『恋する洗濯機』
「キレイ、行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
俺はその日、新しく描き始めた漫画『恋する洗濯機』の原稿を抱えて出版社に向かった。
そして今、俺の前で担当者が原稿を読んでいる。
静まりかえった部屋に響く時計の音。
手に汗握る瞬間。
担当者の長田は原稿に見入っている。
一分が何時間にも感じた。
読み始めてから十五分ほどで、長田は原稿を机の上に置いた。
俺と長田の目がバッチリと合って、俺は首をひねり潰されたような心地になる。
「なんというか……はっきり言って……」
彼が突然口を開き、俺は体をビクッと震わせた。
「はい……」
「うーん……」
「最高だよ」
こ、これは幻聴なのか?
「最高だ。これは良い。天才だとしか思えないね。即採用だ」
幻聴なんかではなかった。現実だ。
「あ、ああああ、ああありがとうございます!」
「まさか、君がこんな力を秘めていたとは……来週から連載を始めるぞ。さあ、これからも続きをガンガン描いてくれ。ヒット間違いなしだ」
「本当にありがとうございます!」
俺は帰り道、キレイにこのことを話すのが楽しみでたまらなかった。
玄関を開けてスライディングのごとく洗濯機の前にすべり込み、電源ボタンを押す。
ピンポロリン
「キレイ! やったよ! 採用だ!」
返事は無い。
「キレイ? おーい? 大丈夫? 大丈夫なら返事して……」
一日の終わりを示すように美しい夕陽が窓から差し込んでいた。
「キレイ?」
「……ごめん、ごめん。お帰りなさい」
キレイの声が聞こえてきて俺は胸を撫で下ろす。
「びっくりしたー。キレイがいなくなっちゃったかと思って焦ったよ」
「……」
今日は何だか、沈黙が胸騒ぎを呼ぶ。
「私――」
「脅かさないでくれよ。間が怖いよ」
「あのね、聞いて」
「遮ってごめん」
俺は正しく座り直した。
「なんかね」
「うん」
「終わりが来る気がするの」
頭の中が真っ白になる。
上と下がわからなくなり、体がふらついた。
何が何だかわからない。
今何て?
「私たち、もうそろそろ『さようなら』かも」
どうして。
「なんだか魂が軽くなっているような気がするの」
「そ、それはどういうこと?」
「最近微かに感じ始めたことなんだけど、私、元いたところに戻れる気がするの」
「元いたところ?」
「そう、私は間違ってそこから出てきてしまった魂なの。今なら帰れる気がするわ」
俺は今にも大声で泣き出してしまいそうなのを必死に抑える。
「本当に帰ってしまうのかい?」
やっとのことで出した声は震えていた。
「そうよ、そこにいるのが本来の姿なの……。私が帰れるようになったのは多分あなたのおかげなのよ」
「俺のおかげ?」
「そう、あなたと色々と話して元気が出たし、何だか気持ちも明るくなったわ」
「君にとって、元のところへ帰るのは本当の幸せなのかい?」
「そうy――」
「キレイ? 大丈夫?」
「そろそろお別れの時が来たみたい……。今まで本当にありがとう」
本当に行ってしまうのだろうか。
最初はキレイのことを変だと思っていたけれど、今では俺は彼女を必要としている。
最後だからこの気持ち伝えないと。
「キレイ? まだいる?」
「うん。いるよ」
天使のような優しい声。
「俺、キレイのことが好きだ。ずっと好きだったけど言えなかったんだ」
「私もあなたの事が好きよ」
「君のおかげで立ち直れたし、君のおかげで希望を見ることができた。君は俺にとって光だよ。今、窓から差し込んでいる夕陽よりも美しい光だよ」
「夕陽が見えるのね。私も夕陽、見たかったわ」
「綺麗な夕陽だよ」
窓から見える夕陽は、本当に今まで見た中で一番綺麗な夕陽のように思えた。
「お願いなんだけど……」
「何でも聞くよ」
「漫画の私には夕陽を見せてあげて」
俺は必死に歯を食いしばり、涙でぼやけた視界の中で答える。
「わかった。必ず見せる。約束するよ」
「ありがt――」
俺はキレイにそっと手を添える。
「キレイ、離れるのは寂しい。でも、君が幸せになれるなら俺はそれを止めない。なぜなら君が幸せになること、それが俺にとっての一番の幸せだから」
俺はキレイにそっと口づけをした。
「今、キスしてるよ」
「……素直に言ってくれるなんて、嬉しい」
俺は涙が頬をつたっていくのを感じた。
「時間が来たわ。近くにいることは出来なくなるけど、あなたを想う気持ちは変わらないから。だからあなたも私を忘れないでね」
「絶対に忘れないさ」
「あなたと夕陽が見たかった」
世界から音が消えた。
俺はもう一度洗濯機の電源を入れ直した。
「こんにちは私は洗濯機。今日からあなたの洗濯をさせていただきます」
洗濯機から流れてきたその女性の声は、感情がこもっていなかった。それは俺の耳に声として届かなかった。単なる音だった。
ピロリロリン
俺が電源を落とすと、再び静寂が訪れる。
キレイと出会って七回目の夕陽だった。
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