約束の日(3)

 トイレの個室で着替え、その後パウダールームで髪を整えてちょっとだけメイクをする。新川透はすっぴんの方が好きらしいので、顔が変わらない程度に。

 まぁ、「ガンガン盛ってくれないと一緒に歩けない」とか言われるよりは絶対にマシだし嬉しいけど、こんな地味な素顔の方がいいなんてだいぶん好みが変わってるなあ、と思う。


 鏡の前で確認をして……ふと気づいた。赤いボストンバッグの隅から隅まで探したけど、やっぱりない。


 ――アクアマリンの指輪。


 うーん、私の部屋の机の中に大事にしまったままだったもんね。さすがに玲香さんといえど、机の中まで漁る訳にはいかなかっただろう。


 普段は掃除の仕事をしているから、当然身につけてはいない。もし今日の夜にデート、ってことになったらちゃんと着けていこうと思ってたのに。

 それもこれも、誘拐なんてするから……。今日の服装だったら、絶対に似合ってたのにな。



「……あ、お帰り。遅かったね」


 車が止めてある場所に戻ると、新川透が缶コーヒーを飲みながらひらひらと手を振った。


「玲香さんと電話してたから」

「やっぱり」


 なーにがやっぱり、だ。まったく、ありとあらゆるところに手を回してくれちゃって……。

 ふん、と鼻息を漏らすと、新川透は

「そろそろ機嫌、直してよ」

と屈託のない笑顔を見せた。


「怒ってはいない。呆れてるだけ」

「それでもそんなしかめっ面してたら台無しだよ。でも、そのワンピース本当に似合うね。玲香さんがどうしても、と念を押しただけはあるよ」

「……本当に?」

「うん、可愛い、可愛い」

「顔が服に負けてない?」

「え、何それ? 何でそんなこと気にするの?」


 あなたと一緒にいると気になるんですよ。この人は本当に……。

 あ、違うな。自覚がないんじゃなくて、見られることに慣れ過ぎてて完全にシカトしてるんだな、きっと。多分、どうでもいいんだ。どう見られようが。


「これ、荷物……」

「あ、そうだ」


 いつもの黒リュックを肩にかけたまま赤いボストンバッグの方を渡そうとすると、新川透がおもむろにトランクを開けた。

 

「バッグはこれを渡してって頼まれたんだった」

「えっ、そこまで準備してあるの!?」


 鮮やかなスカイブルーのトートバッグを差し出されて面食らう。

 わ、色が綺麗。それにファスナーや取っ手の部分の金具がさりげなく凝ったデザインになっていてお洒落だ。大きさも、小さすぎず大きすぎず手頃。


「通学カバンによさそう、と思って買ってあったらしいよ」

「そこまで……。あ、確かに結構入るね。有難いけど、ここまでしなくても……」

「ね? だからお嬢の玲香さんより俺の方がマトモだって言ったのに」

「……誘拐犯がマトモな訳ないでしょ……」


 何かこの人達に関わっていると、『普通』とか『平凡』って何だっけ、という気になってしまう。

 私はあくまで一庶民、私はあくまで一庶民……とブツブツ呟きながら、サイフやハンカチ、手帳などをトートバッグに移す。

 ついでにいつもの鞄の中も探してみたけど、やっぱり指輪はなかった。


 ……ま、そうだよね。入れた覚えもないし。


「……左手、どうかした?」


 私が少し溜息をつきながら薬指を撫でた動作が気になったらしい。

 よく見てるな、と思いながら私はチラリと新川透を見上げた。


「前にくれた指輪、机の中にしまい込んだままなの」

「え……」

「誘拐なんてせずに準備させてくれれば、ちゃんとはめてこれたのに……」


 誕生日の前倒しにって言って寄越したくせに、これじゃ片手落ちですよ。

 それもこれも強引に連れ出すからだぞ、と思って睨みつけたけど……新川透の顔を見て呆気に取られた。


 右手で自分の鼻と口元を隠してるけど、目尻が異様に垂れ下がっている。心なしか顔も赤いし、何と言っても視線が合わない。


 はえ? これはいまだかつて見たことがないぐらい照れている?

 おかしいな、私は恨み言を言ったつもりだったんだけど……何でそんなリアクションになるの?


「いや、莉子、それは不意打ち過ぎるでしょ……」

「へ? 何で?」

「無自覚かあ。これだから困るよね、俺の心を弄んで……」

「人を悪女みたいに言わないでよ!」

「いや、悪女というより小悪魔だよね。はぁ、キュン死しそう」

「やめてよ、その顔でキュン死とか言うの! こっちが照れるわ!」


 相変わらず感情の変化のポイントが分からない!

 小林梨花センセー、関心を持って接してたら本当にこの人を理解できるようになるのでしょうか!


 ……そのあとは二人ともどこかぎこちなく、赤い顔をしたまま車に乗り込み……かなり長い時間、沈黙が続いたのだった。


   * * *


「はい、着いたよ」

「着いたよって……」


 高速を降りて、どんどん山奥へ。橋を越え、旅館の看板や民宿っぽい建物を通り過ぎ、そうして辿り着いたのは高速のパーキングエリアとほぼ変わらない、広い駐車場だった。

 端っこに、わりと小奇麗ではある公衆トイレと、ポツンと1台だけある自動販売機。食べ物屋はなく、あるのはワゴンの出張カフェだけ。でも閉店時間を過ぎたらしく、おじさんが黙々と後片付けをしている。

 当然、旅館らしき建物も見当たらない。


「ここ、どこ?」

「目的の温泉はもう少し山奥にあるんだけど、その手前の無料駐車場。ここから先は一般車両は入れないんだ」

「へっ!? じゃあどうするの?」

「2時間ほど歩けば着くけど……」

「げっ!」

「さすがに仕事上がりの莉子に無理させる訳にはいかないし、荷物もあるからね。送迎バスを頼んでおいた」

「そんなのあるんだ……」


 というか、本当にすんごい秘境だね。今日平日だし、私たち以外、人が見当たらないんだけど。(カフェのおじさんを除いて)

 何か、マジで誘拐されたみたいだな、私……。


「ちょっと時間があるから、遊歩道を歩いてみようか。おいで、莉子」


 ナチュラルに左手を伸ばされたので、素直に右手を出す。

 私達を取り囲むのは緑の樹々だけ。さすがにこれだけ何もないと、人目を気にしなくていいので気が楽というか、あまり恥ずかしくない。旅先で、自然の中だし、解放感があるというか。


 目の前には長い鉄の階段が。奥は見えなくて、周りはすべてゴツゴツした茶色い肌の樹々が取り囲んでいる。葉っぱが揺れるわずかな音まで聞こえてきそうなほど静かで、この空間は澄んだ涼しい空気で満たされている。

 鉄の階段が終わっても、今度は山の斜面に沿って作られた手作り感満載の遊歩道が木々の間をうねるように続いている。手すりもないし、何だか転びそう。


 何でスニーカーなのかな、とちょっと不思議だったんだけど、山道を歩くからだったんだね。だけどこれは、ズボンを履いて杖装備しないと無事には歩けなさそうな、本格的な山道だ。


「あんまり進んだら戻るのも大変だし、ここまでにしておくか」

「うん。でも……」


 私は空を見上げた。360度、樹の幹の茶色と葉っぱの緑だらけ。空の青は天頂にほんの少し。

 今日はすごくいい天気のはずだけど、この場所にはあまり光が射さない。

 ……何だか、別世界に来たみたい。


「莉子、口が開いてる」


 ほわー、と呟きながら見回していると、新川透に右手を引っ張られた。

 

「あ、うん……」

「樹を見上げるの好きだよね、莉子」

「そういえばそうかも。……でも、何でそう思ったの?」

「初詣のときもそうやって口を開けてご神木を見上げてた」

「あ、そうだっけ」


 大きな樹を見上げていると、ちっぽけな自分も……まあ実際に小さいんだけど、勿論そういう意味じゃなくて――こういう大自然の中の自分っていうのは本当にちっぽけで、そんなちっぽけな自分が抱えている悩みなんていうのも本当に小さいものだ、と思えて、何だか気持ちが軽くなる。浄化されるっていうんだろうか。


 不意に、新川透が私の左手を取り、薬指を撫でた。

 二人の腕で、真ん中に輪っかができる。自然と向かい合うような形に。


「ん? 何?」

「誕生日おめでとう、莉子」

「あ……ありがとう……」


 そ、そうだったね。元々は私の誕生日を祝うための旅行だもんね。

 誘拐ばかりに気を取られてたけど……。


「指輪、大事にしてくれててありがとう。でも、普段から身につけられるようなものにすればよかったね」

「そんなことないよ」

「今度ネックレスでも買ってあげる」

「……要らない」

「そう言わずに。俺のためだと思って」


 新川透が、私の両手をキュッと握る。

 少しドキッとして、声が上ずった。


「な、何で?」

「自分が買ったものをいつも身につけてくれると嬉しいだろうなって。で、その姿を見るときっと幸せな気持ちになるだろうな、と思うからさ」

「なんか、ぼんやりしたコメントだね、珍しく……」

「仕方ない。経験がないから、想像するしかないし」

「……」


 そういえば、彼女らしき人は中学時代しかいなかった、という話だったっけ。

 それも告白されたからただ付き合ってみただけ、という程度で、ロクに続かなかったという……。


「本当に……」

「ん?」

「本当に、ちゃんと付き合った人っていないんだね……」

「え、今更? 誰かに聞いたんじゃなかったっけ?」

「そうだ、けど……」


 急に、ハッと胸を突かれたような気がした。

 やっぱり、何だか腑に落ちない。


 


 それほど異性に興味のなかった新川透が、これだけ私に向かってくるのは、何故なんだろう?

 だって、少なくとも2年前には――私を見つけていた。そして恐らく、私が大人になるのをひたすら待っていたのだ。


 ねえ。私達……いつ出会ったの?

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