1. はじまり
昂宗はこの春、大学生になる。田舎にある実家から出て、大学の近くに下宿することになったのだ。おそらく、昂宗が4年いっぱいお世話になるだろう下宿先は、大学から徒歩5分、築年数11年、家賃は月2万8000円のアパート。しかも風呂はセパレート、ロフト付き。この辺りではかなりいい条件のアパートだろう。かなりいい物件を見つけたと、勝ち誇った。
これからはひとり気ままな生活が送れると思っていた。何をしていても親からうるさく言われない。妹も弟も自分の邪魔をしない。そんな気楽な生活が送れると心底思っていた。
しかし住み始めて3日で嫌になった。
まず、自分のことは全て自分でやらなければならないという、ごく当たり前のことにつまずいた。
朝、何時まで寝ていようと誰も起こしてはくれない。起きても誰もおはようと言ってくれない。布団から出ても、朝ごはんのいい匂いは漂ってこない。暇だから街に出て、夜遅くまでフラフラ出歩いてから部屋に戻ると、当然鍵がかかっていて、明かりはついていない。ましてや暖房なんて、だ。なぜなら部屋を出る前に切ったのは昂宗自身だ。室内は暗く、冷たく、寒い。人の温もりなんてあるわけがない。
歩き疲れて、昂宗は部屋に寝転がった。
「お腹減ったな」
そう独り言ちるが、虚しく室内に響いただけであった。いくら待っても、夕食は運ばれてこない。立ち上がり、食べる分だけを自分で作り、食べて、そして片づける。
実家では、なんだかんだ夕飯時には家に誰かが必ずいた。母に、妹に弟、そして父。だから、夕飯をひとりで食べるのは昂宗にとって初めてのことだった。
昂宗は料理に興味があったこともあり、実家では母のご飯の支度の手伝いをよくしていた。だから、昂宗は多少、料理ができる。いま食べているオムライスだって、母の作ったものと違わない味のはずだ。けれど昂宗には、そのオムライスがいままでに食べたどんな料理よりも、不味く感じた。
洗濯だってそうだ。洗濯籠に入れておけば、次の日にはたたまれて自分の部屋に運ばれているなんてイリュージョンに等しい。着て汚した衣類は、自分で洗濯して乾かさないと、また着ることができない。洗って、干して、乾いたら取り込んで、着たらまた洗って。この不毛に思える無限循環を、母は毎日してくれていたのだ。それも自分の為ではなく、昂宗たち、家族のために、『他人』の為に。
昂宗は無性に恥ずかしくなった。
生きていくために必要なことをこなしているうちに、あっという間に時間は過ぎていった。気ままでも、気楽でもなかった。いつも一生懸命だった。
それでも慣れるまでの辛抱だと思っていた。希望はまだ捨てていない。なんせ、まだ大学生活は始まってすらいない。
数日後、昂宗は入学式を迎えた。新しいスーツに身を包み、誰もいない部屋に向って「行ってきます」という。もちろん返事はない。けれどそんなことは気にならなかった。
なぜなら、今日から本当に新生活が始まる。待ちに待った花のキャンパスライフの開幕だからだ。発見と幸福に溢れ、青春一色に染め上げられた、自由を謳歌する人生最高の時間。自由で満たされた時間。
ずっと、夢に見ていた。
そう、夢見ていたのだ。
しかし、現実は非情だった。
どうすればいいのか、わからなかった。
入学式から帰って来た昂宗の感想がこれだ。
昂宗はただ入学式に出て、帰って来ただけであった。何もなかった。驚くことに、ほんとうに何もなかった。
緊張しながら入学式が行われるホールに向かい、ボーっと話を聞きき、全て終わったと思って外に出ると、すでに周りのみんなは楽し気に友達と話していた。わけが分からなかった。彼らはいったいどのタイミングで仲良くなったというのだろう。すでに出来上がっている数々の友人の輪を見て、昂宗にはそれに飛び込んで加わることができなかった。
だから、どうすればよかったのか、何が自分に出来たのか、何をすべきだったのか、わからなかった。式場となったホールを出てから、頭が真っ白になった昂宗は、「友達がいないやつ」と笑われるのが怖くなって、人を避けるようにしてそそくさとアパートに戻ってしまったのだった。
友達って、どうやって作るんだっけ?
アパートに戻って独り、夕食を作りながら考えた。
昂宗はいままで、友達がいなかったわけではない。友達に困ったことなんてない。人並み、むしろ多かった方だと自負しているぐらいだ。
だが、「どうやって友達を作ったのか」と過去の自分に尋ねたところで、ポカンと間抜けに首を傾げるだけであった。それでもしつこく、何度も尋ねると、
「友達は作るんじゃなくて、自然とできるもんだろ?」
ため息を吐きながら、バカにするように言われた。それができないから聞いているというのに融通の利かないやつだと、自分に対して腹が立った。しかし、それが全てだったのだ。昂宗には最初から、わかっていたのだ。
実にシンプルなことである。
自由とは、『自由』という意味だ。つまらないトートロジーではない。
自らで行動を選択し、その結果を自らの意思で決定することができる。入学式に行って帰って来た昂宗は、入学することができたかもしれないが、それ以上はない。周りの人間は入学式に行って、友達を作ろうとし、行動した。だから入学して、そして友達ができた。
何かをすることも自由。もちろん、何もしないこともまた、自由。
昂宗の求めた『自由』とは、つまりはこういうことだ。
ただ、昂宗はそれに気が付くのが少し遅かったのかもしれない。
その頃にはサークルの新入生勧誘の期間もすでに終わっていて、大学では講義や授業が本格的に始まりだしており、何より皆それぞれ自分の居場所を確立し終わっていたのだった。
まだまだ慣れる気配のない家事に、難しい大学の講義、それらに友達作りを加えるのは不可能だった。そんなことができるのならば、そもそも昂宗の現状はこんな風になっていないのだ。
大学に行って講義を聞き、帰る。それだけの生活だった。何もない。何も起きない。ただ生きるだけの暮らしであった。
「ひとり」は平気だと思っていたのだが、それは「孤独」とは別物だったらしい。
講義から疲れてアパートに帰っても、やっぱり真っ暗な部屋。ただいまと言ったところで、なんて虚しい。ドアを閉めると、ガチャンと大きく部屋が揺れた。自炊もすでにやめてしまったので、スーパーで買った半額のシールが貼られた総菜弁当を食べて、風呂に入って、それから眠る。
これが昂宗が望んだ、『自由』。
朝早くからたたき起こされて眠い目をこすりながら学校に向かい、長い時間席に着かされやりたくもない勉強を強制され、少しの休憩時間に文句を言いながらクラスメイト達とくだらないことで爆笑する。やたらとクラスで団結を求められ、知らない相手と無理やり仲良くならなければならない。学校から帰ると家は明るく、鍵も使わずにドアを開ける。玄関ではすでに美味しそうな匂いがして、友達と外食したいのに母にダメだと言われてイラついていたことなんてすっかり忘れてお腹が鳴ってしまう。長風呂の妹と風呂の入る順番で喧嘩をする。いつまでも居間にいると父に小言を言われ、逆切れしながらも勉強机に向かう。
そんな束縛にまみれた自由とは対極のような今までの生活が、いかに楽で恵まれていたのかを、昂宗は思い知った。自由とは時に不自由よりもつらく厳しい。そんなことも知らなかった。
昂宗が自由に苦しみ嘆く一方で、キャンパスを歩けばそこら中で誰もが、自由を謳歌していた。
友達と馬鹿みたいにはしゃいでいる人、恋人と幸せそうに歩いている人、一生懸命に部活動に打ち込んで美しい汗を流している人、研究に熱中してご飯を食べることも忘れている人。昂宗と同じ境遇のはずのひとりぼっちで歩く人ですら、まるで自分が一番幸せだという様に堂々としている。
誰にでもできることが自分にはできない。昂宗は自分が劣った人間であるとそこら中で証明され続けているようだった。
どうして自分が生きているのかわからなくなった。死にたくなった。
それでも、昂宗は自分を保って、生きることができた。まだまだ頑張ろうと思うことができた。
昂宗の心を支えたのは、「
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