第10話 メーター振り切れた……。

 金曜日――。

 今日の目覚めは……最悪だった。

 起きた瞬間から足元はふらつき、変な汗がいっぱい出る。背中や腰が痛くて、立ってるのも辛い。

 どうにか朝の新聞配達だけはこなしたけど、掃除をする体力は出てきそうになかった。

 ああ……休むしかない……。給料が減る……。


 しばらく意識を失っていたらしく、とっくに予備校の出勤時間は過ぎていた。

 ほうほうの体で桜木社長に電話したら、山田さんにも電話するように言われて山田さんの携帯番号を教えられた。「あの子はどうしたの!?」と何回も電話が入っていたらしい。

 嫌な予感しかしなかったけど、掃除婦仲間のボス、山田さんの言うことには逆らえない。

 クラクラしながらガラケーのボタンをプッシュした。


「もしもし……」

“ん? 莉子ちゃんかい?”

「はい。すみません。あの、熱が出まして……」

“熱ぅ!? しょうがないね!”

「すみません……」


 去年働き始めてから、頑丈な私は休んだことなど一度もない。当然サボッたこともない。

 余程大変な状態らしいと伝わったらしく、いつもの口調ながら山田さんの声はどこか優しかった。

 だけど話はここでは終わらなかった。


“ところでね! 新川先生がやけにアタシ達の周りをウロウロしてるんだけど!”

「私に……言われても……」

“どう考えてもアンタでしょうが!”


 そうかなあ……。

 そう言えば、新川透は山田さんに聞いた、とか何とか言ってたっけか。


「山田さん、新川センセーに何を言ったんですか……?」

“一人だけ若い女の子がいるねって言われたから、ああ、高校行かずに学費を貯めてる子なんですよって言っただけだよ”

「そ……ですか……」

“とりあえず熱を出したらしい、とだけ伝えておくよ?”

「はい……すみません……」


 どうにか電源を切ると、その辺にガラケーを放り投げて、私はベッドに横たわった。……と同時に、脇に挟んであった体温計がピーピーと音を立てたので見てみる。9度5分もあった。

 風邪じゃないよなあ。鼻水も出てないし、喉も痛くないし。

 じゃあこれは、何熱でしょうか……?


   * * *


「莉ー子ー。生きてる?」

「……ん……」


 次に目を開けた時には、恵が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。


「不用心だなあ。ドア、開けっ放しだったよ」

「あ……」


 ガラケーを手に取る。時刻は……午後3時過ぎ。

 着信履歴がいくつも並んでいた。そしてショートメールも。

 全部、恵だった。


「……あれ? 私、恵に連絡したっけ?」

「何の返事もないから心配になって来てみたんだよ。そしたら死んだように眠ってるし、おでこは熱いし。あんたねぇ、こういうときは事後連絡じゃ意味ないんだよ?」

「ごめーん……」

「まず熱を計りな」

「ん……」


 恵が差し出してくれた体温計を受け取り、脇に挟む。

 ボケーッとしながら部屋を見回すと、薬やら冷えピタやらがテーブルの上に散らばっていた。


「家から持ってきてくれたんだ」

「あ……うん。まぁね」

「準備、いいね……」


 そのときピーピーという検温終了の音が。

 取り出してみると、7度3分だった。

 私はむっくりと起き上がった。尋常じゃない量の汗をかいてベタベタだ。

 

「ん、だいぶ下がった」

「じゃあ、シャワーは浴びれそう?」

「うん……あ、でも、これが……」


 私が右手を見せながら怪我の経緯を説明すると、恵が呆れたような顔をした。


「あんた、この二日間、何やってんの?」

「私もそう思う……」

「じゃ、一緒に入ろう。頭洗ったげるよ」

「何から何までごめんねぇ」

「ほんとにね!」


 どうせなら浴槽に浸かろう、と恵がお湯を溜めてくれた。そうして私と恵は中学校の修学旅行ぶりぐらいに一緒にお風呂に入った。

 頭と体を洗い終わって二人でお風呂に浸かる。小さいお風呂なので、自然に二人の体がくっつくことになる。恵の身体はふわんとして気持ちがいい。


 ……いいなあ、恵は……おっぱい大きくて……。

 私なんかガリガリで骨ばってるし、女らしさの欠片もないんだよなあ。


 ふと、昨日のハグを思い出す。

 新川透も「何だこりゃ」とか思っていたかもしれないなあ。「小骨が刺さる!」とかさぁ……。

 ……って、何でそんなこと気にしないといけないんだ! 訳わかんない妄想、しっしっ!


「そうだ、聞いといたよ、新川透情報」


 私の一人ジタバタには気づかなかったらしく、恵が急に声を上げた。慌てて平静を装い、「ありがと」とお礼を言う。

 こんな変な妄想してたなんて、恵には絶対に言えない。


「どうだった?」

「何かねぇ、看護師仲間に新川透の高校の2つ上って人がいたらしくて、結構詳しいことがわかったよ」


 そうして恵は、いとこの看護師に聞いた新川透情報を教えてくれた。

 新川透はやっぱり周りがドン引きするぐらいのモテ人生を歩んできたらしい。自分の魅力を鼻にかけることもなく誠実で人当たりがよくて頼りになるから、男女共に人気があった、とは新川透と同じ高校だったという看護師さんの言葉。

 中学時代は何人か彼女らしき人がいたそうだがどれもこれも長続きせず、高校時代は女子の告白は片っ端から断っていたそうだ。それ以降、大学時代から今に至るまで、付き合った彼女等の話は全く聞けなかったらしい。


「そうなんだ。……意外」

「まぁ、だから童貞の可能性は高いよね」

「なっ……なん……」

「あー、莉子にはキツかったかー」

「うるさいよ!」


 優秀だったから当然、都会の大学に行くか、もしくは外国の大学に行くのでは、と思われていたが、何を思ったか新川透は急に地元の医学科に進学した。

 兄がすでに医学科に行っていたし、次男である彼は別に医者になる必要はなかったのだが、突然「俺は地元に残るから」と言って学校の先生を驚かせたそうだ。


 新川病院は、私と恵が住む地区で一番大きな病院で……新川家も、病院のすぐそばにある。

 大学にもそう遠くはないのに彼がわざわざ実家を出て一人暮らしを始めたのは、医者であるお兄さんが結婚したからだそうだ。


「お兄さんが結婚すると、家を出ないといけないの?」

「両親は出なくていいって言ったんだけど、お兄さんが『お嫁さんがもし透を好きになったら困る!』って言ったんだって」

「はい~? じゃあ、お兄さんと仲悪いの?」

「悪くない。むしろ仲良し。だからこそ、怖かったみたい」

「はー」

「どれだけフェロモン出してんだ、って感じだよね」


 新川透は医者にはならず、地元の製薬会社に就職を決めた。なのにその内定を蹴って光野予備校に入社希望を出したのは、十月頃のこと。

 光野予備校ではとっくに新卒の内定は出し終わっていたけれど、いかんせんアレでソレなもので、するするっとパスして今年の春、光野予備校に就職したらしい。

 これには両親も驚いたけど、医学科志望の三男が光野予備校に浪人を決めたので、まぁそれならかえって安心だし、ということになったようだ。


「えー、そんなもんなの?」

「家族は仲良しだけど、次男には家の都合で振り回したのもあって申し訳なさがあったみたいね。特にお兄さんが好きなようにさせてやってくれ、と言ったみたい。それに、医師免許があれば、その気になれば再就職も不可能じゃないし」

「ふうん……」


 じゃあ、親に勘当された訳じゃないんだね。自分の意思であのマンションで平凡な暮らしをし、疵物の型落ち中古レクサスに乗ってる訳だ。

 ふうん、ふうん……。


「……何か嬉しそう」

「いや? そんなことは……ないよ?」

「さーて、そろそろ白状してもらおうか。……何かあったでしょ」

「ない。……あ、熱が上がったような……」

「嘘つくな!」

「ほんと、ほんと! もう上がるから!」


 私は恵を振り切り、ザバッと浴槽から上がった。


 その後、しつこく聞かれたらどうしようと思ったけど、意外にも恵は何も言わなかった。

 雑炊を作ってくれて「念のため横になってなよ」とだけ言い残し、アパートから去っていった。


 私は恵にはいつも事後報告だ。言えない、と思うのは、自分の中ではまだ話せるほど整理がついていない……つまり、ちっとも事後にはなっていないからだろう。

 何に引っかかってるのか、自分でもよくわからないんだけど。


   * * *


 そうして再び眠り、目が覚めたのが夜の9時半。

 普段ならアップされるはずの新川センセーブログは、何も上がっていなかった。

 今日は上げて欲しかったなー、ストーカーさん。新川透がどんな様子だったのか気になってたのに。

 まぁ、当の本人が午前中から予備校に来ていたらしいから、ストーカーも盗撮できなかったのかもしれないけど。

 なぜ午前中から来ていたかと言えば、きっと……私を捕獲する為だったんだろうなあ……。


 新川透の金曜日の上がりの時間は、確か夜の9時過ぎ。

 電話がかかってきたらちゃんと出ないと、と、何となくタブレットの前で待ってしまう。

 ――一方的に新川透の過去を知ってしまったことへの、罪悪感だろうか。

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