1.13 トールとサシャの違い

「……行こう」


 サシャ自身を元気づけるように、サシャが小さく口の端を上げる。


「早く温泉に行って、早く帰らないと、日が暮れてしまう」


[日が暮れたら、ユーグさん、心配するな、きっと]


 昨夜見た、サシャの叔父ユーグの歪んだ唇と、サッカーに夢中で帰宅が遅くなってしまった時に見上げた、母の怒りと心配が綯い交ぜになった表情とが重なる。


「うん」


 トールの言葉に、サシャは大きく頷くと、再び、枯れ葉が重なる木々の間に歩を進めた。


 しばらく歩くと、前方に霧の塊が見えてくる。あの霧は、『温泉』の湯気だろうか? トールが首を傾げる前に、風に煽られた温かい靄が、トールとサシャを包んだ。


「着いたよ」


 霧に煙る正円の泉と、その泉を隠すように立つサシャの胸の高さで崩れている厚めの人工の壁を、サシャが指差す。壁に目を凝らすと、歴史の時間に見たエジプトの壁画のような横顔が複数、見えた。


[あの、絵は?]


 首を傾げて、サシャに問う。


「古代人が信仰していた神だって、母上は仰ってた」


 トールの質問に、サシャはあっさりそう答えると、持っていた籠を厚めの壁の上部、年月に削られて平たくなってしまった場所に置いた。


[あ、そうだ]


 エプロンを脱いだサシャに、一つだけ、頼む。


[泉に入る前に、俺の姿、泉に映してくれないか]


 今の自分は、どのような姿なのか。それだけは知っておかなければ。


「良いよ」


 トールの願いに気安く頷くと、サシャはエプロンからトールを取り出し、泉の側に跪いた。


[これ、が、今の、……自分]


 泉に映った、自分の姿を、まじまじと見つめる。


 サシャの小さな手の中に見える姿は、正しく『本』。おそらくハードカバーなのだろうと見当は付くが、黒茶色の表紙に、装飾は見当たらない。


[『祈祷書』って、大体こういう感じなのか?]


 自分のあまりの地味さに、思わず、そう、尋ねてしまう。


「自分の持ち物だから、金箔や宝石で派手に飾っている人もいるけど」


 トールの問いに、サシャは大きく笑った。


「僕は、トールみたいに飾り気が無い方が好き」


[あ、ありがとう]


 サシャの素直さに、頬が熱くなる。


「どういたしまして」


 トールの感謝に微笑むと、サシャは壁画の上に畳んだエプロンを置き、その上にトールを置いた。


 トールが見ている前で、サシャが躊躇いなく服を脱ぐ。


[やっぱりサシャは、男の子、だな]


 自分と同じ上半身にほっと胸を撫で下ろしたトールは、しかし次の瞬間、下履きを全て脱いだサシャに思わず大声を上げた。


[さ、サシャっ!]


 『本』であるトールの声は、木々の間に響かない。


「え?」


 しかしサシャには聞こえたのだろう、きょとんとした紅い瞳が、トールの目の前に現れた。


「どうしたの、トール」


[い、いや、その]


 とにかく、温かい霧に囲まれているとはいえ、裸のままではサシャが風邪を引いてしまう。サシャの裸身から、辛うじて目を逸らす。


[と、とりあえず、泉に入ろう、な]


「……?」


 取り乱したトールの言葉に、サシャは首を傾げながらもゆっくりと、泉に足を浸けた。


 足から、腰、そして胸まで泉に浸すサシャを、顔を背けながら横目で見つめる。間違いない。サシャの下半身は、確かに、トールとは違っていた。


[サシャ]


 泉の水を手ですくい、顔を洗うサシャに、確かめるように尋ねる。


[サシャは、女の子、なのか?]


「女、の子? ……って、何?」


 返ってきた言葉に、トールの思考は今度こそ絶句した。もしかして、この世界には、……男女の区別が、無いのか? しかしそれをどうやって確かめる?


[サシャ、……その]


 何とか思いついた質問を、サシャに投げる。


[この世界の人々の、その、身体の構造は、父親も母親も、みんな、サシャと同じなのか?]


「え? ……姿形のこと?」


 靄の中で、サシャが首を傾げるのが、見えた。


「うん」


 しかしすぐに、頷きが返ってくる。


「髪の色とか、肌の色とか、筋肉や脂肪の多少は違うけど、身体の構造は同じ」


 トールの世界では、違うの? 無邪気なサシャの逆質問を、無理な笑いで誤魔化す。


[じゃ、じゃあ]


 その上で、更に聞きにくい質問を、トールは紡いだ。


[こ、子供とか、どうやって]


「神様の前で『契り』を結べば、できるよ」


 返ってきた、邪気の無い言葉に、思考が混乱する。もしかしてサシャは、子供の作り方を教わっていないのか? 身体を洗うために一度泉から出たサシャの、子供にしか見えない肢体に、トールは小さく息を吐いた。それならば、サシャの返答の理由も、分かる。


 だが。


「森の聖堂でも、修道院付属の聖堂でも、契りを結ぶ人がいるから、機会があれば見せてあげる」


 熱で赤みを帯びた身体を手ぬぐいで丁寧に擦るサシャの言葉に、一瞬、思考が停止する。見ても、良いものなのか? 擦り忘れがないかどうか、丁寧に自分の身体を確かめるサシャの、細いがしっかりとした肢体に、トールは知らず知らず、小野寺おのでらのスレンダーな身体の線を重ね合わせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る