3.14 砦と狂信者達①

[大丈夫か、サシャ]


 水の入った手桶を両手で持ち、踏み面の小さい螺旋階段を何とか上の階まで登りきったサシャに、小さく尋ねる。


「うん」


 トールの問いに頷いて息を整えたサシャは、ずれてきた袖を巻き直し、そして再びトールの方へ視線を移した。


「トールも、ポケット、大丈夫?」


 サシャが今着ている上着も下着もエプロンも、全てこの砦のもの。サシャには合わない大きめのものを、サシャは針と糸で器用に直して着用している。トールが入っているポケットも、服の寸法を直して余った生地でサシャがエプロンに縫い付けたもの。前の、北辺でサシャが丁寧に縫ったポケットよりはもちろんガタガタしているが、十分、丈夫。


「居心地、悪くない?」


[ああ、大丈夫だ]


 ポケットの中に一緒に入っている、これも砦の倉庫で見つけた蝋板と鉄筆、そして小刀の凸凹を確かめ、大きく頷く。トールの言葉に微笑んだサシャは、ごわついた裾を強く引いて調整してから、再び、水の入った手桶の把手に手を掛けた。


 緩やかなカーブを描く石壁に沿って、水をこぼさないようにバランスを取って歩くサシャを見上げ、息を吐く。一人と一冊がルジェクと共に逃げ込んだこの砦は、円筒形の塔の内側にもう一つ円筒形の塔を建てたような作りをしている。二つの同心円の間が、居住区。近隣の村や近くを通る街道を守るために建てられたことをつぶさに示す、武骨な石壁や古い無地のタペストリーで仕切られた部屋の一つに、サシャは手桶と共に入った。


「……サシャ」


 少し薄暗い、小さな部屋の殆どを占める小さなベッドの上で、ルジェクが力無く手を振るのが見える。


「水、ありがとさん」


 その横で、細い矢狭間から外を見ていた少し白くなりかけた髪を持つ影、この砦の指揮権を持つ隊長ブルーノが、腕組みを解いてその太い腕でサシャの手桶を受け取った。


「骨折はしてないようだが、熱はあるし、当面安静にしておいた方が良いな」


 手桶の水をベッド横の腰棚の上の桶に楽々と移し替えたブルーノの、軽くは聞こえない言葉に、そっと、ルジェクの血の気の無い頬を見やる。この砦には、医者はいない。丘の向こうに村があるとルジェクは言っていたと思うが、そこには医者はいるだろうか?


「とにかく、助かったぜ、サシャ。ありがとう」


「こっちは全然『助かって』ないけどな」


 小さく頭を下げるルジェクに、再び腕を組んだブルーノが肩を竦める。


「まさかこの砦で籠城戦になるとはな」


 顎で矢狭間を示したブルーノに促されるように、サシャが矢狭間へと近づく。細い隙間から見えた光景に、一人と一冊は言葉を失った。


 砦の前に広がる荒野に見えたのは、赤にも青にも見える無数の旗。人影も、数え切れない。


「狂信者達だ」


 サシャの背後から、ブルーノ隊長の沈んだ声が響く。


「この砦をぐるりと包囲している」


 長期戦の構えだな。テントを張っているのであろう、荒野に増えていく灰色や生成色に呻くブルーノの声を聞きながら、言葉無く荒野を見つめる。


「狂信者達の親玉、居そうか?」


 しかし、怪我で熱が出ているはずのルジェクの声は、何故か明るかった。


「居るだろう」


 そのルジェクに再び肩を竦めたブルーノが、サシャの上に腕を伸ばす。


「ちゃんと紫で染めた旗が二つある」


「じゃ、二人とも居るんだな」


 どの旗が本物の紫なのか、トールには判別がつかない。ルジェクとブルーノが考えていることも。サシャを守らなければ。その思いだけで、トールは二人の会話に耳を澄ませた。


「デルフィーノとクラウディオ、この二人さえどうにかすれば、狂信者集団の壊滅はできる。バルト団長はそう言ってた」


 ブルーノから矢狭間に視線を移したルジェクが、大きく息を吐く。


「で、黒竜こくりゅう騎士団の団長はあんたにあいつらを探らせて、あわよくば、あんたを囮にしてあいつらをどこかの城か砦に釘付けにできれば良いと考えていたんだよな、ルジェク」


「ああ」


「あいつらがあんたを捕まえるのに躍起になっている間に、黒竜騎士団が背後から攻撃して全滅。そういう筋書きだったな」


 ルジェクに肩を竦め、半白髪頭を小さく振ったブルーノに、トールは「なるほど」と頷いた。


「すまない、ブルーノ隊長」


「良いさ」


 頭を下げたルジェクに、ブルーノが大きく口角を上げる。


「こっちも、狂信者達には色々あるんでね」


 夏炉かろの老王が亡くなった後、新たに王位についた老王の曾孫の長子は、夏炉に蔓延る狂信者達を弾圧しようとした。そのことを知った狂信者の長デルフィーノと、彼を援助する夏炉の貴族クラウディオは、新王よりも幼く扱いやすい王弟を王にしようとする貴族達と結託し、少年王を弑した。いとも簡単に殺されてしまった少年の無念を晴らしたい。元々は王の近衛騎士だったというブルーノの言葉に、トールは小さく首を横に振った。

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