湯けむり不機嫌事件(旅の宿_Ⅰ)
――それでも仕事はしていかなくてはならない。二人三脚で。
合コンの開催にプロデューサーが関わっていたことが明るみになった一件以来、恋人としての私たちはぎくしゃくしていたが、それでも、毎日会い、仕事を共に切り抜けなくてはならないのだ。
きちんと話し合うことを経ずとも、私たちは仕事の時間を通じて、プライベートにおいても多少なりの気まずさを飲み込んで話せるようになっていた。
それはいいことかもしれないし、そうではないのかもしれない。
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今回の仕事は、温泉で有名な地方での泊まりがけの撮影だ。スケジュールの都合上、ロケ地近くの旅館に前乗りすることになった。
秋も深まる爽やかで清涼な空気のなか、旅館へ近付くにつれ、玲の心が浮き立っていくのが見てとれる。だからこそ湧く罪悪感から挙動不審にならないよう、注意を払って目的地へ向かう。
門構えも立派で風流な旅館へ到着して丁寧な歓待の言葉を受けてすぐ、玲と私それぞれに仲居さんが一人ずつついた時点で、もの言いたげな、非難がましい視線が玲から一瞬投げられた。
すぐに表情を転じた彼女から愛想よく笑顔を向けられた若い仲居さんは、一応キャップと眼鏡もかけている玲の正体に気付いたようで、一瞬目を丸くした。心苦しい判断ではあったが、やはり間違っていなかった、と心中で呟く。この頃では玲の人気はうなぎのぼりで、特に若い女性たちから強い支持を受けている。今や彼女を知らぬ若い世代はいないのだ。
玲の隣の部屋へ案内されて、仲居さんからのひと通りの説明を聞き終え、荷物をほどこうかという段階で扉をノックする硬い音が響いた。
返事をしながらドアを開けると、案の定、ふくれっ面の玲がいた。
「言いたいこと、わかるよね?」
「……荷ほどきぐらいしなさいな」
「とりあえず入れさせてよ。間取り確認がてら」
「まだそっちの間取りすら把握してないだろうに」
お邪魔しまーす、と言ってずかずかと彼女はこちらの部屋に上がり込んでくる。仕方なく扉を閉めて彼女のあとに続く。玲は荒々しく座椅子に腰を下ろし、不満も露わにこちらを見上げた。
「なんっでわざわざ部屋分けるかなあ」
「遊びじゃなくて仕事で来てるんだもの。ここらへんにある旅館ってここだけだから、撮影クルーも泊まるかもしれないんだよ」
「前に旅館来たときは同じ部屋だったじゃん」
「あれはアクシデントだったでしょ。それに、あのときより君は稼いでるから、落とせる経費も多いんだよ、誇りなよ」
「むだな経費は削減すべきだと思いまーす」
極めて表情を削ぎ落とした顔で、彼女はすっと片手を挙げた。
宿泊の手配は今まで総務課の佐々木さんが行ってくれていたが、ノマド度が過ぎて彼は最近ついに世界一周旅行へと旅立ってしまい、彼の仕事は各マネージャーや小平さんが担っている。その増えた事務作業も、近頃の忙しさの一因でもある。
「もう君ぐらいのタレントなら、ひと部屋を一人で取ったほうが自然なんだよ。……それに、あの頃と今じゃ、私たちの関係も変わったし……気が緩まないようにって考えてのうえなんだよ……。自分の知名度も考えてよ……」
正座をしてほとほと困り果てて言う私に幾分同情するような目を向けてから、彼女は顎を机の上に載せてため息を大きくついた。
「はあ……。ほんっとに楽しみにしてたのに……二人で旅行気分味わえるって」
「楽しみにされてらっしゃるのは伝わってたから、あの……胸は痛んでました……」
「思う存分いちゃつけると思ったのに……ほんっといじわるだよね……」
「苦渋の決断なんだよ、ほんとに……わかってよ……」
顔を天板に載せたまま彼女は目を閉じ、下唇を突き出してしばし黙り、
「わかったわかった! じゃあ、温泉入りに行こ!」
ぱっと表情を明るく切り替えて立ち上がった。けれど、私は正座を崩せないまま彼女を見上げることになる。
「……」
「え、なんで悲しそうな顔してるの」
眉をひそめて訊いてくる彼女に、声を絞り出して答える。
「あの、だめ」
「え、もう何っ、どんだけいじわるしてくれるの!?」
「違う、公衆の場で君の裸見たら、たぶん普通じゃない変な感じ醸し出しちゃうと思うし……なんか、だめ、恥ずかしい。むり、ごめん」
もじもじする私に唖然としていた彼女はたちまち怒りを顔に浮かべて、
「……このへたれっ!」
おしぼりをこちらに投げつけて、ずんずんと部屋を横断して出て行ってしまった。
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温泉から上がってきた浴衣の玲が、当然のように私の部屋を訪ねてくる。長い髪をタオルでしごく彼女を、粛々と出迎えた。
「……おかえりなさいませ」
「ん、いいお湯でした。誰かと一緒だったらもっと楽しめただろうけどね〜」
「いや、たぶん私はどぎまぎしてゆっくりは楽しめなかった」
「ふん、なんと言おうが騙されないし」
つんと応えた彼女をこれ以上和らげることは諦め、窓のそばの席にて雑務の続きをノートPCで黙々と行うことにする。
テレビからは、ローカル色の強いご当地CMの音が流れている。玲は黙ってドラマの台本をぱらぱらと読んだり、旅館のパンフレットを見たりしているようだ。
ご機嫌斜めであることが明らかな声音で彼女が話しかけてくる。
「ねえ、この旅館、客室に露天風呂付きのタイプもあるみたいじゃん」
「へえ」
「ふたり部屋で、露店風呂でいちゃいちゃしたかった……」
「夢みたいなこと言わんでよ……。私だってできることならそうしたいってば……」
「……口ばっかり」
彼女はちゃぶ台に頬をつけ、ふてくされて、こちらを睨んでくる。
風呂上がりでお団子にした頭、濡れたほつれ髪、まだうっすらと上気したままの頬、不機嫌で強い視線、見慣れぬ浴衣姿。
スマートフォン片手に、ふらりと立ち上がって彼女へ近寄る。
なおもむっつりと反抗的な視線――の玲をさっとカメラで撮る。
「……何」
どすの効いた声でこちらの意図を訊いてくる彼女は置いておいて、撮った写真を立ちながら確認する。
手ぶれしているが、その中でもひときわ印象に残る強い目。あまりにも生っぽい、愛憎入り混じる、狂おしいぎらついた目の光。
彼女の隣へ座る。
「見て、めっちゃいい写真撮れた」
スマートフォンの画面を見せると、彼女は不愉快そうに、
「……めちゃくちゃ不機嫌な、鬼みたいな顔してる私なんですけど」
「――私にとっては、めちゃくちゃ愛されてるからこそ憎まれてるんだなって伝わる、ぞくぞくする写真だよ」
黙って再びしげしげと画面を見つめ、玲はぽつりと言う。
「……こんな激しい感情むき出しのプライベートな顔、ネットにはあげられないね」
「うん……私にだけ向けられてる顔だからね」
そう言ってキスしようとしたが、顔をそむけられる。
「ごまかさないでよ」
「……あのねえ」
私も苛立ちを抑えきれずに、
「思いのままに君と組んず解れつしたいわーって強烈な欲望と、仕事の板挟みなんだよこっちは」
ぐいと彼女の顎をこちらに向けさせた。彼女はなおも不機嫌な目。
「めちゃくちゃ色気たっぷりに浴衣着やがって」
「普通に着てるだけだし」
「すみませんね、私はしっかりえろい目で視姦させていただいておりますわ」
「……」
私の正直な物言いにたじろいだらしく、視線を逸らされる。伏せたまつ毛が長くて、色っぽい。
「湯上り美女め」
「――うん、そこは狙った」
「まんまと術中だよ。……いい匂いするし」
にじり寄り、抱きしめて、首筋で香りを嗅ぐ。く、と息を呑む音とわずかな震え。
「……やだってば」
「……」
ゆるゆると押し戻してくる腕と拒絶の言葉に思わずうろたえて、そろりと体を離した。
いささか強引だったようだ。空気を読み間違えた。言葉にならない焦燥と落胆で胸が軋む。
「……ごめん」
気まずくなって謝罪を伝えた。すると彼女は首を落としてぼそぼそと、
「なんで……こういうときだけ素直に言うこと聞くかなあ……」
「え……?」
意味がわからず聞き返すが、彼女はぱったりと後ろに倒れ込んでしまう。
「…………」
「嫌なら……無理にはできない……と思った、んだけど……」
沈黙が続く。が、
「…………あなたにされて、嫌なわけないじゃんか……」
もにゃもにゃと小さく、かき消えそうな声がかろうじて届いた。
鼓膜を震わせたその声が、目元を腕で覆いながら言うその姿が、その全てがどうしようもなく私の心臓を跳ねさせる。
無防備に立てられていた浴衣の脚をこちらの膝で割って、彼女により深く近づいた。
「君は……ほんとに……」
横たわる彼女へ覆いかぶさり、惚けて言うしかない。
「君はほんとに、私の性欲スイッチ……」
私が上の空でそうつぶやけば、顔を隠していた腕をのろのろとどけて、彼女はむっとして言う。
「もっと他の言い方ないわけ……」
好き、と簡潔に述べて、柔らかで熱い唇を感じることに専念した。
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