「全部、間違いだった」

 ラフな打ち合わせということで、私とディレクターの男性は、テレビ局の中のある一室でソファに座っていた。


 肝が冷えるというのは、こういうことを言うのだろう。

 血の気がひいて遠のきそうな意識を必死にこの世に繋ぎとめ、何くわぬ顔をして相槌を打つ自分自身を、どこか他人のように感じていた。


 玲に関するドッキリの企画が持ち上がっていたようだ。

 近づきがたいどこか冷たささえ漂う完璧な美しさに反して、しゃべれば愛嬌もたっぷりあり、頭の回転も早いので、このところ玲はバラエティ番組でも重宝されている。今は表現する世界のほうが楽しいから、という本人の意見を尊重して出演するバラエティ番組も慎重に選んでいるが、それでもドラマの番宣などの関係上、回避できない出演もある。そうした中のひとつで、それは企画されていたという。


「いやね、最初は瀬戸さんにも内緒にしたドッキリを考えていたんですよね。セットや楽屋なんかにも全部カメラ置いておいて、ドラマの他の出演者さんを仕掛け人にして。ほら、マネージャーさんみたいな身近な人も本当に戸惑ってたりしたら、玲さんにもリアリティが増すでしょう。特に瀬戸さんは玲さんからの信頼が厚いと聞いてましたし。視聴者は芸能人の素の顔ってもんが好きですから」

「……ええ」


 自分の顔がこわばっていやしないか不安を覚えたが、こちらの様子をちっとも意にかける様子もなく、目の前のディレクターは楽しげに頷いていた。


「そういう企画を考えてたんですけど、おたくの社長さんに確認をとったら、瀬戸さんに意見を訊いてくれって言われまして。玲さんに関しては瀬戸さんがしっかり面倒見てるんで、瀬戸さん抜きでそういうことは進めないでくれって、社長さん言うんですよね。で、どうですか?」


 ――社長、今ほどあんたに感謝したことはない。押さえるところは押さえるあなたの性分は知っていたけれど、すんでのところで玲を守ってもらえて、命拾いをした。……本当に。


「……そうですね。少し企画書を確認してもよろしいですか?」

「もちろん」


 手元の資料を目で追うが、頭には入ってこない。遮二無二全力疾走した直後のように、心臓は跳ね、脳は酸素が足りていないとその意識を手放そうとする。唯一違うのは、健康的な熱い汗ではなくて、凍てつくような冷や汗が流れていることだ。

 落ち着こう。鼻から細く長く息を吸って、ゆっくりゆっくりと吐く。


「……これって、まだ筋書きの方針だけで、詳細までは決まっていない段階ですよね?」


 紙の上から目線だけ上げてそう問うと、いち早く雲行きの怪しさを察した彼が、


「……そうですけど」


と眉をくもらせて答える。


「申し訳ないんですが、売り出したい玲のイメージ像とは少し違う方向に振れそうなので、今回はご遠慮させてください」

「シナリオ変えてもだめですか?」

「正直なところ、玲は、現段階ではもっとモデル業や演技に集中させたいんです。バラエティの方面で今フォーカスされてしまうのは……少し難しいのかなと。もちろん、他の出演者さんに今後もしドッキリの企画があれば、玲も協力させていただきますので」



 そのあと、なんとか企画について断り、打ち合わせの部屋をふらふらと出て、吐き気にも似た感覚を抑えながら非常階段へ向かった。

 鉄製の重いドアを開けて、外界の空気を吸う。壁にもたれる。真冬の戸外は寒いが、今の自分にはその空気の冷たさが必要だった。日暮れどきの沈みゆく太陽はビル群に阻まれてその姿を見ることは叶わなかったけれど、空を見上げれば一面に広がる雲を残照が橙色に染めていた。


 ――もし、私に内密のまま、楽屋や控え室に隠しカメラを仕掛けられていたら。

 そして、私たちがそうとは知らず、“タレントとそのマネージャーの域”から逸脱した親密さを呈してしまっていたら。


 目眩を感じて、壁に背を預けながらずるずると座り込んだ。



 ここ一週間ほどで、世間を賑わせているスキャンダルがあった。ある人気アイドルグループの女性と、そのマネージャーの男性が付き合っているとの報道だった。恋愛禁止を謳うそのグループに属する彼女の『熱愛報道』に世間は沸き、そして心ない無数の言葉が彼女に浴びせられた。

 そのうち、恋人の男性の素性や経歴も注目の対象となっていった。平凡な容姿に平凡な人生、そしてギャンブルで作った少々の借金、デートで奢るのはいつも年少の彼女。“釣り合わない二人”がどうして付き合うまでに至ったのか、その“謎”を解明すべく報道は過熱してゆき、女性の過去も些末なことに至るまで暴き立てられ、最終的には、こんな男を選んだどうしようもない女、という筋書きで彼女自身の価値までつまらないもののように扱われた。


 熱狂し、まもなく冷酷な手つきで他者の人生を断罪する人々の様子はまるで、小さな生き物を寄ってたかってつつきまわし、虫眼鏡でいびつなを部分を探し出し、やがて解剖を始め、ばらばらに分解した体を好きなように並べて強烈な日の光にさらし、そうして愉悦のままに遊び尽くしたあとはもう歯牙にもかけず、道端に放置するかのごとくであった。


 ――そして昨日、彼女は頭を剃り上げ、カメラの前で『ファン』を“裏切った”こと、『世間』を“騒がせた”ことを謝罪した。

 青褪めてかぼそい声で頭を下げるその姿は、絶句するような痛々しさだった。

 自らの手で丸坊主にした頭にはところどころ長さが不揃いな箇所が残り、以前眩しいステージ上で舞い踊っていた頃のよく手入れされた長い髪を想起させ、いっそう悲惨で、むごたらしかった。

 『世間』の気軽な好奇心、嗜虐心、消費欲、ときには手のひらの中、親指だけでお手軽に綴られる悪意にさらされた彼女が辿り着いたその場所は、あまりに寒々しく、凄惨としたものだった。このうえ絶望するのは、そんな極限状態の彼女を見てなお、その姿を面白がり、揶揄する声があったことだ。


 私たちの世界がたった一人の年若い女性になしている暴力をまざまざと見せつけられて、言いようのないほど暗澹たる気持ちになった。



 こうして報道や誹謗中傷が加熱した背景には、彼女が『アイドル』という特性を持っていたからだろう。

 ……玲は、アイドルではないから。

 だが、平凡な私、マネージャーと付き合っているのは変わらない。そのうえなにより、私たちは同性同士だ。


 熱愛報道から謝罪に至った一連の出来事については一切、玲とは話していない。お互い、触れることを恐れているのだと思う。

 そこへ来て、玲に対するドッキリの企画が進行していたという。ともすれば、それは私のあずかり知らぬところで実行されていた可能性があった。


 仕事の合間を縫って玲と過ごした甘やかな時間の数々が頭をよぎる。それは、楽屋で、メイク部屋で、私の家で、エレベーターの中で、旅先で、控え室で、カラオケルームで、車の中で。私たちは様々な場所で、顔や手を寄せ合って愛を囁き、確かめ合った。

 ――それらが、いかに不用意であったか。私たちは、いかに危うい糸の上で睦み合っていたのか。私が、どれだけ無自覚に彼女の人生を危機にさらしていたか。


 ここ最近は、私たちの間では恋人らしい触れ合いは減っていた。それに、ドッキリの企画は実際には行われなかったのだ。起きなかったことだ。

 だが、私の脳は、その『もしも』を辿ることをやめてくれない。


 もしも、秘密裏に設置されたカメラの前で、彼女が親しげに「ほたか」と私を呼んでいたら。私が彼女の手を握っていたら。彼女の本名を囁いていたら。抱きしめていたら。唇を重ねていたら。もし、それ以上の何かをしていたら。

 たちまちに私たちの関係は他人に知られることとなり、そして、彼女の、玲の人生は。どうなっていただろう。



 体が震えて、止まらない。



==============


「おかえり」


 控え室の扉を開けると、すぐに玲が言葉をかけてくれた。打ち合わせで少しの間席を外す、と彼女には言ってあった。ヘアメイク担当をやめてからは少し時間に余裕ができ、また事務所内での打ち合わせもこの頃は落ち着きを見せ、玲といられる時間は増えつつあった。


「ただいま」


 彼女の顔はまともに見られぬまま返事をして、鞄からノートPCや手帳を取り出していると、


「どうしたの」


すぐ近くで玲の声がして、そして腕にそっと触れられる気配があった。


「っ?」


 振り向いて近距離に玲がいるのを認識した途端、思わずあとずさった。私の様子に目を丸くした彼女が一瞬黙り込み、


「……なんか顔色が悪いから」


とつぶやいた。


 無意識に目がぐるりと室内を眺め回す。

 ――ない、はずだ。ここにカメラは。


「そう、かな。……なんでもないよ」


 ぞわりと悪寒の走った額に手を触れて言うと、


「……そう」


小さく玲が答えた。




 なすべきことをすべき時だった。彼女の人生を壊してしまう前に。




==============



 玲を自宅へ送り届ける頃には、ざあざあと雨が降っていた。

 ぽつぽつと交わされていた会話も、やがて重苦しい雰囲気に停滞しだし、夜更けの暗闇へ沈殿していった。

 沈黙を乗せて走っていた車を、路肩にゆっくりと停める。車の屋根、道路や建物を雨が叩く音と、ひっきりなしにガラスをこするワイパーの音がうるさい。


 ――こんなわかりやすい天気にしないでよ。土砂降りの雨が降るたびに今夜のことを思い出してしまう。

 せめても、ワイパーのぎゅうぎゅう鳴る音だけは、記憶のフックにしたくなかった。ワイパーを止める。


 何もない道路の途中で停車したことに疑問を挟むことなく、玲はまっすぐ前を向いて沈黙を保っている。


「……」


 口にすべき言葉が見つからない。胸がぎりぎりと痛む。小さく細く息を吸い込んで、窒息しそうになっていた肺に空気を送り込む。

 握りしめていたハンドルから手を離して、のろのろとシートベルトを外す。カチッという音が、車内に響いた。

 助手席に体を向ける。前方を見つめたままの玲の横顔は、新雪が降り積もった誰もいない朝みたいに透徹した空気をたたえていて。

 この人はなんて綺麗なんだろうか、と思いながら、口を開いた。


「考えたの。……私たち、このままの関係は続けられない」


 一度言葉を切って、頭を下げる。


「ごめんなさい、私が軽率だった。君の将来も、人生もきちんと考えられていなかった。……別れよう」


 じゃばじゃばと、雨足は勢いを強めている。彼女はゆっくりと振り向き静かに訊く。


「……急に言い出すのには、何か訳があるんでしょ」

「……急じゃない。もうずっと長いこと、私たち無理をしてたでしょう」


 首を振って私がそう言うと、「無理、なんて……」と彼女は一瞬言葉をつまらせて、それから堰を切ったように声を大きくした。


「本当にいつも、いつも……勝手にあなたが全部決めてしまう! ちゃんと話してよ、二人でやっていくって決めたでしょう。頼ってよ……私を信じてよ!」

「私は……君のためを思ってやってるつもりだよ」

「そんなことお願いなんてしてないっ。全部お任せで、私はただの人形なの? 私にだって、考えることはできる、一緒に考えさせてよ。それとも、私はまだ子どもだから、きちんと対応できるのは自分だけだと思ってる?」

「そんなことっ……」


 だって、私はあなたのマネージャーだから。年上だから。君を守りたいから。


 息を吸って、でも言葉にはならなくて、長く息を吐き出した。


「……私たちは、タレントとマネージャーの関係に留まっているべきだった。君の気持ちに気付くべきじゃなかったし、私は自分の気持ちを押し隠すべきだった」


 顔を歪めて彼女が囁く。


「――やめてよ、全部が間違いだったみたいに言わないで」


 間違いでは、なかった。

 彼女と過ごした時間を思い浮かべれば、幸福が胸を満たす。その奔流に、あたたかさに、今は息が詰まりそうだった。


 けれど。じんじんと脈打つ頭が痛い。言うべきことはわかっている。


「……間違い、だったんだよ。こうなるべきじゃなかった」


 私を見て、私の言葉を聞いて、彼女は諦めたように力を抜き、助手席のシートに深く身を沈めた。強まる風と雨の音だけが車内にこだまする。

 やがて、ぽつりと玲は言葉を零した。


「――少し前から、思ってたんだ。私はあなたを不幸にしちゃってるって。あなたからメイクの仕事を奪って、無理させて。たくさん嘘をつかせて」


 フロントガラスに降る雨が街灯の光を受け、玲の顔に映って流れている。


「……不幸になんか、なってない。これは私の選んだ道だから」


 そう答えた私を、彼女はじっと見返してくる。それから、ふっと薄く嗤って、


「残酷な人だよね。嘘をつくなら、最後までつき通してほしかった」

「――え?」

「あなたはさっき間違いだったと言ったけれど、私はそうは思わない。ずっと嬉しくて、幸せで、どこまでも行けそうな時間だった。本物だったよ。……それに、知ってた? あなたって嘘をつくとき、手で額のあたりに触れる癖があるの」


 そうなのか、という驚きと、それならば、さっき「間違いだった」と答えたときも私は額に触れていたんだろう、と頭の片隅で思う。



 間違いではなかったから。君といられてよかった。

 ただ、どうにもできなかっただけ。

 どうしようもなく、幸せだった。



「不幸だ、って嘘をついてくれたほうが、気持ちよくあなたを自由にしてあげられるのに」


 独り言のごとく彼女はつぶやいた。


「…………」


 憑き物が落ちたかのような顔を前に向けたまま、彼女は淡々と言った。


「……わかった。別れる」


 彼女の静かな言葉に、雷に打たれた心地だった。叫び出しそうだった。

 自分から言い出したことなのに、彼女の口から現実に伝えられると、身を引きちぎられるようだった。


「……うん」

「――マネージャーは、続けてくれるの?」


 はっとして彼女の顔を見上げた。

 愚かにも、その可能性を考えてもみなかった。そこの繫がりすら断たれてしまったら。張り裂けそうな思いだった。


「――許されるなら、続けたい」


 懇願する私をちらりと無表情で見てから、


「……うん、続けて」


窓ガラスへ顔を向け、彼女はつぶやいた。


 その響きは、情状酌量の裁定のようでも、無期懲役の宣告のようでもあった。


 雨が激しく流れる窓に映る玲の表情は、見えなかった。


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