12.波乱の予感

 大粒の汗をダラダラとかきながら、昂宗はみんなのもとにたどり着いた。

【知明:お疲れさん】

 昂宗の持ってきた荷物を受け取って、変わりにスポーツドリンクを渡してくれた。ドリンクはキンキンに冷えていて、気持ちいい。爽やかな甘みが全身に染み渡っていくように感じた。

【知明:俺は荷物番して寝てるから、なんかあったら起こしてくれ。あいつらのこと頼むぜ】

 そう言って、ビーチパラソルの下に敷いた大きなビニールシートのど真ん中にまた寝転がって目を瞑った。知明は海に入る気はないらしい。水着に着替えることなく、長袖長ズボンにマスク着用のままで見ているこっちが暑くなるが、本人はまるで涼しげである。

【いな穂:ねぇ! 昂宗君! 海だよ!】

 知大に日焼け止めを塗られながら、興奮気味に言った。いな穂のテンションがいつもに増して高い。昂宗は苦笑いをしてそれに答えた。

 それにしても目のやり場に困る。ふじ乃まで、いつの間にか水着姿になっていた。

 三人の水着姿の女の子に囲まれた経験など、昂宗にはない。それにみなそれぞれスタイルがよく、魅力的だ。

 いな穂は、オレンジ色で華やかなワンピースタイプの水着だった。背が低く普段から元気いっぱいなため大人っぽさがなくて忘れてしまうが、意外にも女性らしい体つきで、昂宗は変に意識してしまう。知大はシンプルな黒いビキニだ。細くしなやかで芸術的な美しさを感じるが、シンプルに布地が少なく、直視できない。ふじ乃は空色のオフショルダービキニのようだ。薄いパーカーを羽織っているため、まだ昂宗の目には優しかった。

 昂宗は緊張でまた喉が渇いてきたので、もう一口、スポーツドリンクを飲む。

【知明:眼福だな】

 昂宗は思わずむせて噴き出してしまった。

【知大:大丈夫か?】

 三人に心配そうに見られた。どうやら知明の呟きを拾ったのはメガネだけだったようだ。知明の方を見れば、知大と対照的なたれ目が薄く開き昂宗の方を見てニタリと笑っていた。

 昂宗も水着に着替えることにした。と言っても服の下に着てきているのでそれを脱ぐだけだった。

【ふじ乃:昂宗さん、僕が日焼け止め塗ってあげますよ】

 そう言いながら、手に出した日焼け止めをネチャネチャとこねるようにしながら、近づいてきた。

 昂宗はお願いしようと思ってコクリと頷き、背を向けた。すると、ふじ乃は後ろから抱き着くようにして、昂宗のお腹にピチャリと触れた。真夏なのにひんやりと冷たいふじ乃の手が触れた瞬間、ゾクゾクっと背筋が震えるのを感じた。いや、それよりも背中に微かに触れる柔らかくフワフワとした感触の方が、まずい。

【知大:おい昂宗、気色の悪い悲鳴をあげるな】

 そう知大に怒られた。悲鳴が漏れ出ていたようだ。しかし、この状況を見てそんな風に冷静にいるべきじゃないはずなのだが、と思いながら振り返ると、昂宗に背を向けながら知大は自分の身体にクリームを塗っていた。そのせいでかなりビキニがはだけている。長い髪はポニーテールになっていて、白く綺麗な背中が完全に露わになっていた。いくら周りにまだ他の人がいないからと言っても、無防備過ぎる。

 そっと視線をもとに戻した。昂宗は逆らうことも声をあげることもできず、ただ固まっていた。

【ふじ乃:え、細っ! ガリガリじゃないですか。もっと筋肉つけなきゃ駄目ですよ】

 昂宗の身体をまさぐるように、クリームを塗る手はお腹から徐々に上にあがってくる。胸部に触れようとしたとき、

【いな穂:ちょっと待った!】

 そう言いながらいな穂がパカリと割って入って来た。密着していたふじ乃の身体は剥がれ、昂宗の硬直は解けた。

【ふじ乃:何するのですか!】 

【いな穂:なんだも何もないよ! 何をいかがわしいことしてるのよ!】

【ふじ乃:はい? 日焼け止めクリームを塗ってあげることの何がいかがわしいのですか? 意味がわかりません】

【いな穂:な、そ、でも……】

【ふじ乃:はぁ、先輩が何を言いたいのかまるでわかりません。全く、いかがわしいことを想像したのはいったいどっちの方なんですかね】

 ふじ乃は大袈裟にため息を吐いて、ヤレヤレといった様子だ。しかし、どう見ても揶揄っている。しかし、いな穂はボッと顔を真っ赤にして『わたし、エッチじゃないもん』といいながら首をブンブンと横に振るので、気づいていない。

【ふじ乃:さて、続きは……先輩にやってもらってください。僕がやるといかがわしいらしいので。僕は知大さんと塗り合いっこしますので】

【いな穂:へ?】

【知大:はぁ!?】

 そう言ってスタコラと、知大の方に行ってしまった。

【知大:ちょ、待て! もう私は塗りおわ、あ、ああぁぁぁぁああああ! あ……】

 知大は抵抗を示したが、やがてふじ乃に捕まり、全身くまなくオイルを塗られていた。知大は知明に助けを求めていたが、すでに寝入ってしまっていたようだ。決して面白いから無視しているわけではない。半笑いに見えるのは気のせいだろう。そもそもマスクをしていて口元がみえないんだから、やはり気のせいに違いない。そちらからは目を背けて、いな穂の方をみた。

 怒りからなのか恥ずかしさからなのか、未だにプルプルと震えている。

 昂宗はふじ乃が使った日焼け止めクリームを取って、いな穂に渡し、背中を向けた。どちらにしても昂宗は体が硬く手が届かないので、背中に塗ってもらわなければならない。ふじ乃はもう知大に夢中だし、知大は時々ビクビクと痙攣しながら、もうなされるがままの放心状態だし、知明は狸寝入りを隠す気もなく笑っているし、いな穂しかいない。

 しばらく待っても塗りはじめないので、首だけを回して後ろを見ると、その瞬間いな穂が後ろから勢いよく抱き着いた。

 昂宗にはわからなかった。なぜ抱き着かれたのか。

 いな穂は手を震わせながら、昂宗の胸をゆっくりと撫でた。ゆっくりと何度も何度もペタペタと撫でる。それから肩の方に手は伸びて、優しく触れた。

 そこで昂宗はやっとわかった。いな穂がクリームを塗ってくれているのだと。

 だから、まずい。いな穂は完全に抱き着いている。パーカーを羽織っていたふじ乃とは違って、彼女の胸がほとんど直に、昂宗の背中に強く押しつぶされるように押し付けられているのだ。

 まずい。頭が真っ白になる。それとは対照的に、顔がどんどん赤く、熱くなってく。まずい。

 どうして、どうして、

【知大:どうしていな穂は昂宗の前を塗るのだ? 手が届くのだから自分で塗れるだろう? だからわざわざ背中を向けて待ってくれているのに、そんなに後ろから抱きついてまで……】

【ふじ乃:いな穂先輩、いかがわしいですね】

 すっかり元通りになった知大と意地悪に笑うふじ乃が、やっとツッコンでくれた。

 またしてもいな穂は頭から湯気が出るほどに赤くして、

【いな穂:もう知らない!】

 ビーチパラソルからピューッと飛び出していった。

【知大:あ、こら! 遊ぶ前に一度水分補給しておけ! 喉が渇いてからじゃ遅いんだからな!】

 知大はクーラーボックスからスポーツドリンクを取り出して追いかけていった。完全にデジャブだ。

【ふじ乃:あーあ。行っちゃいましたね。昂宗さん、後ろ向いてください】

 ふじ乃はクリームを取って普通にペタペタ塗り始めた。

 昂宗はスマホを取り出して、メッセージを打ち込む。

『いな穂ちゃんのこと、どうして煽ったの?』

【ふじ乃:それは、先輩が情けないからです】

 そしてクリームを塗る手が止まった。

【ふじ乃:余計なことを考えて、迷って悩んで、傷ついて。本当は素直になるだけで、それだけでいいのに】

 昂宗にはふじ乃の言っている意味がよくわからなかった。

『それはどういう?』

【ふじ乃:あはは】

 ふじ乃は笑ってから、

【ふじ乃:少し、僕の話をしてもいいですか?】

 昂宗が振り返ろうとすると、首を抑えられて阻止された。表情は見えなかったが、どうにも真面目な様子に感じる。昂宗は頷いた。

【ふじ乃:僕には彼氏がいます。その、だから昂宗さん気持ちには答えられないんです……】

『どうしていきなりぼくは振られたんだ……』

【ふじ乃:だって昂宗さんが僕のこと、エッチな目で見るから】

『せっかく真面目な話だと思ってちゃんと聴こうとしているんだから、恥ずかしがってふざけないで。素直になるのがいいんでしょ?』

【ふじ乃:バレてましたか。鋭いですね】

 そう言って昂宗の背中をパチンと叩いた。びっくりしたところで、今度は背中にポンと重さを感じた。ふじ乃が背中合わせにもたれかかって来たのだった。

【ふじ乃:僕の彼氏はとても素敵な人です。僕から告白したのですが、本当に勇気を出してよかったと思います。あの頃、僕はなかなか素直になれませんでした。そのせいでいろいろありました。彼に……相志郎って言うんですけど、相志郎にたくさん迷惑かけましたし、心配もかけました。たくさん助けられました。

 ふつうならきっと、愛想つかしてしまうぐらい、本当にたくさんのことがありました。それでも相志郎は僕のことを——私を愛してくれています】

『彼氏さんのこと、本当に大好きなんだね』

 ふじ乃は少し照れたようにして、小さく「うん」と返した。

【ふじ乃:大好きです。でも、……だからこそ少し不安です。

 どうして相志郎がそんなに私を大切にしてくれるのかわからないんです。

 ……自慢じゃないですけど私、かわいいでしょう? 実は頭もいいんです。お利口さんです。それに運動もできて、実家はお金持ちです。そのせいで高校生になるまで、まわりから少し浮いていたんです。いじめられていたわけではありません。ただ、ずっと独りでした。そんな時、ただの幼なじみだった彼だけはずっとそばにいてくれました。いや、幼なじみというのは少しおこがましいですね。家は確かにそこそこ近所にありますけれど、別に家族ぐるみの付き合いがあったわけでもないですし。ただ6年間、小学校のクラスが同じだけでしたから。それなのに、気づいたらいつもそばにいてくれて、中学で私が女子校——いま通っている高校の中等部ですよ——に進学して、離れ離れになっても、毎日会いに来てくれました。

 彼は、どうして私のそばにいてくれるのでしょう? 僕がかわいいからでしょうか? 違うと思います。少なくとも小学生の頃ならルックスにそれほど対した差なんて出ませんよ。当時なら、同じぐらいかわいい子なんてたくさんいました。そしてそういう子はみんな相志郎にべた惚れでした。相志郎は内面も外見もイケメンですからね!! でも、相志郎はその子たちに見向きもしませんでした。

 では、頭がいいからでしょうか? 違うと思います。私は馬鹿で愚かでですから。

 お金持ちだから? 違うと思います。実は、彼の家はあまり裕福ではありません。しかし、うちが援助すると私が、そして父と母がいくら言っても、彼だけは頑固に首を縦に振ってくれません。出会ってから一度も。受験生なのに彼が勉強時間を削ってバイトに打ち込まなければいけない理由がこれです。

 ではいったい、相志郎は私のどこを愛してくれているんですかね。わからないです。だから、不安なんです。いつ、捨てられてしまうのか。私がどうなったとき、彼に愛されなくなるのか。わからないんです】

 ふじ乃はどういう声音でいま昂宗に打ち明けているのだろうか。昂宗はただ頷くことしかできなかった。すると突然ふじ乃の体重が消えて、昂宗の顔が上向きに持ち上げられた。その先では、美しいふじ乃の顔が覗き込んでいて、一瞬斜め下に目を逸らしてから、気まずさを紛らわせるように、無理にニヘラと笑った。

【ふじ乃:私はいったい何の話をしたいのでしょうか。ああ、思い出しました。

 だからせめて、相志郎の前では素直になろうと決めました。いつだって本当の自分であろうと。だって相志郎は『私』を愛してくれているんだから、だったら、私は『私』を見せていればいいんだ。そういうことかなって思ったんです。

 先輩の前や、昂宗さんの前の私は……あははっ、めっちゃかっこつけてますからね。今の、みっともない弱音を吐く私こそ——僕は、偽物の『僕』です】

 そしてふじ乃は昂宗の顔から手を放した。

【ふじ乃:とにかく、僕は先輩が大好きなんです。だから幸せになって欲しいのです。そのためにほんの少し、勇気を出して欲しいのです。素直になって欲しいのです。きっと昂宗さんなら、いな穂先輩の素直な気持ちを受け止められるって確信していますから。

 ……昂宗さんにも、ね】

 ふじ乃は、昂宗といな穂を友達以上恋人未満の関係だと勘違いしているのではないだろうか? それとも、なにか深い事情を彼女は知っているのだろうか?

 なんと返すべきかわからなくなって、昂宗が入力画面とにらめっこしていると、

【ふじ乃:はい、おしまい! 海ですよ! 遊びますよ! 行きましょう!!】

 昂宗の手をグッと引いてくれた。波打ち際ではさっきまでのことなんてすっかり忘れたようにはしゃぐいな穂がいた。いな穂が招くように手を振っていた。

 ふじ乃と二人で走って行くと、勢いそのまま、昂宗だけが穴に落ちた。一瞬なにが起きたのかまるで分らなかった。いな穂と知大の方にむかって、ふじ乃に手を引かれながら走っていって、そしたら突然穴に落ちて……

【いな穂:昂宗くんのエッチ。お仕置きなんだから】

 いな穂が見下していた。ふじ乃がゲラゲラと、知大はクツクツと笑っていた。そこでなんとなく状況を把握した。

 今日はたいへんな一日になるぞと、昂宗は思ったのであった。

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