第11話 見たんだからね!
えっ、新川透……今、『莉子』って言った!?
何で私だってわかるの……って、そうじゃなくて!
私は咄嗟に人差し指を口元にあてて『しいーっ!』という仕草をした。
私のちょっと後ろにいた玲香さんも同じように『しいーっ!』という仕草をしつつ、左手でシッシッと犬を追い払うかのように手を動かしている。
「え、急に……?」
小林梨花が抱きついたまま、首を捻って顔を上げた。表情は見えないが、耳まで真っ赤だ。何やらトキメいているご様子……。
あ、そうか。多分、『梨花』に聞こえたんだ。急に下の名前で呼ばれた、と思ったのか。
私のことはバレてないみたいだから良かった。
いや、やっぱ良くない。いつまでしがみついてんのよ。
……と思っていたら、新川透が両手で小林梨花の両腕を掴み、グイっと自分の身体から引き離した。
「えーと、小林。明日、話をしよう」
「い、嫌です!」
「うーん……」
「話をするって言ってたじゃないですか。誤解って何ですか?」
「いや、だから……」
新川透が私の方をチラチラ見ながらかなり戸惑っている。
だからこっちを見るなっての。……まぁ、小林梨花はそれどころじゃないみたいだけど。
アホらしい。結局何があったのかさっぱりわからなかったし、ここにいても仕方がない。どうやら私はお邪魔なようだし、これ以上二人のやり取りを聞いてられないし、見てられないわ。
私はくるりと振り返ると、建物の陰に入り、細い道をズカズカと歩き始めた。
「え……ちょ……」
玲香さんが小声で「莉子ちゃん、待って」と言いながら後をついてくる。
その声すら無視して、とにかくズンズン歩く。
きっと、小林梨花に「俺がどうにかしてやる」とか良い先生ぶって上手いこと言ってたんだ。だから小林梨花もすっかり舞い上がって頼りにしちゃって、結局海野くんともロクに話もせずに拒絶して、ただひたすら助けを待って。
そんなところにノコノコとやってきたもんだから、あんなことに……。
私にすら何も言わずに裏でコソコソと立ち回った挙句がコレだ。自分が万能だと思うなよ?
「あ!」
後ろから小さく玲香さんの声が聞こえた瞬間。
すごい勢いで肩を掴まれ――足元から、地面が消えた。
「えっ……」
ギャーッと叫びそうになって、慌てて両手で口を押えた。何だ、誰かに抱えあげられてる?
キョロキョロと辺りを見回すと、細い脇道のせいか幸い生徒はいなかった。だけど、あんぐりと口を開けている玲香さんと目が合う。
え、な……コレ、新川透、だよね!?
顔を見ようとした瞬間、振り返ったのかグリンと向きが変わって振り回される。
あわわ、目が回るー。ちょっと乱暴すぎやしないか?
「玲香さん、莉子は連れてくから」
「え、あ、はい……」
ちょ、ちょ、玲香さん、止めてよ! いや、止めるわけはないか……。
って、新川透って玲香さんと知り合い!? ……あ、そうか、先輩後輩だっけね。しかし『玲香さん』とは随分親しげな感じだな。
違う、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
「ちょ、何してんのよ!」
「それはこっちの台詞だ」
「小林梨花は?」
「名前も調査済みか。気にするなって言ったよね?」
「だって、気になるじゃん!」
新川透は脇道からさらに裏手の方に入ると、さっきとは別の門から外に出た。すぐそばに停めてあった白いレクサスの助手席側のドアを開け、ボスンとやや乱暴に降ろされる。
「ちょっ……」
「とにかく黙ってて」
珍しく、かなり機嫌が悪いようだ。
いやこっちだってね、かなり気分を害してますよ。そんな風に当たられる覚えはまーったく無いんですけど!
運転席に乗った新川透は乱暴に黒縁眼鏡をはずすと、ポイッとダッシュボードの凹んだ部分に投げ入れた。そして眉間を押さえ、「ふう」と溜息をつく。
お疲れのようですねぇ。悪だくみのし過ぎじゃないですか?
「結局、小林梨花は何だったの?」
「黙っててって言ったよね」
「聞かれるとマズいようなことなんだ」
「そういう意味じゃない」
乱暴に吐き捨てると、新川透は車のエンジンをかけ、やや乱暴に車を走らせ始めた。
「眼鏡かけなくていいの?」
「それはカメラ」
「はあ?」
「とにかく俺のマンションに行こう。話はそれからだ」
どうやら今は本当に話をしたくないようなので、私は諦めてむっつりと黙り込んだ。
がっつり腕を組んで、「かーなーりー気分が悪いんですけど!」と全力でアピールしつつ、ね!
* * *
マンションに着くと
「とにかくそのメイクを落としてきて」
とメイク落としやら洗顔フォームやら化粧水やらがひとまとめになっているトラベルパックみたいなものを渡された。
何でこんなモンを持ってるんだ……と思いつつ、洗面所に向かう。確かに慣れないカラコンとメイクでくたびれてはいたから、助かったけどさ。
コンタクトを外してケースに戻し、メイク落としと洗顔フォームで顔を念入りに洗う。化粧水でピシャピシャと水分補給したあとに乳液をすり込み、ふっと息をついた。
鏡の中の私は、いつもの仁神谷莉子だ。眼鏡がないからちょっとボヤけてはいるけどね。
はぁ、ちょっと落ち着いた。
しかし何でこんなことになってるんだろ? 玲香さん、どうしたかなあ。しまった、洗面所にガラケーも持ち込めばよかった。そしたらこっそり玲香さんに電話できたのに。
ノープランで戻らねばならんのか……。何か怖いなあ……。
ようやく覚悟を決めてリビングに戻ると、新川透はソファに寝転がりながらスマホを操作していた。私に気づいて身体を起こすと、ホッとしたような笑顔になる。
「ああ……良かった。いつもの莉子だ」
あれ、ちょっと機嫌が直ってる? 何でだろ? まぁ、ちょっと安心したけどさ。
「よくわかったね、私だって……」
「骨格や鼻と口は変わってないからね」
こ……骨格!? 何それ!?
ある意味、怖いわ。じゃあどんな変装もこの人には無意味じゃん!
ちょっとヒいていると、手招きをされたのでソファに近寄り、そばに座る。
さっきまではかなりイライラしていたはずなのに、今は別人のように穏やかだ。私がメイクを落とす二十分ほどの間に、いったい何があったんだか。
ソファに寝転がったまま左腕で頬杖をつき、私と目線を合わせる。そしてニコッと微笑んだ。いつも見る笑顔だ。
「髪の毛切ったんだ。似合う、似合う」
「ありがと……」
「俺はやっぱり、眼鏡を取ったスッピンの莉子が好きだな」
「地味で何の面白味もない顔だけど」
「無垢で可愛い」
「……っ!」
例によって赤面しそうになったところに右手を伸ばしてきたので、ぺちっとはたく。
そんなんじゃ誤魔化されないし!
「丸め込もうとしないで!」
「丸め込まれそうになった?」
「なってない! 私、怒ってるんだからね!」
叫ぶように言うと、新川透は「何を?」と不思議そうな顔をした。
何だ、そのオトボケ顔は……。ムカツくなあ、もう。いちいち説明しないといけないんかい。
「まず、模試事件ね。小林梨花に何らかのアタリをつけたのに、私に言ってくれなかった」
「まぁ、ね……」
「補習が休みになったり時間がズレたの、全部小林梨花絡みでしょ?」
「うん」
「私、無関係じゃないのにさあ……」
「それが嫌だった?」
「っていうより、内緒だらけなのが嫌だった」
「……ふうん?」
何じゃ、その「ふうん?」は!
また犬か何かのように人の頭をぐしゃぐしゃとするので、ていっと払いのける。
むむう、と睨みつけると、新川透はクスッと笑った。
「ところで莉子は、どうして今日あの場所にいたの?」
「……内緒」
「え?」
「そっちが何にも話してくれないんだから、内緒」
「ふうん?」
だから、その「ふうん?」はヤメロ……。何でそんなにニヤニヤしているの。
今のこの話の流れでどこにそんな楽しいポイントがあるのか全然わからないんだけど!
「まぁ、予想はついてるけどね」
そう言いながら、新川透は身体を起こしてソファに座り直した。手にしていたスマホをポイッとテーブルの上に置く。
「月曜日、予備校に来たんだよね。小林との面談を盗み聞きしてたんだろ?」
人聞き悪いな。まぁ、そうだけどさ。
それもこれも、そっちが何も話してくれないからであって……。
「だって、何か嫌だったんだもん」
「嫌って何が?」
「恵に口止めした理由もわからないし。そんな相手と二人だけで話をしてたのも、嫌だった」
喋っているうちに、モヤモヤしたものが胸に広がっていく。
駄目だ、これ以上喋ると余計なことまでぶちまけてしまいそうだ。
新川透がちゃんと話してくれるまで、じっと我慢しよう。そうすれば、きちんと納得できて、このモヤモヤも治まるはず。
私は両手をギュッと膝の上で握りしめた。
「そうか、恵ちゃんが喋っちゃったか」
「言っておくけど、恵は悪くないからね!」
思わず叫ぶと、新川透が「おやっ」という顔をした。
我慢しよう、と心に決めました。しかもついさっきね。
でも、恵のこととなると話は別だ。
「あのね、恵は私の事を心配して……」
「心配って?」
「それは……!」
えーと、どう言えばいいんだろう。
恵は新川透が私に内緒で『小林梨花』のことを聞いたのが……つまり、私と関係ない「女の子」にさも興味があるかのような言動をしたことが、「何かおかしい」と言っていたのだと思う。
莉子に言い寄ってるんじゃないの、いったいどういうつもりなの、と。
だけど……それを私自身が言うのは、何か抵抗がある。
「俺が浮気心でも出したんじゃないかってこと?」
「そこまで言ってないし!」
「やっぱり莉子
「そう! そうだよ!」
それです、それ!
私が言いたいのは、浮気がどうとかそういう恋愛話ではなくて、隠し事が嫌だっただけなんだよ! ただ、それだけ!
私がうんうん頷くと、新川透はじっと私のことを見下ろした。
「でも、莉子も内緒にしてたよね。玲香さんといつの間に知り合ったの?」
「うぐっ!」
た、確かに、それは内緒でしたけども!
だってさ、新川透の昔が知りたかったなんて、言えないじゃない。
それにそんなことを言ったら、新川透が嫌がる気がしたんだよ……。
「で? 何で黙ってたの?」
「言わない!」
「ふうん?」
えーい、だからその「ふうん?」は何なんだ! ムカつくな、本当に!
「とにかく! まず、小林梨花の件をちゃんと話して! 私はそれが一番、気に入らないんだから!」
「気に入らない……ね。まぁ、悪くない答えだ」
独り言のように呟くと、新川透はスッと立ち上がった。
「とりあえずコーヒーでも淹れようか。ちゃんと順番に説明するからさ」
真面目な顔でそう言うと、新川透はスタスタと歩いて台所へ向かった。
どうやらおフザケモードは終了のようだ。
手招きされたので、私も立ち上がってダイニングテーブルに向かう。
ようし、とにかく洗いざらい喋ってもらおうじゃないの!
やっと本題に辿り着いたよ。全く、人の気も知らずに、この男は……!
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