2.12 討論の練習

 その日も、北都ほくとには、夏の強い日差しが降り注いでいた。


「やっぱり、ここに居たか」


 いつものように図書館の閲覧室と廊下の掃除をし、閲覧室の日陰になっている場所で法律の書物を紐解いたサシャの横に、涼しげな服を着た人物が立つ。


「ちょっと付き合ってくれ」


 その、高価で涼しげな服を着た人物、北向きたむくの王太子の次男であるというセルジュは、サシャに何かを言う暇を与えることなく、サシャを図書館の外に引っ張り出した。


 どこへ連れて行かれるのだろう? 驚きで無言になってしまっているサシャのエプロンの胸ポケットの中から、セルジュの、リュカに似た金色の髪と理知的な瞳を睨む。目に映る、古びた木の柱がくすんだ色の練土に埋まる壁が続く見知らぬ横道に目を細めたトールの耳に聞こえていた喧噪は、ある建物の前で不意に大きくなった。


「主語が大きい!」


「議論をすり替えないでくれ!」


 ここは。木と練土の壁に取り付けられていた看板に描かれたジョッキと羽ペンを確かめる。確か、学生が集まる酒場が下町に幾つかあると、図書館に入り浸って詩を作っている算術と幾何の助手エルネストがサシャに話しているのを聞いた覚えがある。サシャが学習している自由七科の一つである『論理』を磨くために、酒場で行われる議論に参加した方が良いという助言も。


「とにかく。たとえ責任ある職務に就いていたとしても、官僚は短期間で配置換えされる。『後は野となれ山となれ』と考えている奴らも少なくない」


「もう、始まってしまっているな」


 サシャを連れてくるまで待つよう、あれほど言ったのに。喧噪に、セルジュが息を吐く。だがすぐに、セルジュの柔らかい手が、サシャの肩を押した。


「我々は、帝華ていかの官僚制を支持する側」


「え?」


 セルジュに押し込まれるように酒場に足を踏み入れたサシャの、固まってしまった全身を感じ取る。確か、帝華の最高権力者は『神帝じんてい』だが、帝華の領土は試験で選ばれた『官僚』が管理していると、サシャと一緒に読んだ本には書いてあった。一方、北向を含む八都はちとの他の国は王政。頭の片隅から、次々と記憶を引っ張り出す。


「大丈夫。文法の教授に提出した課題の内容を話せば良い」


 耳打ちされたセルジュの助言に頷いた後のサシャの身体は、普段の柔らかさを少しだけ取り戻している。これなら、多分、大丈夫。


「責任の所在から考えると、帝華の官僚制より、その血縁で永遠に政の重責を担う王政の方が優れている」


「ぼ……私は、帝華の官僚制を支持します」


 論理の授業で教えられた通り、学生達の喧噪が少しだけ収まったタイミングを見計らったサシャの言葉が、酒場の狭い空間に響く。


「王政では、王の血筋が途絶えた場合、後継者を誰にするかで混乱する可能性があります」


 小さいが良く通る声に、トールはほっと息を吐いた。


夏炉かろの国では、老王が亡くなった後、後継者が老王の曾孫三名しかおらず、少年王を誰が後見するかで貴族達が争っています」


「北向王家も、今は王族が力を持っているが、人間はぽっくりと死ぬものだ」


 震える唇からサシャが紡ぎ出した言葉を、サシャの横にいたセルジュが助ける。


「我が兄、王太孫殿下も、残念ながら病弱であるし」


 冷静なセルジュの言葉に、声が大きかった酒場の学生達が皆黙り込んだ。


「……今日は、これで終わりにしよう」


 続くセルジュの言葉に、喧噪が戻る。


 酒場の主人が配る木製のジョッキを手にした学生達の、穏やかになった表情を確かめ、トールはほっと息を吐いた。サシャの鼓動が普段通りであることも、しっかりと確認する。


「良かったよ」


 全身を弛緩させたトールの前で、木製のジョッキが踊る。


「あの、僕は、お酒は……」


「大丈夫。中身は炒った麦を煎じた麦湯」


 サシャにジョッキを差し出したセルジュの、リュカと同じ笑顔を見上げ、サシャは小さく口の端を上げてジョッキを受け取った。


「夏炉のことに目を付けるなんて、すごいな」


 そのサシャの横で、太い声が上がる。


 声の方に視線を向けると、薄暗い酒場でも光って見えるような色素の薄い顔が、トールのずっと上に見えた。


「カジミール」


 ジョッキの中身を一気飲みしたセルジュが、横に現れた少年をサシャに紹介する。


「二年目の学生で、『星読ほしよみ』の養い子だ」


「算術も天文も苦手だがな」


 腕を伸ばしてカジミールの肩を叩いたセルジュに、カジミールは頭をかいた。


「『星読み』の手伝いもサボり続けてるし」


 確かに、『星読み』博士ヒルベルトの手伝いをしている時に見かけたことが無い。人懐っこく笑うカジミールに思わず頷く。


「しかし法律には詳しいし、人を説得する討論ができる」


「いやそんなに褒めないでくれよ、セルジュ」


 春頃にサシャを不良学生から守ってくれた件といい、サシャを自然に議論に参加させてくれたことといい、このセルジュという王子様、結構良い奴なのではないか。酒場の主人に屈託なくお代わりを頼むセルジュを、トールはあらためて上から下まで観察した。現状を的確に判断して指示を出す、ミッドフィルダーかディフェンダーにいると、チームがまとまる。少しずつジョッキの中身に口を付けるサシャを確かめながら、そんなことをトールは考えていた。


 その時。


「大変だっ!」


 騒がしくなっていた酒場の外を確認しにいった酒場の主人が、真っ青になって戻ってくる。


「湖近くの下町で疫病が」


「えっ!」


 その一言で、酒場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。


「またか!」


「逃げるぜ! ここに居たら俺達まで病気になっちまう!」


「だな」


 あっという間に、酒場から人が居なくなる。


[とにかく、修道院へ戻ろう]


 突然のことに身体が固まってしまったサシャに、トールは小さく言葉を並べた。


 セルジュもカジミールも、既に居ない。


「うん」

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