呼び名 ~新川透の事情・その4~
朝の5時過ぎ。日課となっているジョギングを終えて住んでいるマンションのすぐ近くまで戻って来たところで、ゴミ出しをしようとしている根本美沙緒とバッタリ会った。
根本美沙緒の住んでいるマンションは俺のマンションの隣。生活時間帯が同じならば十分あり得ることなので、さして驚きはしない。
ただ、根本美沙緒と言えば莉子を尾行して俺との待ち合わせイベントをぶち壊した張本人。正直なところを言えば、あまりいい印象は持っていない。
しかし莉子は彼女と友達になったとかで、
「あのとき、根本さんを睨んだでしょ。根本さん、怖がって大変だったんだから。今度会ったらちゃんと謝ってよ」
と、なぜか俺が怒られた。
本当に、不思議でならない。そもそも彼女は、莉子に憧れを抱くあまりストーカーまがいの行動をした女。何だってそんなのと友達になろうと思ったんだか……。莉子はやっぱり、懐が深い。
しかも今度の土曜日は、小林も含めた三人で彼女の家に集まるんだそうだ。
小林はかなり厄介な人間だし、玲香さんもあれでかなりイッちゃってるし……莉子と親しくなろうとする人間というのは、どうしてこうもクセが強いのか。
それからいくと、恵ちゃんが随分マトモに見える。俺やタケに構えることなく自然体でざっくばらんに接することができる、という意味では稀有な存在だが。
さて、そんな根本さんと遭遇した訳だが、所詮莉子には逆らえない俺は
「おはよう、根本さん」
と好青年の仮面を顔に張り付けて爽やかに挨拶した。
なるたけ心をまっさらにし、自分の不満は押し隠す。
根本さんはビクッと肩を震わせ、黒いゴミ袋をギュッと強く握った。
「お、おはよう……ございます」
ビクビクしながらも、綺麗なお辞儀をする。
……これか、莉子が感動していたという身のこなしは。
それにしても、確かに怖気づいてるな。莉子の友達に悪い印象を持たれるのは、この先のことを考えると非常によろしくない。
それにこの子は、莉子の大学の友人。この子と親しくなっておけばいろんな情報も入手できるだろうし……。
「東京駅では、本当にごめんね。大人げなく睨みつけてしまって」
「え、あ、いえ!」
俺がしっかりと頭を下げると、根本さんは飛び上がりそうになりながらぶんぶんと右手を振った。
「わ、私が悪いんです。知りたいからって後をつけるなんて、そんな下品なことをしたんですから」
「下品ってことは……」
「いえ。新川先生にも大変失礼な行為です。人をこっそり探るような真似は、恥ずべき行為です。許されることではありません」
本当に申し訳ありませんでした、と根本さんは再び頭を下げた。
それはそれで耳に痛いし……若干イラッとするが。
「でも、莉子さんは気分を害することもなく私を許してくださって。友達になろう、とまで言ってくださったんです」
根本さんがゴミ袋を持ったまま顔の前で両手を組み、天を仰ぐ。
……臭くないのかな。思い込みが激しいとは聞いてたけど、本当に大丈夫かな、この子。
「私の心配までして下さって……本当に広い心をお持ちです。可愛いし、センスはあるし、頭の回転は速いし、優しいし……とっても素敵な方です」
「そうだね」
ふむ、なかなか良いことを言う。まぁ、莉子の良いところはそんなもんじゃないけどね。
でも何だか、急にこの子を好意的に見れるようになってきた。
「あ、私ったらいつまでも引き留めてしまって!」
急に我に返ると、根本さんは再びお辞儀をした。
「私が悪いので、新川先生は本当にお気になさらないでください」
「あ……ちょっと待って」
ではまた、と言って去りかけた彼女を呼び止める。
何だかさっきから引っ掛かるワードがあるんだよな。
「莉子は、俺のことを何て言ってた?」
「え? 一応、彼氏さんだと伺ってますが」
一応、は余計だ。
「他には?」
「特には……。あ、予備校講師をされていたと聞いています。『新川先生が勉強をずっと見てくれてたの』と仰っていましたね」
「……ふうん。まぁ、概ね合ってるけど」
これ以上は引き出せそうもないな。
呼び止めてごめんね、と笑顔を向けると、根本さんは「それでは」と会釈をし、ゴミステーションの方に歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、顎を撫でる。
な、る、ほ、ど……『新川先生』ね。
最近気にはなってたけど、やっぱり意図的だったんだな。
* * *
莉子が実際に俺を何と呼んでいるかは、ちゃんと知っている。
“こらー!! 新川透! 聞こえないの!?”
古手川をとっちめるために待ち合わせ場所に向かっていたときだ。
これを聞いた時は、頭のてっぺんから爪先まで、雷に打たれたぐらいの衝撃が走った。
いつも、『新川先生』と呼ぶ莉子が。
恵ちゃんと、
「ほら、キノシタくんがさ……」
「誰それ?」
「ちょっと莉子、中2のとき同じクラスだったじゃない」
「そうだっけ?」
「まだクラス替えしてから三カ月も経ってないのに、もう忘れたの?」
という会話をするぐらい、人の名前と顔を覚えない莉子が。
俺の名前をフルネームで、しかも強烈な感情を込めて呼んでいる……!
ああ、出会いを綿密に計画してよかった、俺の存在は確かに莉子に刻まれている、と痺れそうになるぐらい感動したのだった。
だけど、録音するのを忘れたのは本当に失敗だった……。
このとき聞けたのは、たったの二回。
そのあとも、何かで怒った時に
「何で新川透は、そうやって勝手に決めるの!?」
と、本当にたまーに飛び出すぐらいで。
呼び名については、初詣の一件で表向き『透くん』ということにはなっている。
最初は頑張って呼ぶようにしていたが、莉子はいつまでも慣れなかった。息を吸ってちょっと構えてからでないと呼べない。
そして最近は、どうも呼ばないで済むようにしているな、と薄々感じていた。
多分、どうしても馴染まないのだろう。心の中では『新川透』と呼んでいるのだから。
――私が知ってるのは、他の人と、違うから。新川センセーじゃなくて、新川透、だから。
莉子が一言一言、噛みしめるように告白してくれた時は、危うく理性がプッツリと切れそうになるところだった。
多分、莉子本人は全く分かってなかった。だけど明らかに、俺を意識して特別な存在に感じてくれたからこそ、出た言葉。
「……ふふっ」
思わずニヤけてしまい、慌てて辺りを見回す。幸い廊下には誰もいなかった。
とりあえずさっさと部屋に入ってしまおうと、鍵穴に乱暴に鍵を差して回す。
このフルネームに込められた意味や感情、全部が嬉しい。
だから実際のところ、表面上は透くんでも透さんでも、何でもいいのだ。反応が面白かったから、あのときあんな風なイジリになってしまっただけのことで。
だけど、『新川先生』は駄目。俺はもう先生ではないし、それは俺の上っ面を表した呼び名だ。
しかもまさか、他人に話すときまで『新川先生』のままだったとは……。
* * *
「……という訳で莉子、お仕置きね」
「はぁ!?」
俺に軽々と抱きかかえられた莉子が、俺の両肩をガシッと掴みながら目を見開く。シャラン、と左足首のアンクレットが軽やかな音を立てた。
今日はビーズがあしらわれたオフホワイトのニットに鮮やかなブルーの膝下プリーツスカートか。
うんうん、露出も多くないし可愛い、可愛い。
分かってはいたけど、女子大生になった莉子は本当に可愛くなった。
ちょっと色っぽくなったし、その一端を俺が担っているのだと思うと充足感と共にフツフツと黒い感情が頭をもたげてくる。
根本さんと今朝会った時の話を報告したいと言うと、経緯が気になったのか、莉子は平日にも関わらず俺のマンションに来てくれた。
玄関で速攻で捕獲、入口すぐ傍の寝室に連れ込む。
「な、何が!? 何で!?」
「根本さんに話すとき、俺のことを『新川先生』って言っただろ」
「……へっ」
ベッドに下ろすと、莉子はじりじりと後ろに下がりながらキョロキョロと目を泳がせている。
うーん、実にいい。何だろう、この捕食者気分は。
たまらないなー。
「だいたい莉子、俺の名前を呼んでくれてないよね、最近」
「……えーと……」
「呼ばないで済むようにしてたの、バレバレだから」
「うっ……」
俺もベッドに上がり距離を詰めると、後ろに下がっていた莉子の背中がトンと壁に着いた。
さぁ逃げられないよ、とばかりに両腕を壁に付いて囲い込むと、莉子の顔があっという間に真っ赤に染まる。
「な、何でそれでお仕置きなのよ!」
「名前を呼ばないから」
「だって言いにくいんだもん!」
「何で?」
……とあえて右側の耳元で囁くと、莉子が「はぐわっ!」と謎の叫び声を上げて耳を押さえた。
あぐあぐと変な声を発しながら涙目になっている。
くぅぅー。
ああ、生きてるって感じがするな!
「や、やめて!」
「ちゃんと質問に答えようね。答えられなかったら耳にキスするよ」
「だから何で……きゃんっ!」
空いていた左耳に唇を押し付けると、莉子は悲鳴を上げて両手で俺の両頬を押し返した。
うんうん、耳を守るよりそっちの方が攻撃を防げるからね。元を押さえる、ってことか。
さすがに反応が早いなー。
「もう、何で新川透はすぐそうやって追いつめるのよ!」
『
「楽しいから」
「私は楽しくない! 困る!」
「はい、話題をすり替えない。何で、言いにくいの?」
「だ、だって~~!」
当然、あっさり吐かれてはお仕置きにはならない訳で……巧妙にタイミングをずらしながら答える隙を与えず、どさくさに紛れてたっぷりと楽しんだ。
* * *
「だから……7つも年上なのに『くんづけ』とか、厳しいんだもん……」
莉子が必死になって絞り出した答え。
布団をすっぽりとかぶり、さらにクッションを両腕で抱えて身体の前面を隠し、上目遣いに俺を見る。
もう結構な仲だと思うんだが、なぜそこをそんなに気にするのか分からない。
うーん、だけどそういうとこも含めて、可愛いくて仕方がない。
ほだされてあげたいけど、俺はまだ満足してないのでもうちょっとかな。
「それは俺がオッサンだからってこと? 似合わない?」
「違ーう! 何か同級生みたいっていうか……」
「ふうん」
答えがあんまり面白くない。
……という訳で、クッションは没収ね。
さっさとクッションを奪い素早く組み敷いて見下ろすと、すべてを晒す羽目になった莉子が「ひゃあっ!」と声を上げた。
「ちょ、待っ……」
「さーて……」
「えっ、まだ続くの!? そんなに『先生』って駄目?」
まだ続く、とか言われると地味に傷つく。
なので、もうしばらくイジメることにする。
「最中ならいいよ、逆に燃えるかも」
「ばっ、バッカじゃないの!?」
あー、やっぱりすごく楽しいし、幸せ。
きっと莉子には半分も伝わっていないんだろうな、と思う。
ちなみにこの日、呼び名については有耶無耶になった。
……というより、有耶無耶にした。
多分、このネタであと1、2回はイジれるはずだからね。
楽しみだな~。
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レビュー2つ目&11,000PV記念SS。深夜テンション、結構キケン。
お粗末様でした。m(_ _)m
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