9、歯科衛生士
時 二〇二五年七月九日(水)
場所 N市、K街道、ショッピングモール
快晴がつづいた。
午前中、街宣ヴィークルが来ないのを見はからい、私と妻はK街道のショッピングモールへ出かけた。街宣ヴィークルがうるさくて、延ばしていたひと月分の食料の買い出しだ。
モールに着くと、妻と待ち合わせ時間を決め、私は書店に入った。
科学関係の雑誌を見る私は、左背に熱さを感じた。専門書のコーナーから誰かが見ている。本人をじかに見ないよう確認すると、白いサンドレスに白のミュールの背の高い女だった。
もしや、と思い、確認すると、やはりあの歯科衛生士だ。
日記の内容が漏れたのはネットワークじゃない。電源ケーブルか?それとも、マリオンか?
歯科衛生士は、歯科専門書を手にしたまま、私にほほえみ、こっくりうなずいた。マスクをしていない彼女は、私が思う以上に口角があがっていたが、やはり美人だった。
「もしかして、歯科衛生士の先生ですよね?昨年、私を治療してくれた・・・」
「ああ、やっぱり田村さんですね。その後、どうですか?」
歯科衛生士は、左手に載せた専門書のページを右手で押さえて近づき、私の眼を食い入るように見ている。歯科治療中に私に質問した時のまなざしだ。
「今年の検診で、磨き残し6%、出血5%でした。それに、様子見の虫歯が一本・・・。検診の最後は、3%と2%になりました」
私は歯科衛生士の身体の熱さを感じた。
「がんばって、これからもつづけてくださいね」
歯科衛生士はほほえみ、専門書を閉じた。
「今はどちらのクリニックへお勤めですか?」
私は歯科衛生士に尋ねた。
「こちらのD歯科クリニックです。実は家がW区なんです。Y歯科クリニックはこちらの勤務が決まるまでの、二年契約だったんです」
「やはり、そうでしたか」
「えっ?知ってたんですか?」
歯科衛生士は驚いている。怪訝な顔だ。
「最初に会った時、話し方を聞いて、N市の人と・・・。
先生がいなくなって、医院へ行く楽しみがなくなりました。
Y歯科クリニックの娘さん、と思ってました」
私は本当にそう思っていた。
「名前は菅野理恵です。Y歯科クリニックの先生と苗字が同じなので、よく勘ちがいされました。最近の人は上の名、下の名なんていいますけど」
下の名と聞いて、思わず私は歯科衛生士の下半身を想像した。想像力の悪い癖だ。
「今日は、お買い物ですか?」
そういって歯科衛生士は小首を傾けて私を見ている。
「ええ・・・。お願いがあるんですが・・・」
「何でしょう?」
歯科衛生士の眼が探るようにきらめいた。
「時々、メールしていいですか?」
「えっ、どうしてです?」
「あなたのファンにしてください」
「ファンは困ります。でも、どうしてですか?」
「一目惚れです。あなたを見てると、暖かみを感じる。穏やかになれる。こんな年寄りですみません」
「困りました・・・」
歯科衛生士は目尻に笑みを浮かべたまま、専門書に眼を向けた。歯科衛生士の放つ熱さが増した。
「アドレスを、会ったら渡そうと思ってた。気が向いたらメールください」
私はズボンの腰ポケットから、メールと通信番号のメモを取りだして渡した。
歯科衛生士はメモを受けとり、見ながら
「気が向いたらですよ・・・」
小声で言った。
書店の入口に、明らかに右翼とわかる、麻の詰襟を着た二人の男が現れた。
「私を知らないふりしてください。あとで説明します」
私が小声で言い、歯科衛生士は私から離れて専門書を開いた。
私はキャップを少し深めにかぶりなおし、サイエンスを手に取ってページを開いた。この日の私は、緩めのチノパンにティシャツ、薄手の綿のカーディガンだ。
視界の隅に、書店の客を見る男たちが映った。こちらを見て、男たちは私に気づかず、書店を出ていった。
「すみません・・・。もう大丈夫です」
「何だったんですか?」
「現政権に賛同する右翼、経済界のまわし者らしいんだ・・・」
私は歯科衛生士の耳元でささやき、かいつまんで日記に書いた出来事を説明した。
「それって、映画みたいですね!」
歯科衛生士は目を見開いている。
「映画は結末を想像できるけど、現実は、近い未来すらわからない」
「日記に、結末を書いたらどうです?意外とうまくゆくかも知れませんよ!」
いたずらするように眼が笑っているが、馬鹿にしていない。まなざしが穏やかで真面目だ。どこかで見たまなざしだった。
「途中までしか書いてないんだ。もっとくわしく書けば、奴らを排除できるかもしれない」
妙に納得する私の前で、歯科衛生士は眉をひそめて不安な顔になった。
「もしかして、私も、登場する?」
「それはない。いや、別の文章で登場してる。出会ってアドレスを渡して、そこまでだ」
「私は書かないでください。夫もいるし、こちらに仕事が決まって、やっとおちつけたんだから・・・」
「わかりました。消去しておきます・・・」
歯科衛生士は私を信用してる。
マリオンの説明では、保存文章の削除はできない。訂正文を書くだけだ。説明しても理解されないだろう・・・。
「実は、引っ越したんです。T通りのレストランTの近くに。ここから近くです。よかったら、旦那さんといっしょに遊びに来てください。そうすれば、メールもしやすくなる。私も妻から妙に思われない」
「妙って?」
「あなたに気があるとか・・・」
「本当は、そうなんでしょう?」
歯科衛生士はさらりと言って目尻に笑みを浮かべ、私の眼を見ている。私は、歯科衛生士の放つ熱さが増したように感じた。
「実はそうです・・・。私のことは、消去すべきだと思ってますか?」
「そんなことありません。最初は、変わった人と思ったけど、やっぱりそうでした。でも、正直なんですね」
歯科衛生士はほほえんでいる。
「迷惑でした?」
「ええ、とっても・・・」
歯科衛生士はほほえみながら専門書を閉じ、
「今日は、これで・・・」
とレジへ行った。専門書の会計をすませ、私に会釈して書店を出ていった。
今度から日記はタブレットパソコンに記録しよう。これなら、マリオンが他へ話さないかぎり内容は漏れない・・・。
家へ帰った私は、セキュリティモニターの外部通信回線をすべて遮断した。デスクトップパソコンのネットワークを未接続にし、デスクトップパソコンの日記をUSBメモリーに保存し、デスクトップパソコンの電源を切った。
タブレットパソコンを起動して、USBメモリーをダウンロードし、歯科衛生士から言われたように、彼女に関する文章の訂正文を書いた。
これで彼女に関する記録は消えるが、私の記憶から彼女は消えない。現体制の批判と今後の方針と未来計画も私の頭の中だ。日記の文章を消去しても、私の記憶は消えない・・・。私は記憶の中の右翼の男にそう言った。
『それでいいぞ』
マリオンか?
外を見た。道路を隔てた民家の屋根に烏がいる。
私は烏を見ながら考えた。
東日本大震災の福島原発破壊事故以来、放送されないが、原子力発電は過去に、
「原子力は二酸化炭素を発生しない、クリーンで安全なエネルギーです」
と政府広報で放送しつづけたが、経済優先の危険な政策でしかなかった。
原発は政府官僚が画策立案し、電力会社が推進した事業だ。電力会社にかぎらず、経済界は政府官僚に天下り先を作り、政府官僚は経済界のための法案を通して、企業に法律に守られた利権を与えて事業を進めさせた。内閣府は政府広報と称して経済界の宣伝を行い、経済界はエコロジーを隠れ蓑にして安全に、危険な原子力エネルギーを使いつづけた。
こんな経済界と政府はくたばればいい・・・。いや、くたばるのは内閣じゃない・・・。内閣は権力を持ったと信じている無能集団にすぎない・・・。
東日本大震災のあの時、私はそう思った。
福島原発破壊事故から原発の危険を知ったにもかわらず、政府は原発完全廃止を強行しなかった。「原発廃止・自然エネルギー発電法」で、まっさきに首都圏近郊の原発に下された原発廃止命令を、電力会社は無視した・・・。
私は日記を書いた。
『国民の安全を無視し、経済のために危険な原子力政策を立案実行した責任者、とくに原発事故を起こした電力会社の責任者を、社会的に抹殺すべきだ。
原発事故の国民に対する保障と賠償は、それら責任者と、電力会社責任者の、個人資産を以って行い、子孫に対しても賠償責任を負わせねばならない。
この者たちは私利私欲のために、放射性物質で国土を汚染し、使用できない土地にした。いわば国土を消滅させた張本人だ。戦後処理で言えば、恩赦も特赦も認められない第一級戦犯だ。それを指導した政府の責任者はそれ以上の重罪だ。
そして、公務員特別措置法を廃止すべきだ。
あらゆる政策の責任を問われないことが、結果に責任を持たない政策と、多くの害を産んできた。福島原破壊発事故後も、政府内閣は福島原発の経験を省みず、無責任に、
「電力不足解消に原発を安全に使う」
などと言い、停止している原発を再稼動させるため、何もできなかった原子力保安院の名を原子力規制庁などと名を変え、もう一度
「絶対的に安全なストレステストの基準を作らせる」
と馬鹿を言ってきた。
数十年以前に作られた原発施設は老朽化している。原子炉は放射性汚染で内部補強はできない。福島原発が破壊に至った条件を基準にすれば、新たに高度な安全基準を作っても、今現在、それをクリアする原発はどこにもない。それは誰でもわかる。福島原発事故後に制定された「原発廃止・自然エネルギー発電法」は何のために作られたのか?』
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