3.26 優しい再会②

 どのくらい、廊下を歩いたのだろうか。


「……こちらです、叔父上殿」


 ようやく、ヴィリバルトの背後にいたエゴンが、無言のまま簡素な戸のノブに手を掛ける。


 開いた扉の先に見えたのは、ベッドと腰棚しかない、やはり簡素な部屋だった。


「バルトっ!」


 その部屋の大部分を占めるベッドの上に身体を乗せていたリュカが、部屋に入ってきたヴィリバルトを認めるなりベッドから下りる。


「サシャに、何を、したのっ!」


「大丈夫だ」


 涙目でヴィリバルトに詰め寄るリュカを宥めたのは、ベッドに眠るサシャの左腕を確かめていたアラン師匠の言葉。


「熱が高いのは気になるが」


 小さく頷いたアランが、腰のベルトにくくりつけていたポーチから蝋板と鉄筆を取り出す。


「この薬草を、探してきてほしい」


 鉄筆で蝋板に素早く文字を刻むと、アランはその蝋板を、側にいたルジェクの敏捷な腕に渡した。


「分かった」


 アランに向かって口の端を上げたルジェクが、眠るサシャを確かめてから素早く部屋を出て行く。


「俺の部下を扱き使われるのは困るのだが。同じ名前の従兄殿」


 困っているでもない声でアランに文句を付けたヴィリバルトは、やはり眠るサシャを優しく見つめ、トールをベッド横の腰棚の上に置いた。


〈サシャ!〉


 トールが表紙を付け替えてもらっている間の回復具合を確かめるために、見ることができる場所は全て見回す。息の荒さは落ち着いているし、頬の火傷は目立たなくなっているが、アランが包帯を解いた左腕は痛々しいほどに引き攣れているし、熱があるはずの顔全体にも、血の気が無い。サシャは、大丈夫なのだろうか。何故か居心地が悪くなり、トールは忙しなく首を動かした。


「サシャ」


 そのトールの側にあった椅子に、ヴィリバルトに支えられたユーグが腰を下ろす。


「サシャ……」


 ユーグの細い指が、汗ばんだサシャの額を優しく撫でた。


 その時。


「……あ」


 薄く瞼を上げたサシャの、緋色の瞳が、緩やかに彷徨う。


「叔父、上」


 しかしすぐにぎゅっと閉じてしまったサシャの瞼に、ユーグは首を横に振った。


「良いのです。あなたが無事なら」


「ごめん、な、さい」


 再び開いたサシャの瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。


「僕、は……」


「ジルドのことなら、心配要らんぞ」


 懺悔を口にしたサシャの言葉は、にやりと笑ったアランの言葉に遮られた。


「カジミールとクリスが、事の顛末を全部証言してくれたからな」


 誹謗中傷に晒されたサシャを慰めるためにサシャの寄宿先である修道院を訪ね、「まだ戻っていない」と言われて湖の方へと探しに来たカジミールと、同じくサシャが心配で湖沿いの道を修道院まで歩いていたクリスは、サシャが大事にしていた『祈祷書』を奪い、サシャを湖に突き落としたジルドの悪行を見ていた。その二人の証言によって、ジルドは北向きたむくを追われ、北向からは遠い西海さいかいの修道院に赴くことになった。掻い摘まんだアランの説明にほっと息を吐く。


北都ほくとに流れた中傷も、皆既に忘れてるさ」


「しかしサシャを北向に戻すわけにはいかない」


 北都に戻っても、大丈夫。しかしアランの明るい言葉は、不意に厳しくなったヴィリバルトの言葉に遮られた。


黒竜こくりゅう騎士団を心配させた分と、この『本』の表紙を直した分、しっかり働いて返してもらわねば」


「えーっ!」


「何を言うか、バルト!」


 長い指でトールを叩くヴィリバルトの、感情が見えない言葉に、リュカとアランが同時にヴィリバルトを睨む。


「はい」


 しかしサシャの返答は、トールの予想通りだった。


 サシャがヴィリバルト達の前から突然消えてしまったことも、ルジェクと一緒に籠城する羽目になってしまったことも、狂信者達によってトールと一緒に焼き殺されそうになったことも、サシャの所為ではない。だが、……責任を感じてしまうのが、サシャの心。正直なところ、ヴィリバルトの言葉にトールは納得していない。だが、サシャが肯定するならば、トールが反対する理由はない。だからトールは、ヴィリバルトを見上げる穏やかなサシャの瞳に頷いてみせた。


「良い返事だ、サシャ」


 リュカとアランの抗議の視線を無視したヴィリバルトの蒼い瞳が、サシャを見下ろして優しく笑う。


「サシャには、ここで、黒竜騎士団の手伝いをしながら学校に通ってもらう」


 次に出てきた、意外な言葉に、その場にいた全員が言葉を失った。


「良いかな、叔父上殿」


 首を傾けたヴィリバルトが、ユーグに向かって微笑む。


「……良いの、ですか?」


「もちろん」


 戸惑いを含んだユーグの声に、ヴィリバルトは大きく頷いた。


「働いてもらうのだから、費用は全てこちらで持つ」


「あ、ありがとうございます」


 頬を上気させたユーグが、ヴィリバルトに頭を下げる。


「なるほど。サシャにとっては良い案だな」


「リュカ」


 ようやく口の端を上げたアランを無視し、ヴィリバルトはまだ頬を膨らませたままのリュカを見下ろした。


「お前、サシャを宰相にしたいんだろ?」


 ヴィリバルトの問いに、唇を尖らせたリュカが渋々頷く。


「だったら、帝都ていとの学問は必要無いか?」


「分かってる」


 それでも、まだ少し納得がいっていない部分があるらしい、ぷいとヴィリバルトから視線を逸らしたリュカは、その小さな手でトールを掴んで引き寄せた。


「あ、僕の署名、無くなってるっ!」


 トールの裏表紙裏を確かめたリュカが、声を上げる。


「ごめんなさい、リュカ。色々あって」


「名前なら、また書けば良いだろう」


 再び涙目になりかけたサシャの声は、ヴィリバルトの至極真っ当な提案に掻き消された。


「そうだね」


 それで機嫌を直したらしい、リュカがトールを、サシャの腕の中に置く。


「今度はもっと上手に書けるよ。練習したもん」


「はい」


 これで、一件落着、なのかな。リュカに微笑んだサシャの、頬の赤さに、心が軽くなる。紆余曲折はあったけれども、サシャは、母と同じように帝華で勉強するという目標を達成することができた。次は。トールをぎゅっと抱き締めたサシャの、まだ細い腕に、トールはしっかりと微笑んだ。

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