第67話 夏の思い出

 私たちはマスコミで塞がれている正面エントランスを避け、橋口さんと裏口の社員用通用口から出ることになった。裏口には柊木奈津子の事務所の社員が車を用意してくれていた。

 韮沢さんは、柊木奈津子の事務所の社員の男女を連れて、正面エントランスに向かい、マスコミのおとりになってくれている。橋口さんは助手席に、私たちは後部座席に座ることになった。

 ひかりは控室で、橋口さんがずっとあやしてくれていたので、妙に懐いてしまって、私が抱き抱えようとすると、首を振って嫌がった。仕方なく、車まで橋口さんが抱いて連れてきてくれたが、助手席に座った橋口さんがシートベルトを締めれないので、助手席からひかりの脇を抱え、後部座席にいる私に渡そうとすると、またもや足をジタバタさせて嫌がった。私はひかりを無理に受け取り、背中を摩った。背中はびっしょりと汗をかいていた。


 そっと背中をリズム良く叩いてやり、小さな声で子守唄を歌ってやると、ひかりは抵抗を諦めて、すぐに寝息をたてた。


「ひかりちゃん、眠たかったんですね」


 橋口さんは、必要以上に自分に懐いてしまったことに、罪の意識が芽生えてしまったのか、申し訳なさそうな顔を向けてきた。

 でも私の中では、ひかりは橋口さんに懐いただけではなく、という気持ちが芽生える。ひかりには全てお見通しで、みずきがいなくなることを考えている母親なんて信じられない、そんなママはママじゃない、そう言われている気がした。

 寝ているひかりの体をギュッと抱きしめて、ごめんね、こんなママでごめんね、そう呪文のように心の中で唱えた。それを許してくれたのか、ひかりの鼻が、ピー、という音が返事のようになった。車内は少しだけ微笑ましい空気に包まれた。無表情だった運転手の男も、少しだけ頬が緩んだ。

 車はゆっくりと発車した。今頃、正面エントランスでは韮沢さんと出てきた男女が私たちではないことに大騒ぎになっていることだろう。私たちの行動に気付いたマスコミ関係者が裏口に回って来る前に、ここは離れなければならない。


「伏せてください!」


 橋口さんは裏口の通用口の前に、マスコミらしき2人組を発見し、私たちに身を隠せと命じた。カメラを首から下げている1人が、車が出てくるのを見てカメラを構えた。幸いひかりは寝ていたので、私と利喜人くんは外に顔が見えないように体を丸めた。車の後部座席のウインドーにはスモークが貼ってあり、2人組は一瞬こちらに目を向けたが、マスコミは橋口さんの顔を知らないので、運転席と助手席の顔を見て、私たちじゃないと判断したのだろう。カメラマンは構えたカメラを下ろした。

 正面エントランスから走ってきたのだろう、3、4人のマスコミの人が、走る私たちの車の横を通り過ぎていった。


 暫く緊迫した時間が流れたが、もう大丈夫です、の橋口さんの言葉に私たちは顔を上げた。利喜人くんはこちらを覗くと笑って、びびったー、と嬉しそうに顔を上げた。


「いやー、危なかったっすねー」


 利喜人くんは妙にはしゃいでいた。このテンションを見ていると、泣きながら犯人に訴えていた記者会見から、まだ1時間も経っていないとは思えない。


「ねえ、どうだった?記者会見」


 保育園のお遊戯会で、主役をやった子供が母親に訊くように、利喜人くんは褒めて貰いたいとでもいうような無邪気な顔を私に向けた。


「結構リアルだったでしょ。泣くにはコツがあるの。俺、そのコツ見つけちゃった。ねえ、聞きたい?」


 興奮冷めやらぬ、といった感じだ。


「あれ?もしかして、あそこで泣いたの、七海さん、もしかして引いてる?でもね、泣くまでしないと、説得力出ないでしょ。でね、でね。泣くコツっていうか、なんで泣けたかというと、ひかりがいなくなっちゃったこと想像したら、本当に涙出てきちゃったんだよね。そうしたら、本当にひかりが誘拐されたと自分でも思い込んじゃって。なんかゾーンに入っちゃったんだよね。そしたら、本当に犯人が憎たらしくなってきて、んー、ぶっ殺すって思っちゃったんだよね」


 話していて、また興奮がり返してきたのか、身を乗り出してひかりを覗いて、んーん、だいじょうぶだったー、心配したよー、と訳の分からないことを言いながら、私からひかりを奪った。寝ているひかりを抱き抱えると、むしゃぶりつくように頬擦りして、訳の分からない甘えた言葉を喋り続ける。

 ひかりは頬擦りされて、髭が痛かったのか、強く抱きしめられて苦しかったのか、モロー反射のようにピクピクっと手を前に突き出し、んー、と唸った。


「関さん。何処で誰が見ているかわかりません。外では、発言や軽はずみな行動は充分に気をつけてくださいね」


 助手席から橋口さんが、利喜人くんに注意した。事情はわかっているが、利喜人くんのあまりの態度に見ぬ振りはできなかったのだろう。あの記者会見の後のこの変わり様、不謹慎だと捉えられかねない。こんな顔を見られ、あのマスコミ連中に写真なんか撮られたら、好き放題書かれてしまうだろう。私が注意できなかったことを言ってくれた橋口さんに感謝した。


 私たちは橋口さんの案内で車に乗ったが、この車が何処へ向かっているか知らされていない。車は駅の南側から海の方へ向かって走っていた。


「あと、さっき警察の方が言っていた通り、私も携帯の電源は切った方がいいと思います。親族とか連絡する必要があれば今のうちにしておいてください。それか、電源を切れないのであれば、知らない番号は出ない方がいいです。電話帳に載っていない番号の着信を拒否するよう設定した方がいいと思います」


 利喜人くんはポケットから携帯を出すと、うわっ、と待ち受け画面を見て、私の方に見せてきた。既に着信が数十件来ている。利喜人くんが着歴を開くと、利喜人くんの実家、利喜人くんの友達、利喜人くんの会社の他、携帯番号だけのものも数件表示されていた。


「どんなに仲が良い方でも、気をつけてください。もしかけ直すなら、さっきの芝居を続けてください。襤褸ぼろが出そうなら、かけ直さないのが賢明です」


「じゃあ、有給貰っちゃってるんで、会社だけ」


 利喜人くんは深呼吸して、さっきのモードに切り替えているつもりなのだろう。まるで本番前の俳優のようだ。よし、と何かを切り替えたのか声を出して、会社の着信履歴をタッチした。


「あの、関です。ご迷惑をおかけしてすみません。はい、はい、あ、はい、いえ、ありがとうございます。はい。すみません。そう言っていただけると助かります。はい、ありがとうございます。はい、大丈夫です。僕より妻の方が。はい、はい。絶対娘は帰ってきます。はい、みずきは僕と妻を繋げてくれたんです。絶対帰ってきます。大丈夫です。僕の方がしっかりしなきゃならないです。頑張ります。ありがとうございます。はい、すみません」


 何を話しているか聞こえないが、きっとテレビを見た上司か同僚が利喜人くんを励ましてくれているのだろう。途中でまた感極まって涙ぐんできた。またこの人は、を考えて感情のスイッチを入れたのだろうか。自分で抱いている娘が、いなくなったことを想像して泣けるなんて器用な人だ。そして、少し恐ろしいとも感じた。私に対する優しさは、全て芝居なのではないか、と思えてくる。


 利喜人くんが喋らなくなって、耳から携帯を離し、暫く携帯の画面を眺め、相手先が電話を切ったとちゃんと確認してから、よし!と画面に指を差してポケットにしまった。


「で、橋口さん。この車、何処へ向かってるんです?」


 鼻を啜ってから、普通の声色に変えられる利喜人くんは、もう役者だ。娘がいなくなってしまった悲しいシーン11を撮り終え、撮影の都合で少し先のシーンを撮りましょうということで、ガラッと雰囲気が変わってシーン19から撮りましょう、シーン19はどんな場面ですか、と監督に聞いている俳優。利喜人くんの横顔がそう見えた。そんな風に見えるほど、今の現状が現実離れしてしまっている。

 私が子供を産んでから、子供がいなくなること、誘拐されること、死んでいるかもしれないこと、2人の子供のどちらかを選ばなければならないこと、そんなことになるなんて考えたことがなかった。もちろん警察まで巻き込んで、こんな記者会見するなんて想像もしたことがない。だから、悲しいよりも不安よりも、これって私の事なのかと不思議に思う気持ちの方が大きく、少し惚けたような地に足がついていない感じ。頭の中がふわふわとしている。


「少し遅い昼食にはなりますが大丈夫でしょうか。今から神奈川のホテルを予約してあります。柊木先生とホテルで落ち合うことになっていますが、柊木先生はテレビ出演が終了し東京からですと、ホテルには夕方着の予定ですので、私たちで昼食を済ませておくようにと。ここからですと3時間ほどかかりますが、よろしければ途中サービスエリアで軽くお腹に入れておきましょうか」


 車は新しくできたインターチェンジ、日本平久能山スマートICから東名高速道路に乗った。


「サービスエリア、いいよねー。やっぱり海老名?」


 利喜人くんは高速に乗って遠出する時、必ずと言っていいほど海老名のサービスエリアに寄りたがる。だが橋口さんは、海老名は人が多すぎます、とこれを却下した。


「なるべく人が少ないところがいいですね。まあ、この時期ですし、他のサービスエリアも混んでいるとは思いますが、愛鷹、駒門辺りでいいでしょうか。ひかるちゃんも起きたら、ご飯食べさせないといけないですよね。離乳食は持ってきてますか?」


 私はいつも、ひかりの離乳食を始めた頃から、保存がきく小瓶の離乳食は常に持ち歩いている。愛鷹、駒門くらいだと1時間半くらいくらい見ておけばいいのか。丁度ひかりも昼寝から覚める頃だろう。利喜人くんは、海老名に寄れないことを拗ねて、あのメロンパンが食べたいと駄々をこねたが、ひかりのご飯の時間があるでしょ、というと素直に従った。


 窓の外に見える綺麗な青空が、余計に今の状態を現実から引き離す。雲ひとつなく、青いマジックでベタ塗りしたような空を、単純に綺麗だと感じた。

 車内はカーエアコンが効いていて涼しい。利喜人くんの膝の上で気持ちよさそうに寝ているひかりの首元に手を入れると、汗は引いていた。汗ばんだ後だから体が冷えないように、バックからタオルケットを出して、ひかりの体にかけてやった。青空が見える窓に触ると、ひんやりと冷たい。窓1枚向こう側は、きっと暑いのだろう。

 こんな暑い日は、単純に海が目に浮かぶ。水着になって海で泳いだり、浜で寝そべったりしたら気持ちいいだろうな。あんな記者会見の後、海に行きたい、なんて言ったら、また橋口さんに注意されるだろうな。

 だから海で遊んでいる姿を思い浮かべた。

 想像で楽しむしかない、と海に行った記憶を辿ると自然にみずきと行った伊豆の海を思い浮かべてしまう。みずきがまだ小学校に上がる前の頃、季節は丁度今ぐらいの時期。まだ利喜人くんと出会う前、私はバイトを掛け持ちして、あまりみずきを構ってあげれなかった。たまにはどこかへ連れて行ってあげようと、なんとか連休をとって、伊豆へ旅行にいくことにした。高い旅館なんて到底無理だから、暫くの間食費を削って、なんとか貯めたお金で小さな民宿に泊まった。老夫婦が夏の間だけ営業している、普通の民家だった。2階に上がると6畳の部屋が3つあり、そこを貸し出している。夜は隣の部屋の音が聞こえて寝れないし、虫が飛んでいたり、食事の時間は居間に呼ばれて、知らない家族と一緒にご飯を食べるような民宿だ。近くの海は汚くて、少し泳ぐと体に謎の海藻が巻きついてきたり。それでも楽しかった。みずきは私と2人で、1日中一緒にいれることを喜んで、私もそれだけで充分だった。民宿のお婆さんが出してくれた刺身盛りが美味しそうに食べているみずきが可愛かった。海藻が体に巻きついて身動きが取りにくくなって困っているみずきが可愛かった。夜、他のうちの男の子がお父さんに叱られてるのを布団を被って必死で笑いを堪えて聞いているみずきが可愛かった。

 もしかしたら、私にとって1番幸せだった時期は、前の旦那と別れて利喜人くんと出会う前までの間だったのかもしれない。金銭面で苦労はしたし、仕事でも派遣先でも嫌な思いもした。体力的には1番大変な時期だったか、私は苦労した分、充実した時間も味わえたのは、あの頃だけだったのかもしれない。

 ひかりがいるのに、また最低な母親。一人っ子だった私、最低な私の母親。母は私に、2人の子供を同時に愛する術を教えてくれなかった。だけど、母のせいだけにしているわけでははない。私が不器用なだけ。今更、やっぱりみずきの方が可愛いなんて言えない。ひかりだって可愛い。可愛いさなんて比べられないのだから。みずきだけ育てていたら、こんなことは考えなくてすんだ。でも、ひかりの可愛さを知ってしまった今、もうひかりのいない生活も考えられない。両方愛しなさい、と言われても、どうすればいいのかわからない。だから私は周りに委ねた。そして委ねた結果が、これ。後悔したって、もう遅い。

 既に車は走り出している。

 もう、神奈川方面へ向かっている。

 私は、私の考えで車を止めることはできない。



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