1.17 トールの昔語り②
五月の末、図書館が二週間ほど休館した。『蔵書点検のため』と、図書館の壁には張り出されていたが、十歳にもならないトールに、図書館の事情など理解できるはずもない。怒りと、我慢していた淋しさが、心の中で同時に渦巻く。だから。「家に帰って戸締まりをしっかりとして留守番をしているように」という母の言いつけを無視し、トールはあの日の放課後、ランドセルを背負ったまま、家とは逆の方向へと向かった。もちろん、あの騒々しい場所に帰ることができるとは、露ほども思っていない。ただ、ここではない別の場所に行きたかっただけ。
その日は、五月にしては肌寒い日だった。車が猛スピードで通り抜ける大きな道を避け、一軒家が立ち並ぶ細い路地を歩いていると、家は段々少なくなり、田畑や工場が増えてくる。車が時折、トールの横を走り抜けるが、人影は、一つも見当たらない。いつもの景色ではない、いや全く見たことが無い景色に、トールの足は無意識に震えていた。
そのトールの視界に、高めのフェンスと、その向こうを走っている複数の影が映る。人がいる! ほっと息を吐くと、トールは、綺麗に整備されたフェンスにその指を掛けた。フェンスの向こうに見える影も、段々と区別がつくようになってくる。トールと同じくらいの子供が、大人の間でボールを蹴っている。サッカーの練習をしているのだろう。上手に遠くへとボールを蹴る、細い影を、トールはいつの間にか凝視していた。
「こんにちは」
突然、声を掛けられ、心臓が飛び上がる。
トールが凝視していたはずの、サッカーが上手な細い影が、フェンス越しにトールをニコニコと見つめていた。
「ね、君、サッカー、好き?」
トールを見つめる影の、形の良い唇からこぼれた高い声に、戸惑う前に頷く。
「じゃ、一緒にやろ!」
「
入り口はあっち。指差す細い影の声に、トールより低い声が混ざる。出入り口の方へトールが顔を向ける前に、小野寺と呼ばれた細い影よりも肩幅が広い影がトールの前に現れた。
「また誘ってたのか?」
新しくトールの前に現れた影が、細い影を僅かに見下ろす。
「選手増やさないと、大会出られないもん」
その広い肩幅に、細い影はきゅっと唇を横に伸ばした。
「それ、分かってるよね、
「そうだけど」
学校中を誘ってみんなに断られたのに、まだ懲りてないのか。司と呼ばれた肩幅の広い影の言葉に、細い影の首が僅かに落ちる。この二人は、トールと同い年のように見える。だが、今まで見たことが無いから、おそらく、違う小学校に通っている二人。
もう一度、細い影を見つめる。サッカーなら、中学生の従兄に少しだけ教わった。二人を助けることは、……できる。この人を、助けたい。
だから。
「あの」
言い争いを続けそうな二人に、声を掛ける。
「俺、サッカー、できるから」
「えっ」
トールの言葉に、細い影の表情がぱっと明るくなる。
「あの、だから、父さんと母さんが『良い』って、言ったら」
「本当っ!」
フェンス越しに、細い影がトールの指を掴む。
「うれしいっ! ありがとうっ!」
「いやいや小野寺、監督とかとの話が先だろ」
肩幅の広い影が、呆れ声を発する。
トールの指を掴む細い影の指の冷たさに、トールは知らず知らず、久しぶりの笑みをこぼしていた。
それが、小野寺
トールが辿り着いた運動場は、トールの父が働いている修理工場の裏手にあった。父も、仕事が早く終わった時には同僚とフットサルを楽しんでいたらしい。だから、トールが、小野寺と伊藤がいるサッカー&フットサルクラブに通う許可は、あっけなく下りた。
週三回、放課後、トールは小野寺や伊藤と共にサッカーやフットサルを楽しむ。その他の日は、図書館で本を読んで勉強する。トールの日課が整うまでに時間は掛からなかった。小野寺と伊藤、二人と親密な関係を築くのに掛かった時間も、僅か。
親が建築事務所を開いている伊藤と、三世代教員一家の中で生活している小野寺は、家が近く、保育園の頃からの幼馴染みであるらしい。二人の関係に嫉妬を覚えたことも、ある。だが、小学校は違ったけれども、中学校からはずっと同じ学校に通っていた二人は、トールにとっては、心を許せる数少ない友人だった。だから、あの雨模様の日、トールは、小野寺に好意を伝えることを躊躇っていた伊藤に、「大丈夫だよ」という言葉を掛けた。おそらく、伊藤の好意は、小野寺にしっかりと伝わっていることだろう。
そこまで話したトールの耳に、安らかな寝息が響く。
いつから、寝ていた? トールの上に置かれた、サシャの細い腕に、トールは苦笑を隠すことができなかった。
あの場所に、戻ることは、……可能だろうか? 規則正しいサシャの心音を確かめながら、息を吐く。帰ることができても、自分は、あの二人の幸せな姿を見守り続けることができるだろうか? あの二人の幸せを、……壊してしまうのでは、ないだろうか?
震えが、全身を支配する。
サシャの安らかな寝息に身を任せることで、トールは何とか、自分の意識を保った。
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