第39話 白紙と上司と上司の腕毛

「最初の犠牲者が静岡市内の山中で見つかりました。連続幼女誘拐事件から連続幼女誘拐殺人事件に切り替えて捜査しております。奥さんの不安を助長させてしまうことを言います。まもなく発表されますが、静岡で第2の被害者の遺体が発見されてしまいました。大丈夫です。娘さんではないです。市内の男の子です」


 さっきから、この人は何を言ってるのだろう。不安を助長させるとか、娘さんじゃないから大丈夫ですとか。私はそんなことを気にしているんじゃない。利喜人くんを守りたいだけだ。うちの家庭が壊れることがないように、虐待がバレないようにするために、捜索願を出しに来ただけなのに。これじゃあ、虐待に繋げられてしまうじゃないか。


「うちは、虐待なんかしてません」


 あ、私何言ってるんだろう。よくドラマで見るけど犯人が、わたしやってません!なんて言ってるのと同じだ。


「奥さん、お気持ちはわかりますが、ここは正直にお願いします。この事件と娘さんが行方不明になっていることの関連の有無を知りたいんです。虐待の自覚がない方もいますが、どの家庭でもお子さんのことを憎んで虐待をしているわけじゃないんです。もし娘さんがこの犯人に誘拐されているとしたら、一刻を争います。目撃情報が欲しいんです。娘さんがよく行く場所、何か手がかりになること、なんでもいいんです。教えていただけないですか」


 三輪さんは後半になるにつれ、口調が荒くなってきた。何、この人。私が虐待をしてたって決めつけているじゃない。


「あと、娘さんはスマホをお持ちですか?」


 いったいこの人は、私から何を聞き出したいのだろう。いいえ、と短く答えると、そうですか、と三輪さんは紙に『スマホ無し』と書き留めていた。


「他の9件の共通点として、ネットで特定の人物とコンタクトを取っていたというのがあるんですが、スマホを持っていないようなら、娘さんの行方不明はこの事件との関係性は薄いかと思われます。ですが、娘さんのことはご心配でしょう。全力で捜索しますので、ご安心ください」


 三輪さんは、みずきが連続幼女誘拐殺人事件の可能性が低いと見て興味がなくなったのか、早々話を終わらせようとしていた。捜索願と何かメモを取っていた紙を一緒にクリアファイルに入れ、テーブルの上を片付け始めた。

 スマホ持っていないだけで、そう結論付けるのは早いと思う。自宅のパソコンや、学校にもパソコンなんてあるだろうし、スマホ以外でも方法はいくらでもあるのに。でも、そんなことこの人に言ったら、娘さんが誘拐されてる方がいいんですか、なんて変な印象を与えてしまう。実際、私は本当にみずきが誘拐されていた方がいいと思っているのかどうか、自分でもよくわからない。

 本当にみずきがいなくなっていいのか。みずきが帰ってくるのを願っているのか。




 会社員だった頃、ノロマで仕事ができない私に、ある上司が頭の中を整頓する方法として、こう教えてくれた。白紙を用意して、その紙を均等に3分割するように縦に並べて線を2本書いた。


『いいかい。左側に大事なこと、右側に大事じゃないこと、真ん中にはどちらとも言えないことを書いてみて』


 私はその上司が言っている意味がわからず惚けた顔をしていたんだと思う。上司は辺りを見回し、私のデスクにうずたかく積まれている書類を指差して、


『じゃあ、この書類の優先順位を考えよう。今考えるのは、そうだね、タイトルを決めよう。タイトルは


 そう言って、紙の上の方に「今日中に」と書いた。


『今日やらなければならないことを左側、明日以降でもいいことを右側に書いてみよう。じゃあ、これは?』


『それは左側です』


『なんで?』


『それは今月の締めで必要で、明日が締め日だからです』


『そう。それじゃあ、この資料のタイトルを左側に書いてみよう』


 私は言われた通り、紙の左側にその資料のタイトルを書いた。


『じゃあ、これは?』


『それは明日以降でもいいです。月末のミーティングで使う資料なので25日くらいまでにやっておけばいいと思います』


『そう、これは右側だね。その調子ていこう。じゃあ、これは?』


 そういった感じで次々と出される未完成の書類たちを、私は左右に分類していった。


『それじゃあ、これ』


 私は、上司が示した書類を右に分類しようとした手が止まった。その書類を私に持ってきたのは草凪くさなぎ係長だ。草凪係長は、部署内のおつぼね中のお局。絶対逆らってはいけない人だ。この人は自分の思うように事が進まないと長い説教が始まる。この人の書類は先にやらないと、と左側に書いた。


『うーん。気持ちはわかるよ。でも、これ、今日中?』


 それは備品発注の業者変更案の下書き。今取引のある業者との切替時期が半年後に控えているため、契約更新が否かを、今現在の備品経費と取引先変更後の経費予測を数値化し比較したものを作れと指示されたもの。経費担当の草凪係長が業者の変更案を役職会議でするために作らされている書類だが、その役職会議も来月の話。それも部署内では、その案は通らないと皆が思っている。草凪係長はある一部の経費削減しか見ておらず、全体的に見ると長く契約している現在の取引先の方が、先を見ても経費は抑えられるらしい。それに以前担当していた課長の方が、下請け会社にも同じ備品を発注するよう手配し、大量発注する代わりに契約額の変更を下げるよう打診しているところなのだそうだ。新入社員の私には、その辺の難しいことはよくわからないが、ただ草凪係長が1人で騒いでいるだけ。自分の懇意にしている業者があるのか、はたまた今の業者の担当者が気に入らないとか、草凪係長の私的な理由なんだろう。この案が通らない場合、多分その可能性が大きいが、私がこの書類を提出しても無駄な労力で終わってしまうことにもなりかねない。ただ相手が、あの草凪係長なのだ。その仕事を後回しにすれば、どんな嫌味を言われるかわからない。


『これ、草凪さんのだからでしょ』


 そう言うと上司は辺りを見回した。周りに草凪さんがいないのを確認すると、煩いもんね、と小声で言った。


『でも、仕事の分類はそういうことじゃなくて、今日中にやらなきゃいけないことかどうか、先にやらなければならないかどうか、タイトルを決めて分類するといいよ。多分、渡合さんは相手のことを気にしすぎるのかな。そういうのが絡んだりすると、先にさるべき事が後回しになって、また他の人に迷惑かかるじゃないか。そんなんじゃあ、いつまで経っても仕事は終わらないよ』


 それでも草凪さんは怖いんだけど、みたいな顔をしている私を見て、


『そういう場合は、この書類は真ん中だね。先にやるべき方をやっちゃって、草凪さんのを後でやろう。そういう時間を作るのも仕事のうちだよ』


 そう言われて左側に「発注業者比較データ」と書いたタイトルに射線を引いた。じゃあ、それは真ん中にしておこう、と上司が言うので、私は素直に同じタイトルを真ん中に書いた。私がそれを書き終わるまで、上司はそれを優しい目で見守っていた。


『このやり方は仕事のことを考えるだけじゃなくて、君が何か悩んだり、どうしていいかわからなくなった時に、を判断するのにも役に立つからね』


 上司は腕時計を見て、うーん、と天井を見て唸った。上司はスッキリした顔立ちだが、腕時計が付けられている手首を見ると少し毛深かった。腕時計はデジタルウォッチで、16:32と示していた。仕方ないな、と誰に言うでもなく呟いて、両手でパンと自分の膝を叩いた。


『よーし、残業付き合うよ。一緒にやれば3時間くらいで終わるかな。そうしたら草凪さんのも終わるでしょ』


 大丈夫です、1人でやれます、と遠慮したが、上司はそれを笑顔で制して、ちょっと待って、と携帯を出した。奥さんにLINEで残業を伝えたようだ。


『早く終われば、夕飯を奢るよ』


 上司は勝手に決めて、3時間と予測した残業も2時間と少しで終わった。定時を過ぎると、電話や内線がかかってこないので集中でき、早いペースで仕事が進んだ。そして勝手に決められた約束通り、夕飯をご馳走になり、残業とご馳走のお礼に私は素直に抱かれた。


 私はベットの淵でタバコを吸っている上司の背中を横になりながら眺めていた。頭の中で白紙を広げ、縦に線を2本書く、この上司は私のことを部下として育てようとしているのか否か、この上司は私のことを女として愛してくれているのか否か、私はこの男に抱かれたかったのか否か、色んなタイトルを付けて考えてみたが、答えはどれも真ん中、どちらとも言えない。頭の中の白紙をクシャクシャに丸めてポッと頭に浮かんだのは、この男は他の女とヤリたかっただけなのだ、という答えだった。

 私がこの上司から教えてもらったことは、色々考えて整頓しても、わからない時はポッと浮かんだ事が答えてなんだということ。




 今の私の頭にポッと浮かんだのは、ひかりを抱く利喜人くんの写真。隣には私。みずきが写っていない3人だけの家族写真。


「何かあれば、また連絡しますので」


 生活安全課の外の廊下で、三輪さんは私に頭を下げた。私も軽く頭を下げた。


「私たち、本当に虐待なんかしてないですから」


 顔を上げると、また言ってしまった。念を押せば押すほど怪しくなるとはわかっているが、そう言わずにはいられなかった。


 中央署を出る時、2人組の刑事なのか、スーツ姿の年配と若い人とすれ違った。私は小走りでバス停に向かい、携帯で利喜人くんに電話をかけた。利喜人くんの携帯は通話中で繋がらなかった。

 バス停の時刻表を見ると、バスが出てしまったばかりのようだった。もしかしてバスが遅れてないかと、バスが来る方向を見ると、タクシーの空車のランプが見えた。

 私は手を上げて、タクシーを止めた。

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