 少年は私の腕を触ると「あっ」とこぼし、私のひたいに手の平をあてた。布団をかけ直すと、大あわてで部屋を出ていってしまった。


 手を布団から出し、手の甲をひたいにあて、現状を理解するために必死に考える。


 病院にいたような?

 自宅にいたんだっけ?

 お母様が会いに来てくれない。

 夫が会いに来てくれた。

 悲しい、寂しい。


「ふぅ」


 息をき、ひたいから手を離した。自分の手が視界に入り、目を見開いた。

 手が小さい。ハリがある。ぷにぷにしている。シワシワのシミだらけの手じゃない。


 手で、髪、顔、体と触る。どれもが、自分のものと違うような、元からこうだったような不思議な感じがする。


 わけがわからない。


 でも、少年があわてて出ていった理由はわかった。

 熱があるみたいだ。自分の体では大差はないが、手の甲が若干冷たくて気持ちいい。少々、悪寒もしている。


 頭の中がグチャグチャなのは、熱のせい?


 どんどん目の前が暗くなってくる。バタバタと足音が聞こえてきたところで、目を閉じ意識を手放した。



◇◇◇


「お嬢様、起き上がれますか?」


 呼ばれたので、目を開ける。支えてもらい、起き上がり、薬を飲まされ、また寝かされる。

 食事もすすめられるが、熱のせいか体が受けつけない。食事がとれないので、何度か点滴を打っていた。


 病院へ連れていかれ、数日過ごした。今は目覚めたときの部屋に寝かされていた。熱を出してから何日間か経っていた。


 これは夢?

 それとも、妄想?

 現実と私の見ている景色は別物?

 実はここは、病院なの?


 学校に通って勉強したことや、車の運転の仕方、アニメや映画、趣味のこと、仕事をしていたこと、そんな記憶がたくさんある。


 それなのに、自分のことがわからない。


 病院にいたような気がする。夫がいたような気がする。

 自分自身のことも、夫のことも、親兄弟のことも、真っ白だ。


 今いるこの部屋や、何人かの看病してくれている、知らない人のはずなのに知っている人。妄想かと思っているこちらが現実で、たくさんの記憶が妄想なのだろうか。


 自分が誰なのか、今看病されている自分のことを考えようとしても、たくさんの記憶があふれてきて考えられない。


 私はおかしくなってしまったの?

 わからない。

 熱い、苦しい。


 誰か、助けて――。



◇◇◇


 その屋敷は、町から離れたところにあった。家屋と広い庭は、程よく木々に囲まれている。


 優しい風が草木をさわさわとなで、フクロウがホーホーと鳴いている。丸く光る月の光で、夜更けだというのに明るい夜だった。


 雲一つなかった空にどこからか現れた雲は月を隠し、草木をなでていた風はやんだ。フクロウの鳴き声も、地を這う動物たちの音も聞こえない。


 耳の痛くなるような静寂が訪れた。


 苦しむ女の子の部屋の小さめのバルコニーの手すりに、蝶がとまっていた。青白く光るその蝶は、ひらひらと舞うと、閉じた窓をすり抜け部屋に入っていった。


 部屋の中には、女の子と少年が1人。


 少年は、連日の看病による寝不足で、今にも眠りそうだった。目をこすり、女の子を心配そうに見守っていた。椅子に座り、付き添い、たまに女の子の苦しそうな汗のにじむ寝顔を、濡れたタオルで拭いていた。


 蝶は、ひらひらと少年の周りを舞うが、少年は蝶に気づかない。

 蝶が少年の頭にとまった。少年は椅子に座ったまま、女の子の横たわるベッドに突っ伏して眠ってしまった。


 次に蝶は、女の子の汗ばむひたいにとまった。


 蝶が羽を広げると、青白い光が蝶から手の形に変わり、そこから、腕、体と、光が伸びて、ローブを着ているような人の形へと姿を変えた。

 人のような光は、女の子のひたいに手を置いたまま、しばらく女の子を見つめていた。


 苦しそうだった女の子の呼吸が、静かな寝息に変わっていった。


 青白い光は、蝶に姿を戻し、入ってきた窓をすり抜け出ていき、バルコニーを越えると霧散して消えた。


 雲の隙間から月の光が射し込み、さわさわと草木が鳴る。

 いつの間にか、静寂は消え去っていた。



◇◇◇


 カーテンの隙間から、キラキラと太陽の光が射し込んでいる。バルコニーでは、小鳥が朝の挨拶をしているのか、ピチチチピチチチと可愛らしい声が聞こえてくる。


 とっても素敵な朝だ。頭も体もすっきり爽快。いや、体は寝過ぎて少しおかしいかもしれない。あと、とてもお腹が空いている。


 ムクリと上半身を起こすと、足元に少年が突っ伏して眠っていた。何日間かはわからないが、ずっと交代で看病してくれていたのだろう。


 このまま起きるまで待つか迷ったが、早く元気な姿を見せたほうが良いと判断し、起こすことにした。決して、お腹が空いてるからとか、お風呂に入りたいからとかではない。


「おあよー」


(ンン! 話しにくい)


 熱のせいかと思っていたが、違ったのだろうか。とりあえず「んー! んー!」と声を出しながら、少年を揺り起こした。


「う、うぅ~…、は? え? お、お嬢様!?」


 少年はまだ眠り足りないのか、眉間にシワを寄せながら、ゆっくりと目を開けた。自分を揺すっていたのが私だと気づいた少年は、とても驚き、椅子から立ち上がった。

 勢い良く立ち上がったせいで、椅子は後ろに倒れてしまったが、それを気にする余裕もないようだ。


 私は、何日間も、回復の傾向もなくベッドで苦しんでいた。そんな私が、ケロッとしていたら驚くだろう。私も不思議に思っている。


「ね、熱はっ」


 少年は、ひたいに手をあて、そのまま頬をなで、首筋で手を止めた。


「熱が下がってる」


 信じられないという顔で、こちらを見つめている。なんともない、大丈夫の意味を込めて「ん、ん」と、二度うなずいた。


 少年の目がみるみると潤んでいき、涙があふれそうになったところでうつむいた。雫がいくつか落ち、布団を濡らした。


「みんなに知らせてきます」


 少年は顔を上げることなく、部屋を出ていった。


 四つん這いになり、ベッドの外にお尻を向けて、足からゆっくりベッドを下りた。この体にはベッドが高いので、安全に下りるならこの方法が良い。


 少年が倒した椅子を元に戻し、バルコニーのある窓のカーテンを開けた。


(やっぱり、今日はいい天気!)


 窓越しに外を眺めると、雲一つない青空が広がっていた。カーテンを開けたことに驚いて飛んでいってしまったのか、小鳥の姿はなかった。


 窓に目をやると、うっすらと自分の姿が映っていた。


 幼い女の子の姿が――。

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