14.線香花火

 帰りの車内の空気は重苦しかった。誰も何も言わない。もともと何も聞こえない昂宗にすら、辛い沈黙だった。掛けていてもただ重くて疲れるだけだったから、昂宗はとうとうメガネを外してしまった。

 朝とは違って、夕方の道中は渋滞していた。そのため車はなかなか前に進まず、2時間経ってもまだまだ着きそうになかった。

 ぼんやりと窓から外の景色を見ていると、疲れていた事もあって、昂宗は知らぬ間に眠ってしまっていたようだった。目を覚ますと、ゴゴゴッと車はエンジンがかかったまま駐車されており、知明は運転席にいなかった。

 慌てて周りを見回すと、後ろではふじ乃といな穂が互いに寄り添うようにスヤスヤ眠っていたが、知大もいなかった。どういうことだろうと不安な気持ちでいると、ガチャッとドアが開いた。もちろん知明だ。

 知明が口をパクパクさせて何か言っていたので、急いでメガネをかけた。

【知明:伝わってる?】

 昂宗はコクリと頷く。

【知明:起こしてごめんね。もうそろそろ着くから。ちょっと休憩と思ってコンビニ寄って来たんだ。はい、これ】

 そう言って麦茶とおにぎりの入った袋を差し出した。車内は冷房が効いているとはいえ、昂宗は少し汗をかいていた。小腹も空いている。「ありがとう、ございます」と発音して感謝を伝えてから、麦茶をゴクリと一口飲んだ。

【知大:ところで相談なんだけれど、今日の夜、もしまだ元気だったら花火しないか?】

 知明と同時に後ろに乗り込んで来ていた知大がカシュッと炭酸水を開けながら言った。

【ふじ乃:いいですね!】

 昂宗がリアクションを返す前に、いつの間に起きたのかふじ乃が返事をした。扉を閉めた音で起きたのだろうか。もちろん昂宗も賛成だった。指でオッケーと作って返事をした。

【知大:今日は一日ずっと楽しい日になるはずだったのに……あれの所為で嫌な思い出になるなんて悔しいじゃないか。終わりよければすべてよしって言葉があるくらいだからな、最後に楽しい思い出を上書きしてやろう】

【知明:実はさっきのコンビニで店にあるだけの花火全部買い占めてきたんだ。あとはいなちゃん次第だけど。とりあえずやる方向で進めようか。花火しても怒られなさそうなところって……】

【知大:堤防とか?】

【知明:うーん、火の始末とか面倒そうだし、賑やかにし過ぎると警察に通報とかされるし、そういうのあまり気にしなくてもいい所がいいかなあ】

【ふじ乃:だったら、僕のうちの庭とかどうですか? それなりに広いですし、何より相志郎に……早く彼に会いたいですから】

【知明:じゃあ、お言葉に甘えようかな。ふじちゃんはご両親にいったん連絡とってくれる? アポは取っておきたいから。知大はゆっくりいなちゃん起こしてあげて、花火のこと聞いてみて。昂君もそれでいい?】

 昂宗はコクリと頷いた。

【知明:とりあえず、ふじちゃんたちを拾った駅に向かうから、それから先の道案内はふじちゃんよろしくね】

【ふじ乃:らじゃ!】

 知明は車のアクセルを踏んで早速出発した。


 数十分して、菱川家に着いた。お金持ちと言っていたのは本当だったようだ。そこには立派な日本家屋が建っていた。

【いな穂:わぁ! ふじ乃ちゃんのお家おっきい!】

 車から降りたいな穂がはしゃいでいる。海でのことはすっかり忘れてしまっているようで、昂宗は少し安心する。

 あの後、知大に起こされたいな穂は少し不機嫌そうムッと目を開けたが、花火と知らされた途端、その目をキラリと輝かせた。話をいると、どうやらいな穂は花火をしたことがないらしい。

 昂宗はというと、中学時代にバンドのメンバーと近所の公園で花火をしたことを思い出した。あの時は危うく火事になりかけたりした。そんなことはどうでもいいか。

 車内の空気はいな穂を中心に一気ににぎやかになり、目的地までの道のりはあっという間に過ぎ去ったのであった。

 昂宗たちが車から降りると、すぐにふじ乃の両親と祖父母が出迎えてくれた。知明が挨拶をしている横を、ふじ乃の先導により通り抜けて庭に入った。菱川宅の庭は広かった。ちょっとした公園よりも、はるかに広かった。具体的に言えば、ドッジボール大会が開催できるくらいだ。

 庭に面した縁側では、青年と二人の少女が待っていた。

【ふじ乃:相志郎!】

 そう言いながら、無邪気にふじ乃は青年の胸に向かって飛び込んでいった。青年はその大きな体で楽々と彼女を抱きとめた。相志郎と呼ばれた青年は抱き着かれる前と全く同じ無表情で『おかえり』と言った。ふじ乃は今日一度だって見せなかったはしゃぎ方で青年にしがみつき、彼の綺麗に刈り上げられた坊主頭を愛おしそうに撫でている。

 隣にいた二人の少女はこの光景が日常茶飯事なのか、特に気にすることなく、昂宗たちの方に歩いてきた。ペコリと頭を下げてから、『初めまして』と言ったのが分かった。それ以降は口の動きが速すぎて、なにを言っているのか読み取れなかった。

 知大がそれに気づいたのか、いったん会話を止めて、

【知大:すまない、こいつ——昂宗は耳が悪くてな、ちょっと待ってくれ。昂宗、スマホ貸してくれないか】

 要求に従って、昂宗はスマホのロックを解除してから素直に差し出す。知大はそれを受け取ると、チャッチャといくらか操作を加えてから、スマホに向かって二人にいくつかの単語を言わせていた。ふじ乃に抱き着かれながら、引きずるようにして近づいてきた青年にも同じようにさせてから、昂宗にスマホを返した。

【想歌:聞こえていますか?】

 昂宗の方を探るように少女のひとりが訊いた。昂宗は頷いた。

【想歌:すみません配慮が足りなかったです。もう一度自己紹介しますね。私は守詰かみづめ想歌そうかと申します。高校1年生です。そしてこの子が……】

【想那:妹の想那そうなだよ! 中二! おねーちゃんたち、よろしくね!】

【相志郎:守詰相志郎そうじろう

【想歌:二つ上の私の兄です】

【想那:相にぃはふーちゃんと付き合ってるんだよ!】

【想歌:というわけで私たちはふじ乃さんにお呼ばれしました。お邪魔でなければ、どうぞよろしくお願いします】

 想歌は丁寧にお辞儀をした。

【知大:丁寧にありがとう。私は紫吹知大。いな穂の友人だ。……っていな穂も知らないんだよな? ほら、いな穂】

 いな穂は眉をピクリと動かしてからかなり緊張したように、

【いな穂:霧切いな穂です。ふじ乃ちゃんとはバイト仲間です。当時は知らなかったんだけど、ふじ乃ちゃんと同じ高校出身みたいで、いっぱい仲良くしてもらっています。よろしく、ね】

【想歌:そうなんですか! わたしもふーちゃんと……あ、ふじ乃ちゃんと……ああもういいか。ふーちゃんと同じ高校に通っているんです! 先輩ですね!】

【知大:私も同じ高校出身だぞ。不思議なこともあるもんだな】

【想歌:そうですね!】

【想那:あ、花火だ! はーなび! はーなび! はーなび!】

 想那はいな穂が花火を持っていることに気が付いて腕にしがみついた。そして準備されたろうそくと火消し用のバケツの方に手を引いた。そして嬉しそうにいな穂はなされるまま、引っ張られていった。

【想那:相にい! 火はやく! ひー! ひー!】

 想那に呼ばれて、相志郎はやっぱりふじ乃を引きずったまま、そちらに向かって歩いていく。そしてポケットからマッチを取り出して、ろうそくに火をつけた。

 早速、花火大会は始まった。

 

 いな穂と想那は相性が良かったのか、すぐに打ち解けて、はしゃぎまくっていた。

【想那:見て見ていな穂ちゃん!】

【いな穂:おお! すごーい! よーし! わたしだって!】

 楽しそうに手持ち花火をブンブン振り回して何か描いているようだ。火花が少し危ない。

【想歌:危ないでしょー! もっと静かに楽しめないの!】

 それを想歌が窘める。

【いな穂・想那:ごめんなさーい】

 怒られた二人は一瞬だけ反省したふりをしてから、

【想那:想ねぇこっちだよー!】

【想歌:あ、こらー!】

【いな穂:想歌ちゃん、こっちも!】

【想歌:もー! いな穂ちゃんもダメだよ!】

【想那:でもほらぁ! きれいだよ!】

【想歌:あらほんと。きれいねぇ……じゃなくて! 危ないってば!】

【いな穂:想那ちゃん! ダブルでいくよぉぉおおー!】

【想那:うぉぉぉおお! いな穂ちゃんかっけぇ! 想那も!】

【想歌:もう! 二人とも!】

 想歌にいたずらを仕掛ける。そうやって遊んでいた。三人とも、とても楽しそうだ。

 いな穂に笑顔が完全に戻った。昂宗にとってはそれが何よりも嬉しかった。いな穂が楽しそうにしているのを縁側に腰かけながら見るだけで、心底楽しかった。

【知大:君はお父さんか?】

 感慨に浸る昂宗を見て、ツッコミながら知大が左隣に座った。線香花火の束をひとつ持ってきていて、それを二人の間に置いた。反対の手には100円ライターが握られていて、一本取り、火をつけた。昂宗にも差し出してきたので、一本取り、火をつけてもらった。

 しばらく二人でぱちぱちと弾ける線香花火を見つめた。途中強く風が吹いた拍子に、昂宗と知大は火の玉を落としてしまった。

【知大:ありがとうな】

 線香花火の燃えカスを端に避けて、そう言った。何のことだろうと思ってスマホを取り出そうとすると、止められた。知大はいつの間に持っていたのか、ノートとペンを取り出して書き始めた。

『これでお話しましょうか。いな穂から話しを聞いて以来、ずっと君と話がしたかったんだ』

 そう言ってペンとノートを昂宗に渡す。その様子は柔らかな感じがして、今日抱いた知大へイメージとは違ったものだった。

『いいですけど。どこから持ってきたんですか?』

『さっきふじ乃から借りたんだ』

 そう言って縁側の端の方を指さす。そこには相志郎に膝枕されながら、いきいきと話すふじ乃の姿があった。頭を撫でられるたび気持ちよさそうにしている。完全に二人の世界に入り込んでしまっていた。

『羨ましいね』

『知大さんだってモテるでしょうに』

『それはいいとして、』

 そう書いて見せた。自分から話題を振ったくせに、と昂宗は完全にスルーされたことに軽く拗ねた。その様子を見て意地悪そうに知大はクツクツと笑った。

 昂宗はメガネを取って、横に置いた。

『今日はありがとう。君に助けられたよ』

 そう言ってノートを渡す知大の目は真剣だった。

『あの時、なにがあったんですか?』

『見たままのことだよ』

『具体的にいな穂がなにを言われたのかってことですよ』

『それは、私の口からは言えないね』

 逡巡なく知大は書いた。

『どうしてですか?』

『これはいな穂自身の問題だから、私の口からはなんとも』

 そう言われては、昂宗は何も言うことができない。

『そうですか』

 ただそう書いて返した。

 それからしばらく二人は何もせずに庭の光景を眺めた。話があると言ったのに、知大は何も書かなかった。

 やっと知明が現れて、知大とひと言ふた言交わしてから、花火の方へ行こうとした。そこにふじ乃と手をつなぎながら、相志郎がやって来た。それから改まった様子で頭を下げた。会話が気になって、出歯亀は悪趣味だと思いながらもメガネをかけてみた。

【相志郎:ふじ乃を守っていただいたんですから、本当ならそれ相応のお礼をしなければならないんですけど、いま聞いたところでしたので何も用意できていません】

【知明:いやいや、今日一日ふじ乃ちゃんの身を預かっていた立場にあった者として当然のことだから。それに俺は間に合っていない。むしろ君の大切なふじちゃんを傷つけてしまった。本当に申し訳なかった】

 そう言って知明は頭を下げた。相志郎はものすごく動揺して、

【相志郎:何をおっしゃいますか! あなたがいなければ、ふじ乃は……】

【知明:ありがとう。そう言ってもらえると少しは自己嫌悪も和らぐよ。とにかく、お礼とかそういうのは受け取れない】

【相志郎:そういうわけには……】

 納得いかない様子で、相志郎は唇を強く噛んでいる。それを見て知明は頬を緩めて、

【知明:ならさ。またふじちゃんと、そして今度は君も一緒に。いや、妹ちゃんたちも含めてどこかへ遊びに行こうか。知大もかなりふじちゃんのこと気に入っているみたいだし、みんなも楽しいだろうし。どうかな】

【相志郎:……はい。ほんとうにありがとうございます】

【知明:相志郎君だっけ? 相君。ふじちゃんは相君みたいな彼氏がいて幸せだね】

 ふじ乃はギュッと相志郎の腕にしがみついてから、「はい!」と満面の笑みで返事した。

 知明はふじ乃と相志郎の頭をそれぞれポンッと優しく撫でると、

【知明:おーい、ちびっ子たち! 噴き出し花火しようか!】

【想那:やった! するする!】

【いな穂:知明くん、わたしが火をつけたい!】

【想歌:私はちびっ子じゃありません! ってあれ? ……あ……、すみません! 間違えました……】

 知明は楽しそうに袋から噴き出し花火取り出してきれいに並べ始めた。それにいな穂と想那は嬉しそうにテクテクとついていく。

 3人とも元気だなと思いながら見ていると、突然視界が塞がれた。何事かと思うと、相志郎がズンとひとりで立っていた。ふじ乃は想歌の隣で楽しそうに話していた。

【相志郎:昂宗さん。今日はふじ乃がお世話になりました】

 律儀な青年だと心底感心した。全然だよ、と昂宗は手をフラフラと振って応えた。

【相志郎:ふじ乃を守ってくれたそうで。感謝してもしきれません】

 深く、深くお辞儀をした。昂宗はびっくりしてすぐに顔をあげるように肩を叩いた。

【相志郎:何かお礼をさせてください】

 昂宗は勢いブンブンよく首を横に振る。

【相志郎:昂宗さんも拒絶されるのですか……】

 相志郎は残念そうに俯いた。そしてまた唇を強く噛む。

【相志郎:皆さんには些細なことなのかもしれません。当然のことなのかもしれません。しかし、俺にとっては、それほど重大なことなんです。俺にとってふじ乃はそれぐらい大切なんです】

 相志郎はギュッと固く拳を握りしめている。昂宗はとりあえず隣をポンポン叩いて、相志郎に腰かけるよう示した。『失礼します』と言って相志郎は座った。それから隣の知大にペンとノートを借りて、

『相志郎君の気持ちは伝わりました。じゃあ一つだけ質問していいですか』

【相志郎:はい。一つと言わず、俺に答えられることならば、何なりと聞いてください】

『ふじ乃ちゃんのどこが好きなの?』

【相志郎:全部です】

 相志郎は一瞬の迷いもなく言い切った。

 隣では知大が思わず『おおぉ』と声を漏らしていた。

【相志郎:そもそも「どこが」とか、そういうのはないと思っています。人は、要素の集合体ではなく、その「存在」から「要素」が切り取れるだけだからです。俺はそう思っています。だからふじ乃の「どこ」を切り取った瞬間、それが意味する所は、俺がその「要素」が好きということ——つまり俺の嗜好傾向の表明であって、「菱川ふじ乃が好き」という意味からズレます。

 そういうわけで、申し訳ありませんがこの質問は、意味のないものだと思います】

 昂宗も知大も呆気にとられた。そんな二人の様子を見て、相志郎はそのまま続けた。

【相志郎:ですが、そんな回答を昂宗さんは求めていないですよね。できるだけ意に沿うように自分なりに解釈して答えるようにしますと……そうですね……。

 確かに俺はふじ乃の全部が好きです。はっきりと断定します。けれど、それはふじ乃の全部を受け入れているという意味ではありません。彼女の全てを肯定しているわけではありませんし。ふじ乃には、直してほしいところがたくさんあります。

 それでも俺はふじ乃が好きです。例えふじ乃の容姿が醜くても、性格が狂っていても、動かなくなっても、歳をとっても、を好きになれなくなったとしても。彼女が『ふじ乃』であり続ける限り、僕はふじ乃を好きでい続けます。

 ですから正確無理やり昂宗さんの質問に合わせて回答するならば、彼女が『菱川ふじ乃である』というところが好きなんだと思います。

 でも、『ふじ乃がふじ乃である』というのがいったいどういう意味なのか、俺にもはっきりとはわかりませんけど】

 相志郎の視線の先にはふじ乃がいた。すでに想歌とはおらず、片隅でひとり、手持ち花火を静かに眺めている。その表情は読めない。

【知大:それって、ふじ乃が『ふじ乃』じゃなくなった時、君は彼女を好きじゃなくなるということなんだよな?】

 知大が突然口を挟んだ。

【相志郎:そういうことになりますね】

【知大:それってものすごく不安じゃないか? 意味がわからないなら、それを避けることはできない——もちろん、何事にも終わりがあるということはいったん置いておいて——、あまつさえそれがいつやってくるかもわからないのでは、二人で地雷原を歩くようなものじゃ——】

 突然、相志郎は知大の話の途中で笑った。出会ってから初めての表情の変化だった。

【相志郎:いえ、まったく】

 昂宗さえ見惚れてしまうような、美しい笑顔だった。あまりにも無表情だったことから鉄仮面の印象が強くて気づくことができなかったが、彼もふじ乃に引けを取らない綺麗でとても整った顔をしている。オシャレさのない坊主頭が、むしろ彼の顔の良さをより魅せる。 

 二人してポカンとしていると相志郎は最後にこう付け加えた。


『愛しているので』


 パッと目の前が突然明るくなった。

 庭の中心で、シュワ―ッと噴き上げ花火が勢いよくその花びらを散らしていた。

【相志郎:それでは失礼します。今日は本当にありがとうございました。今後もふじ乃をよろしくお願いします】

 相志郎は立ち上がって、最後にもう一度深くお辞儀をして去って行った。そして花火の周りでグルグル踊る想那を抱きかかえて花火から少し離れた。相志郎の腕の中に納まる想那は花火を見ながら嬉しそうに話している。相志郎はすでにもとの無表情に戻っていた。

【知大:危なかった。危うく後輩の彼氏に惚れるところだった】

 クツクツと知大は笑っていた。全くその通りだ。相志郎のことを、外見も内心もイケメンといったふじ乃はただ惚気たわけではなく、「守詰相志郎」という人間の正当な評価を述べただけだったわけだ。どうやら、この空間のどこを見ても美男美女しかいないらしい。もちろんこれは、。昂宗は非常に肩身の狭い思いだった。

【知大:いいなぁ。私もそんな風に思われたい】

 遠い目をする。

『知大さんって彼氏いないんですか?』

 昂宗が書き込んだ質問に顔をひどく歪めて、

【知大:はぁ? それってセクハラだかんな?】

 そう言ってギロリと昂宗を睨みつけて凄んだ。ピキッと背筋が凍った。固まる昂宗を見て、『冗談』といって知大はまたクツクツ笑った。

【知大:あ、でも気をつけた方がいいかもしれない】

『何をですか?』

 知大は昂宗からパッとノートを取り上げて書いた。

『いまどきは、異性だけが恋愛対象じゃないんだよ』

【知大:「恋人」って表現するべきだ】

 言葉でそう付け加えた。

 昂宗はコクリと頷いた。

『そうですね。すみませんでした以後気を付けます』

 昂宗がノートに書いて見せると、

【知大:わかればよろしい】

 そこで会話が途切れた。知大を見れば、目の前の噴き上げ花火に全く興味なさそうに夜空を見ていた。花火が眩しすぎて星なんて見えないのに、何を見ているのだろうか。

 それにしても知大もかなり美人だ。

 海の帰りだというのに、一切焼けていない白い肌に肩甲骨ぐらいにまでのびる黒い髪。スクエア型の緑縁のメガネの奥には、切れ長の一重がクールにたたずんでいる。ふじ乃よりは少し低いが、それにしても女性にしてはかなり高い背丈と溢れる知のオーラが、知大の大人な雰囲気を作っている。そもそも昂宗がいな穂から聞いていた限りでは、知大は「冷酷で他人に興味のない孤高の天才」だった。それらの先入観もあいまって、知大といな穂並んでいる所を見た時、あまりにもミスマッチで笑ってしまった。

 しかし、それはどうだろう? 今日一日ともに過ごしてみると、そんな風に硬い印象は吹き飛んだ。いな穂と相性がいい理由がよくわかった。

『知大さんって意外とポンコツですよね』

 海であれやこれやを思いだして昂宗が笑う。なんでもできそうな知大は、意外にも運動音痴だったのだ。

『ポンコツ言うな。ちょっと運動が苦手なだけだ』

『だって、あののんびりないな穂ちゃんよりもっていうのが面白すぎて』

『いやいや、いな穂はああ見えて運動センスがいいんだ。というか昂宗こそ、私と大して変わらなかったじゃないか。問題じゃないか?』

『ぼくはインドアですから仕方ないんです!』

『私だってそうだ!』

 二人でにらみ合って、噴き出した。知大はクツクツと笑う。やっぱり知大の綺麗な顔には似合わない。それでもなぜか様になっている。

『でも、知大さんモテそうですよね』

 人は完璧よりも多少欠点がある方が魅力的に見えると聞く。それを思いだして、昂宗は先ほど無視された質問をもう一度書いてみた。それを受け取った知大は、今度はちゃんと答えてくれた。

『まあね。モテるよ。でも』

 この文章で手渡された。

『でも?』

 返すと、少し悩んだ様子を見せた。

『でも、残念ながら本命の人には振り向いてもらえたことがないんだ』

 昂宗が隣を見ると、知大は無感情に花火を見ていた。

『すみません』

【知大:なんで謝るんだよ】

 苦笑いの知大は口で返した。

『いな穂のこと好き?』

 手渡されたノートにそう書いてあったのが目に入った瞬間、ブハッとむせてしまった。

『何ですか、急に!』

『好き?』

『別にそういうのは』

【知大:ねぇいな穂! ちょっ……】

 知大が大声で呼んだ。それに気づいたいな穂はテンション高く二人のもとにやってきたが、

【いな穂:ん? どうかした?】

 表情を曇らせた。

 当然だ。昂宗が土下座をしていたからだ。

【知大:あ、ごめん間違った。邪魔してごめん】

【いな穂:? 別にいいけど……昂宗君は何してるの?】

【知大:ああ、新しいストレッチらしい。これをすると腰が気持ちいいんだって】

【いな穂:あっそう】

 いな穂が怪訝な表情のまま去ってゆく姿が、昂宗には容易に想像できた。もちろん今見えているのは縁側の床だ。

【知大:もう大丈夫だよ】

 そう言ってノートを渡した。

【知大:one more chance.】

先ほどの昂宗の言葉は二重線で消されており、そこにはもう一度、

『好き?』

 と書いてあった。

『好きです』

 そう素直に書いた。

『愛している?』

 さすがに昂宗は知大をにらんだ。それを見て知大は揶揄うような笑みを見せた。しかし、その後スッとまじめな顔になった。

 昂宗はそこで少しだけまじめに返事をすることにした。

『愛している。そう、相志郎君みたいにかっこよくは言えません。

 ぼく自身、いな穂ちゃんをどう思っているのか、よくわからないんです。けどいな穂ちゃんといると楽しいですし、たぶん幸せなんだと思います。じゃあ惚れているのかっていうのは本当によくわかりません。友達以上の感情を持っているのか、はたまた恋愛感情すら超えた、何かなのか、わかりません。

 わかっているのは、ぼくはいな穂ちゃんが好き。それだけです』

 それを見た知大は不思議な表情だった。

 正と負の両極の感情を綯交ぜにしたような。

『もし、いな穂が、「本当のいな穂」が「君がいま好きないな穂」じゃなかったら、昂宗はどうする?』

 昂宗は思わず噴き出した。さっき、相志郎が急に笑い出した意味がわかったような気がした。

『その時は、「本当のいな穂」も好きになるんじゃないですかね?』

 自信をもって、そう答えた。

 知大はクルリと目を丸くして驚いたが、破顔して、

【知大:カッコつけんな】

 そう言って昂宗の額を軽くこずいた。

 眼前ではもう何本目かの噴き上げ花火が未だ咲き乱れている。しかし、やっぱり知大はそんなものにはまるで興味がないらしい。残っている線香花火の束から一本取り出して、カシュッと火をつけた。

 チリチリと火薬の入った部分がゆっくりと丸まってゆき、ひと時の静寂を経てパチパチと弾け始める。一瞬の煌きを見せるとすぐに玉は小さくなっていく。輝いていた火の玉は燃え尽きて、すっかり見る影はない。

【知大:私、線香花火って好きなんだ】

 そう独白を始めた。昂宗は相づちを打つ。知大は燃えカスを横において、もう一本手に取って火をつける。

【知大:花火は全部、火をつけてもらわないと燃えることができないでしょう? けれど一度燃えればあとは燃え尽きるまで、終わるまでひとりで、自らの煌きを見せてくれる】

 そう言って噴き上げ花火を一瞥した。線香花火は小さな火の玉を作って咲き始める。

【知大:でも線香花火だけは違う。火をつけられた後も、誰かに持っていてもらわなければ、燃え続けることはできない。しかも持つときはうんと集中して丁寧に支えてあげないとすぐに落っこちてしまうそんな繊細さ。その癖、咲き方は地味で瞬く間に終わってしまう。

 だけど、いや、だからこそ、その儚さに魅了されるのかも】

 火の玉は小さくなっていき、花びらをすべて散らし終えたように見えた。そのまま枯れると思われた線香花火は、再びの煌きを見せた。パチパチ。

 知大は優しく見守る。

【知大:この一生懸命なところも好き】

 今度こそ、燃え尽きたようだった。

 知大はまたノートを手に取って、

『別にこういう話がしたかったわけじゃないんだ。今までは前振り。本題は、ここから。昂宗と本当に話したかったのは、いな穂のこと。

 ——いな穂を歌わせてあげることはできない?』

 そう綴った。

『どういうことですか?』

『私、いな穂の歌が大好きなんだ。昂宗は褒めてくれたみたいじゃないか』

『はい。最高でした』

『だよね。だから私は他の人にも聞いて貰いたい。最高だって知って欲しい。けど、いな穂は人前では歌えない。……私は知らないけれど、なにかトラウマがあるみたい。君はなにか知っている?』

 そう尋ねられて、昂宗は横に首を振った。

『初耳です』

 いな穂が歌うことを躊躇していたのは、昂宗に気を遣ってと言うわけではなかったらしい。

『そうか。ならいいんだ。人前にでると緊張しちゃって声が出ないみたいだ。私はいままで、何度もそれを克服できるように頑張ってみた。けれどできなかった。

 つい最近まで、いな穂は私の前でしか歌えなかったんだ。

 ——そう。君に出会うまでは。

 君の前で歌ったって聞いたときは本当に驚いた。実は泣いて喜んで、いな穂をたくさん褒めたんだ。

 もしかしたら、君となら歌えるかもしれない。そう思ったんだ。だから君に、昂宗に彼女のサポートをして欲しい。歌えるようになるように』

『……そうだったのですね。ですが、ぼくに何ができるのでしょうか?』

 そう書いて知大にノートを渡した時、知大は昂宗の左手を取った。そして指先に触れた。

【知大:その指のタコ。君、ギター弾いていたんじゃない? それも相当】

 とっさに手を引いて、指先を隠すように握った。それでもまた知大がその手を取ってグリグリとこじ開けようとしたので観念して開く。知大は固くなった指先を撫でて満足そうだ。

『はい。ギターを弾いていたことは認めます。しかし、あいにくですが耳が聞こえないのでそれは無理だと思います』

『そうかな? それだけ弾いていたなら、耳なんかで聴かなくても、身体が憶えているんじゃない?』

 そう言われて、反論はできなかった。

 なぜなら、それを否定できない程の自信が生まれるほど、昂宗は本当にたくさん練習したからだ。過信ではなく、過去の自分への信頼だった。過去の自分を裏切ることはできない——昂宗が否定するのは、——。

 どこをはじけばどんな音が鳴って、こうストロークすればどんなリズムが取れるのか、弦をはじいたときのギターの響きを全身で感じ取りながら、演奏してきた。表面だけを読み取って音を鳴らしていたわけじゃない。魂の叫びを目指していた。

 だから音が聴えなくても、絶対に弾ける。でも、

『ぼくはギターをやめたんです』

 そう書かれたノートを見て、知大はまた不思議な表情になる。

 悲しいのはわかる。でも、そこでどうして——

『そうなんだ。でも』

 知大はスクッと立ち上がって言った。

【知大:待ってるから】

 そう言っていな穂の方にテクテクと歩いていった。

 想那が知大に突撃するように抱き着いて、それにやきもちを焼く様にいな穂も飛びついた。

 賑やかな風景の中、昂宗だけは静寂に囚われていた。


 花火は終わって、ふじ乃と守詰兄妹とは別れた。いな穂は「それほど遠くないから歩いて帰れる」と言い張ったが、菱川家といな穂や知大達の住んでいる地域は駅を挟んで真反対にあるらしく、結構距離があるようだった。当然知明はそれを許さなかった。

 まず、いな穂を家まで送り、それから昂宗をアパートまで送り届けてくれた。

 はじめ、昂宗はその辺の駅で降ろしてくれればいいと言ったのだが、知明は知大のアパートに泊っているようだったのでついでだと言っていた。よく考えれば、朝も昂宗を一番に迎えに来てくれていたのだから、不要な遠慮だったようだ。

 車から降りるとき、メガネをきちんと返却した。後日、使い心地を教えてもらうために軽いアンケートに答えて欲しいと改めて言われたので、快くそれを受け入れ、知明と強い握手を交わした。

 帰ってきてからまず荷物を洗濯機に入れて回し、それからお風呂に入った。

 ぬるめのシャワーは焼けた肌に少しだけしみた。汗を洗い流し、さっぱりすると冷めた思考に浮かぶ、知大との話。

 濡れた髪もロクに拭かないで、亡霊のように物置の前に立つ。じっと見据えてから、決心したように扉に手をかける。開くとそこは、教科書や本、鞄などいろいろな物が雑然と積み重なっているだけの空間だ。それらを引っ張り出して、一番奥底にあるものを掘り起こす。ハードケースを開き、二度目の再会を果たす。

「ひさしぶり」

 思わずそう言葉が漏れた。

 顔を合わせるのはたった数カ月ぶりだというのに、まるで初めて会ったような感覚になった。そう思うと、いな穂と出会ったのはと別れてからだったことに気が付く。

 しかしながら、いな穂と出会って昂宗は生まれ変わった。そう考えると、という感覚はあながち外れていないかもしれない。

 チューニングもせずにポロンと弦に触れた。音を反響させるボディの振動は昂宗の指先を通じて心まで響く。音は聞こえない。それでも昂宗には届いた。魂が震えるような、そんな感覚。あの頃にはできなかった本物の音楽に、いまなら触れることができる気がした。

 夜はもう深い。

 ハードケースにしまう。ギター以外を物置にもう一度詰め込み直して扉を閉め、そしてそこに立てかけた。

「おやすみ」

 昂宗は眠りについた。

 

 その日、昂宗はとても悲しい夢を見た。

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