第24話 黒革のバインダー

 刑事課の事務所に入ると、重たい空気が鼻に入る。他の課に比べ、机の上が乱雑で汚い。ドラマでいう「刑事部屋」ほどではないが、事件に追われ帰らないでソファで寝ているもの、報告書を溜め込んで机に放り投げているもの、そこへ勤める人間の様々が課内に乱れている。

 署内にシャワー室があるのに何日も風呂に入らず、まるで自分の家かのように暮らしているような人間もいる。女性刑事もいるにはいるが、何日も泊まり込むことはない。泊まる場合も仮眠室もあるので、女性はそこを利用する。大きい事件の際は訓練室(柔道場)が男性用の仮眠室になることがある。それ以外の時は男性も仮眠室を使う決まりなのだが、殆どの人はそれが面倒だと言って利用しない。だから刑事課はいつも男子校のようなどんよりした空気が溜まっている。タバコやら汗や加齢臭の入り混じった課内の空気は、僕の鼻にとってはキツい。


 篠山さんは、なぜ僕が地方公務員試験を受け、一警察官を目指すため実家を出た理由は知っている。なぜ静岡にしたのかを訊かれたことがあった。家を出られれば、どこでもよかった。大学受験するために、色んな地方の大学を受けた時、静岡の大学も受けた。なんとなくのんびりしているが、それほど田舎でもない。時間の流れが、自分と合っているような気がした、そんな風に答えた覚えがある。という不埒な理由は伏せた。


 篠山さんは静岡生まれ静岡育ちの地元の人だが、僕がそう言うと、なんとなくわかる、と言った。


「俺は、静岡出て暮らしたことはないが、他の土地で暮らそうなんか思わねえもんな。上京したいなんて思ったことねえ。せわしないのは好きじゃねえ」


 そんな考えの篠山さんとは、一緒にいても疲れない。


 篠山さんはもうすぐ定年を迎えるような歳だ。昔ながらの古参の刑事は何日も寝泊まりして、家族も省みない人たちが多い。篠山さんも、むかしはそうだったと言う。家のことは全て奥さんに押しつけるのが当たり前だと思っていた時期もあった。だが奥さんが大病を患ったことがきっかけで、どんなに忙しくても家に帰るようになったらしい。家族1人も助けられないで、なにが市民のためだ、とも言っていた。

 そののんびりしている静岡でも、事件はある。今は市内の山中で、幼女連続誘拐殺人事件の関わりと疑われる遺体が発見されたので、刑事課の忙しさも尋常ではない。



「働き方改革」の波は警察署にも訪れていた。働きやすい環境ということで、署内は綺麗に、署内での寝泊まりは必要でない限り禁止と謳われているが、刑事課だけは、時代に乗り遅れて、誰も守ろうとしない。応接用のソファで一際大きい鼾をかいて寝ている人物がいる。大島巡査部長だ。課内で1番威張っているが、課長職でもなんでもなく、ただの平だ。

 鼾がうるさいので、篠山さんは大島さんの鼻を摘んだ。呼吸が止まった大島さんは、体をガバッと起こし怒鳴った。


「だれだ、バカヤロー。人の鼻摘みやがって!」


 寝起きの不細工な顔を更に歪ませ、開かない片目を無理やり開けて、大島さんは辺りを見回した。禿げ散らかった頭の残っている髪が寝癖で跳ねていた。


「俺だよ、俺」


 薄ら笑いで見下ろす篠山さんに、大島さんは、なんだ、シノさんか、とおとなしくなった。篠山さんより大島さんの方が4つ歳下の後輩で、むかしはバディを組んでいたと聞いている。篠山さんは、よく「俺が舘ひろしで、大島が柴田恭平だ」と言っていたが、むかしはやっていた刑事ドラマがなにかの話だろう。そのドラマを僕は知らない。


「どんくらい家で寝てねえんだ?」


「あ?もう、1週間は帰ってねえよ。あれが、連続誘拐殺人かもしれねえって、こっちは家帰れねえよ」


「家、帰れねえんじゃねえだろ。また、女房に怒られるから帰りにくいんだろ」


「ったく、あいつはなあ、刑事ってのがどんな大変な仕事かわかっちゃいねえ。誰のお陰で安心して暮らせると思ってんだ」


「少なくともお前だけのお陰じゃねえよ。ただな、間違いなく奥さんのお陰だぞ。たまには真っ直ぐ帰って、皿洗いでもしてやれよ」


 わかったよ、と大島さんはソファから起き上がると、ペットボトルのお茶を飲んだ。年長者が相手だから仕方ないのに、50を過ぎたいいオッサンが言いくるめられたのが体裁悪いのか、篠山さんの影に隠れるように立っていた僕に説教を始めた。


「おい、新井!」


「は、はい」


「はいじゃねえよ。お前あれだぞ、キャリアだかなんだか知らねえが、お前の親父みたいな奴らが綺麗な事務所でふんぞりかえってられるのも、みんな俺らの血の滲むような働きのお陰だからな。ちゃんと、そう親父に言っとけ!」


 変に絡まれてしまった。僕と父親の確執については、篠山さんにしか話していない。


 大島さんの話口調はいつも怒鳴っているようで、さほど珍しいことではない。単に声がでかいだけの人だ。この人からも、タバコ臭いニオイしかしない。

 敵だ味方だ、思いを寄せているだなどの、スパイスや石鹸やフルーツのニオイは、僕の感覚の問題で、なんとも思っていない人からは、そのニオイは感じ取れない。無臭だ。でも、篠山さんと親しくする大島さんは、悪い人ではないと確信している。


 背を向けてワイシャツの裾をスラックスの中に入れている大島さんに、篠山さんは手の甲で軽く肩を叩いた。


「あれ、あれは?のファイル」


 ウエストに手を突っ込みながら、ああ、とか、ふうー、とか言いながら、大島さんは居心地悪そうにしている。不摂生が過ぎるせいで出っ張っている腹が邪魔して、ワイシャツを上手く入れられない。大島さんは、これかぁ?と惚けて、デスクの上から黒い革のバインダーを取り、これですか?と篠山さんに態度でそれを渡した。


 篠山さんは大島さんの顔を見ずにそれを受け取り、バインダーを開いた。何件かの書類を捲る。あぁ、今日もたくさんありますね。明日も忙しいぞ、と独り言のようにボヤいた。


「新井、ちょっと目を通しておけ」


 バインダーを僕の胸に、グッと押しつけるように渡してきた。僕はいつものようにバインダーをチェックした。それは交番から届いた被害届。篠山さんが「」と呼んでいるのは、交番から届いた小さな被害届の数々。のことをそう呼んでいる。近隣トラブルや子供の家出、ペットが居なくなった、荷物を無くした、などのほんの些細な事件。交番に届けられた書類がファックスで送られてくるのだ。


 篠山さんが顔を上げると、大島さんが申し訳なさそうな顔をして立っている。定年を間近に控えている篠山さんと違い、数年若い大島さんはまだ現役バリバリの刑事だ。だらしない見た目の風貌だが、数々の事件を解決に導いている。篠山さんには、大きな案件は回ってこない。静かに定年を迎えてほしいという配慮よりも、大きな事件を任せられないという上層部の見地だ。

 篠山さんが大島さんの顔つきに気づく。


「なんだ?お前、むかしから言ってるだろ。事件に大きいも小せえもねえんだって」


 そう言って、大島さんの背中を大きく叩いた。だらしない大島さんの頬の肉が、ぶるんと揺れた。


「それにな、俺は新井の教育もしなきゃならねえから、こういう基礎中の基礎の事件から叩き込まねえとな!」


 今度は僕が背中を叩かれた。その勢いで前につんのめり、バインダーの金具で前歯をぶつけた。「俺が教育係についちまったもんだから、大きな手柄立てるような事件にありつけなくて悪いな」と篠山さんはよく言う。「僕の方こそ、こんな出来損ないの新人を抱えさせちゃって、すみません」と言うと、「本当だよ」と、また小突かれてしまう。


 さっきぶつけた前歯が痺れていたが、日課なのでバインダーを捲った。そのの中でも急を要するものを見つけ、明日の日程を立てる。それで僕と篠山さんの今日の仕事は終わり。


 ページをもう1枚捲った。


 静岡市葵区安東、手塚百合子63歳からの通報、

 婿むこと別居中の娘が、婿の家に離婚を打診しに行ってから帰ってこない、娘の携帯、婿の家に連絡をとってみたが双方連絡がつかないで3日が経っている、安東交番の警官が婿と折り合いがついて2人でいるのではないかと見解を述べると、孫を手塚家に置いたまま居なくなることは考えられない。


 そういった内容が走り書きされていた。そこには婿の住所と名前も記されていた。


「篠山さん、これって」


 婿の名前は、井口雅紀。


 部屋の番号は508号室。さっき行ったマンションだの、あのゴミだらけの部屋。僕の鼻がなにかを感じとった部屋。あのニオイが鼻腔に蘇った。嫌な予感しかしなかった。


「篠山さん!あれ、やっぱり血の臭いだったんですよ」


「待て!まだわからん。時間を考えろ!」


 そう言って止める篠山さんを振り切り、課の事務所を飛び出そうとすると、出入り口で人とぶつかった。その拍子につまずいて、派手に転んだ。後から、鼻にスパイスの嫌なニオイが入ってきた。


「痛っ!あ、パイセン」


 目の前には真新しいブランド物の茶色い革靴があった。顔を上げると、ぶつかった肩を押さえながら、薄ら笑いで田所和将が立っていた。






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