19、概念思考

 時   二〇二五年八月三十一日(日)

 場所  N市T区、自宅



 帰宅後、二人で早めの夕食を作りながら、理恵は時折、甘えるように私の身体に触れた。

 家にいる時、理恵がいつもそうしているのではない。私の仕事の妨げにならず、理恵の仕事の妨げにならぬかぎり、理恵は近くにいて、いつも私に触れている。




 いつだったか、仕事場で日記を書いている私の肩に手をのせた理恵に、何気なく理由を訊いた。

 理惠は、

「こうすると、先生から穏やかな気持ちが伝わってきて、おちつく・・・」

 私の腕を撫でながら言った。


 確かに帰宅後の理恵は手を洗って部屋着に着換えても、目尻がわずかに上がり、私にしかわからない、怒りのような気配が顔に現れている。それが、私の肩や腕に触れていると、数分で穏やかな、少し垂れ目の理恵になる。

 理恵が私に触れている間、私は理恵が放つ熱さと芳しい香りとともに、理性と緊張と知識によって下した判断と、患者から受けた感情の流れなど、自己を抑えた理恵の感情を受けとめている。つまり、理恵が勤務先で他人から受けた感情を、私は感じている。


 理恵は物事にこだわらないおおざっぱな性格だが、常人より感受性が強く、他人の感情を受けとめやすい。他人に関わらないようにしているが、理恵の美貌に他人は無言の感情や無意識領域からの感情を浴びせる。理恵はそれらを自分の無意識領域で受けとめ、気づかぬうちに疲れて、怒りの感情を抱いてしまう。


 元妻も理恵のように、私に触れているとおちつく、と言ったことがあった。私は人の五感では感じ取れない領域で起きている変化を説明したが、概念思考が苦手な元妻は理解できなかった。


 理恵に、人の五感では感知できない領域で生じる事実を語っても、今の理恵はまだ対処できないように思えた。私は説明せずに、理恵が触れたいように触れさせた。

 理恵が私に触れ、他人から受けた感情が私に伝わると、理恵は少女ような幼児のような穏やかな理恵になる。柔らかな陽射しの下で、芽吹いた若葉が伸びようとするような感覚だ。理恵の本質は少女か?

『私の見た目は、二十歳前だぞ』

 そうだった。確かにマリオンは若くて美しい。理恵に似てる。


「俺に触れておちつくのは、帯電した静電気をアースするようなものだね」

「静電気は流れたら終わるけど、私の気持ちは終わらない。ず~とつづくよ!」

 子供のような表現だった。理恵は私に対する愛情を思って、勘ちがいしていた。


「表現が悪かった。つまり、今日一日に他人から受けた、自分でない感情を地へ流し、本来の自分を取りもどすんだ」

「それなら先生がアースなの?私が受けた他人の感情は、先生の所へ行ったの?先生はそれを、どう処理するの?」

 思っていた以上に理恵の思考は理科系だ。文科系思考の元妻とはちがう。


「この感情は自分のじゃない、と認めれば、消える。消えない時は・・・」

「消えない時は?」

 理恵は眼を見開いて私を見ている。興味にあふれた子供の顔だ。

「祈る。神様、助けてください、と」

 私はおどけるように言った。


「も~お、冗談ばっかり言って~」

 理恵のまなざしが鋭くなった。

「で、本当はどうするの?」


「本当に神々に祈って、区別して、その感情に対応しない・・・」

 私は説明する。

 人は往々にして思い浮かべた対象に話しかけ、考えこんで思い悩んでしまう。たいがい、思い浮かべるのは楽しい記憶より、反省や後悔だ。自己がふんぎりをつけないかぎり、これらはずっと記憶に残っている。常人の記憶はそうしたものだ。

 だが、思い浮かべる対象が、自己の思う対象でなく、他から侵入したものなら、自己が思い浮かべた、と思って対応した結果、対象が新たに変化して、自己の記憶に残ってしまう。つまり、他の記憶を作り変え、自己の記憶にすりかえてしまうが、自己は記憶のすりかえに気づかない。我々の知らぬ間に、記憶のすりこみが起こる。


「知識ってすべて記憶のすりこみだよね。でも、私の中の先生はすりこみじゃないよ」

「そうだね。俺の中の理恵は俺だけの理恵だ」


 最初、私は、歯科衛生士という、妙に自己意識過剰なプライド高い女を警戒していた。

 三度目に理恵を見た時、理恵は見た目とちがい、そそっかしくて、ちょっと抜けた所があって、ユーモラスな性格なのに気づいた。美人で理知的で近寄り難く見えるが、仕事がら、そのような態度が身についただけだ、と。

 突然、この女は私といっしょにいる女だ、と感じた時、私はまだ理恵の眼しか見てなかった。同時に、歯科検診結果を説明する理恵が傍にいるだけで、すごく熱いのを感じた。あれは体温じゃなくて理恵の感情だった。その後、待合室の私を呼ぶ理恵を見て、理恵が美人なのに驚いた。


「憶えてたんだ。先生の傍にいたら、身体が芯から熱くなったんだ。それで熱くなった胸を先生の頭につけたくなったの。あんなことしたのは先生だけだよ!誓ってほんとだよ!」

「うん、わかってたよ」


「やっぱり、先生は、そうだったんだね」

「何が?」

「私の気持ちを感じてたんだ」

「うん、あの時から、ずっと理恵を思ってた。いつか、妻にしたい、と」

 私は日記を保存しながら言った。


「うれしいな・・・」

 理恵は私の背後から胸に腕をまわして抱きつき、私の肩に顎をのせ、頬に頬を触れた。放つ熱さと芳しい香りが増している。




 私は仕事場での理恵を思いだしながら、二人で夕食を作り終えた。

「さあ、食べよう」

 二人でテーブルに夕食を準備し、私は理恵を抱きあげてまわった。

「きゃっ、だめっ、目がまわるよぉ~、あはははっ」


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