男とすなる結婚といふものを、女としてみむとてするなら(合コンへ行こう!_Ⅱ)

 洗面所までの床がふわふわしている。それはもちろん床が柔らかい素材で出来ているからなどではなく、私自身の感覚の問題である。視界の端のほうがうすぼんやりしているようだが、これは店の照明の暗さによるものかもしれない。あるいはやはり、泥酔しかけているか。

 トイレへと続く廊下で、見知った人影が俯けた顔にスマートフォンの白い光を浴びながら立っている。プロデューサー氏はこちらに気付くと快活な笑顔を浮かべた。


「瀬戸ちゃーん、楽しんでる? てか相当飲んでるよな」

「さすが食通の加藤さん、お酒全部美味しいです。ごちでーす」


 こちらの敬礼ポーズに合わせて彼も片手を掲げる。


「で、どう? いい人いた?」

「ていうか、あの、権田さんでしたっけ。完全に左手の薬指に指輪の跡ついて日焼けしてるマンじゃないっすか」

「あーバレてた?」


 悪びれた様子もなく、プロデューサー氏はにこにこしている。


「たぶん女子チーム全員気付いてますから。勘弁してくださいよ」

「ははは。でも離婚手続き中だから」

「いやいや、諸々きちんと終わらせてから参加させてください」

「他は? 小川くんなんかイケメンじゃない?」

「あー……今日はわたくし、お酒を飲みに来ました。すごく満足してます」


 再び敬礼したが、今回は同調することなく彼は呆れたように言う。


「……瀬戸ちゃんさあ、そんなんじゃほんとに婚期逃しちゃうよ」


 ――うるせえ。私が結婚したいのはな。結婚したいのは。


「婚期より今まさにトイレの行きどき逃してて、膀胱が爆発しそうです」

「あ、そんなに?」

「早く私を解放してくれないと、先に私の膀胱がここで解放されちゃいます。すっげー面倒くさいことになりますよ」

「やだなあ。早く行ってきて」

「はい、行ってきます」


 トイレの個室へ入ってすぐ、なんだかよくわからない涙が目に浮かびそうになった。扉へ体を預けてそれに耐える。


 私はお酒のために来た。それでいい。

 でもこんなところにいたくなんてない。好きな人と一緒にいたい。ずっと。一緒に。なんで。それが。なんでよ。ちくしょう。なんで。

 私の好きな人は。


 ぐるぐると奔流のように思考が飛ぶ。


「…………」


 ――大丈夫、何の問題もない。全部酒のせい。ちょっとした感情が大袈裟に増幅してるだけ。酒は美味いし、あと数時間もすれば帰れる。大丈夫、別にたいしたことじゃない。大丈夫。



 何にぶつけたらよいかわからないぐちゃぐちゃとした悲しみと寂しさと怒りを、かき消すようにして酒を飲み、塗りつぶすようにして笑った。

 そうこうするうちに一次会は終わり、次の店へという段階で、どうにか抜け出して駅へ向かった。



「任務完了だよ。もうすぐ駅です。慧ちゃん早く来て」


 心配だから、と玲が車で迎えに来てくれることになっていた。

 電話の先の彼女の声がひどく懐かしい。早く会いたい。


 見慣れた愛車、そしてその中に彼女の姿を認めた瞬間、安心感から酔いが一気に回った。飛びつくようにしてドアを開け、車内へ転がり込む。


「うーあーー玲、玲ちゃんだあ。やっと会えたあ」

「わ、めっちゃ酔っ払ってる」


 嫌そうな顔をした彼女が可愛くてたまらない。抱きつく。


「玲ちゃーーん、可愛いねえ。ありがとねえ。来てくれてねえ。ほんと天使。女神。可愛い。ほんと大好きー」


 やわらかい。いいにおい。頭をなでてくれる。うれしい。


「……はい、いいから早くシートベルトして」

「うん。ん……ん」


 べるとの先が銀のところにはまらない。つめたくてしろい指がかちゃってしてくれる。好き。


「眠ってていいよ」

「ほんとに?」

「ほんとに。おやすみ」


 ………

 ……

 …



==============


 強烈な喉の乾きに目を覚ますと、自分の部屋のベッドの上だった。どうやって家へ帰り着いたのか記憶ははっきりとしないが、腫れぼったい目を開けた先に映るのは見知らぬ天井などではなく、


「知ってる天井だ」


つぶやいた自分の声はがさついている。

 いつも玲が眠る側へ重い頭を向ければ、彼女は穏やかな顔で寝息を立てていた。思わず手を伸ばしたくなったが、起こしてはならないと自制した。

 枕元のデジタル時計は深夜を表している。そばにはコップとデカンタに満たされた水があった。玲が用意してくれたのだろう。寝台を揺らさぬよう慎重に身を起こし、ベッドへ腰掛けて水を飲む。美味しい。ごくごくと喉を鳴らして飲み干す。頭が鈍く痛む。

 寝返りをうつ音がして、


「ほたか」


と愛しい声が自分を呼ぶ。振り向くと、横向きになった玲がこちらを見上げていた。


「ごっくんごっくん水飲む音がうるさかった? ごめん、そしてありがと慧ちゃん」


 水の心遣いも、記憶のない間の色々も込めて礼を言う。


「ううん。かなり酔ってたけど、大丈夫?」

「頭ちょっと痛いくらい。車で迎えに来てくれたのは覚えてるけど、そっから全然覚えてない。私歩けてた?」

「一応自分で歩いてたけど。大変だったんだから」


 腕を頭と枕の間へ差し入れながら、彼女は口を尖らせて言った。


「そいつぁどうも、ほんとにお世話になりまして」

「ていうか、私の家のほうが近いからと思ってうちに連れて行こうとしたら、頑なに『絶対嫌だ! 降りない!』って言うんだもん。あれだけ酔っ払ってて、本当にうちに来ようとしないの、本能レベルで。まじでなんなの」


 それにしては、非難がどこか生ぬるい。私が玲の家へ行こうとしない点に関しては、彼女は並々ならぬ不満を抱えているというのにだ。それどころか、何かしら機嫌のよささえ感じる。


 私が不思議そうにしていたからか、玲は少し声を抑えて訊いてくる。


「……本当に何も覚えてないの?」

「……うーん」


 立てた膝に顔を埋めて、記憶をさらう。



 ――「結婚したいよ」と答えた自分の口の動きと声がふっと蘇る。

 あれ。なんだっけ。そんなことあったっけ?

 合コンの場で言ったんじゃ……ない。

 もっと違う場所、違う時間。

 安全な場所で、やっと横になって眠れるや、と思った直後、眠りに入る直前。ベッドだ、ふかふかのベッドの上で言ってた。てことは玲に言ってる。えっなんで。待って。どうしてそんなこと言ったんだ。なんだなんだ。


 ざあざあと解像度の粗い記憶の濁流から、細くて淡い糸口をつたう。


 ……まずい。


 「やっぱりさ」と恐る恐る言う玲の声が脳裏に響く。

 そうだ、彼女は訊いてきた。


「ほたかは、結婚願望あるの」


と。私はそれに対して――


「結婚したいよ。玲と。私が結婚したいのは玲だけ」


と、そう答えていた。



 抑制するタガも外れて、ありのままの、私の欲望を伝えてしまっていたのだ。

 息を飲む。


 それは、いけない。これはルール違反だ。


 だから、顔を埋めたまま、隣の彼女へ静かに伝える。


「……酔って言ったことは、真面目に受け取らなくていいから」

「……それって、どういう……」


 硬くなった彼女の声に対し、なるべく、素っ気なく平坦に答える。


「――そのままの意味だよ。酔っ払いの言葉なんて、本気にしないで」


 自分の言葉に喉を塞がれるようだ。息苦しくて、顔を上げられない。

 沈黙が少しの間降りて、それからゆっくりと身動ぐ音がした。


「――こっち見てよ」

「……」


 有無を言わせぬ調子にのろのろと顔を向ければ、ベッドの上へ起き上がった彼女がまっすぐにこちらを見ている。


「思い出したの?」

「……とにかく、気にしなくていいから」


 質問には答えず、同じことを繰り返す。できる限り平静に言ったつもりだったのに、声には悲痛な懇願がにじんでしまった。


「……別に、いいじゃん。嬉しかったもん」


 眉根を寄せて、声も低く彼女が言った。


 それが、よくないのだ。

 叶わない虚構をちらつかせて、いっとき彼女を喜ばせたとして、それが何になるのか。悪影響しか与えない。



 黙り込んだ私へ苛立ちを隠さず彼女は語気を荒げた。


「なんで、信じてくれないの」

「何を」

「私があなたを好きだってこと、愛してるってこと」

「……わかってるよ」


 低く答えた私に、玲は鋭く言葉を投げた。


「わかってないっ! いつも私を遠ざけようとする!」

「……」


 遠ざける、だなんて。

 実際に、遠いのだ。

 私と君とでは、一緒には超えられない壁がある。

 そんな壁がないふりをして、できないことをしたいと言って、幻を見せて、その幻想で、未来ある君をここに縛り付けるべきではない。


「……遠ざけるとか、そんなんじゃ、ない」

「じゃあ、なんでよ。なんでなかったことにしたいの」

「……ごめん、シャワー浴びてくる」


 待ってよ、という彼女の声も振り切って、暗い部屋を出て行く。




==============



 シャワーを浴びて部屋に戻ると、彼女は背を向けて横たわっていて、朝になっても必要最低限の事務的な会話以外はお互いに言葉もなく、だが当然今日も仕事はある。


 重苦しい空気のなか、テレビ局へと到着する。


 狭い廊下の先、曲がり角から出てきた人を見て、思わず顔をしかめたくなった。


 一番会いたくないタイミングで会いたくない人に偶然会ってしまう現象に名称はあるのだろうか。

 思考が現実から逃避しかけるのを抑え、隣の玲の背に触れて小さく伝える。


「今度のドラマのプロデューサー、加藤さん」


 彼女はかすかに頷くと、歩調を早くして彼へ近付き、挨拶をした。

 プロデューサー氏もにこやかに言葉を交わしている。昨夜は彼も結構な量の飲酒をしていたはずだが、まるでそれを感じさせない。はあ、こちらはいまだに頭がどんよりとしているのに。その上、おそらくここから数秒のやりとりが私の死線を決めるだろう。気が重い。


 玲と簡単なやりとりを終えた彼が当然のごとくこちらへ注意を向けたので、マネージャーとして、玲に続いて「よろしくお願いします」と頭を下げる。

 頼む、いらんこと言わんでくれ。


「瀬戸ちゃん昨日はどうしたんだよーいつの間にか帰っちゃっててさあ! 小川くんが連絡先聞きたかったのに、って」


 だめだ。全然だめ。いらんことしか言わん。


「……あーちょっと気持ち悪くて、先に失礼しました。ごめんなさい、直接お礼が言えてなくて」

「飲み過ぎだよ瀬戸ちゃーん」

「ほんとですよねー気をつけます」

「ま、気持ちいい飲みっぷりだから楽しいんだけどね。瀬戸ちゃんの連絡先、小川くんに教えちゃっていい?」


 人の良さそうな笑顔で、するりと迷惑極まりないことを提案してくるので、


「あ、じゃあ逆に小川さんの連絡先もらっていいですか」


すかさず代替案を差し出すが、


「あーあー、そう言って永遠に連絡しないやつ」

「時間ある時に連絡しますよ」

「時間がある時なんて永遠にないやつ」

「穏便にコトを済ませようとしてるんだから大人として協力してくださいよ」

「はいはい。仲人役に失敗する、大人としての俺。小川くんごめんね、望み薄だわこれは」


 永遠に使用しない連絡先を、形式だけプロデューサー氏からもらう。


「瀬戸ちゃんと小川くん、いいと思うんだけどなー」

「貴重なご意見ありがとうございました」




 彼と別れて目的地の楽屋へ向かうが、隣の玲はこちらに一瞥もくれないし、私も何も言葉をかけられない。


「……」

「……」


 足は鉛のように重いが、もちろんやがて楽屋へ辿り着いてしまう。

 部屋に入るなり、扉を背に玲が両腕を組み、私を見下ろす。


「……小川くんと、いい感じだったわけ?」

「……誰ともいい感じになんてなってないよ。オガワの顔すら覚えてないよ」


 そんなことはどうでもいいとでも言うように玲は頭を振り、まっすぐ訊いてきた。


「私の仕事のために合コンへ行ったの?」


 一番、突かれたくないところだった。だが彼女は見逃してくれない。彼女のそういう動物的な勘が冴え渡っているところも私は好きなのだけれど、今だけは、鈍感でいてほしかった。


「……そういう、わけじゃない」

「たまたまだって?」


 ああ、もう。頭がガンガンと痛む。


「彼とは昔からの知り合いだから、人数合わせに付き合っただけだよ」


 痛む額に手を当てた私を見て、彼女は一瞬悲しげに口を結び、


「あなたに……あなたにそんなことさせて仕事をもらえたって、私は嬉しくないっ……そんな仕事、したくない!」

「――声抑えて」


 個室だろうが、声を張り上げれば外に漏れ聞こえかねない。たしなめた私に厳しい視線を返して彼女は大きく息をつき、それから、静かに口を開く。


「私に、消費されるなって言ってくれたでしょう。ちゃんと、自分のことも大事にしてよ、消費しないでよ」

「私は……別に、消費してるつもりはない」


 息を押し殺すようにして答えた私の言葉に、彼女はさっと表情を険しくして言う。


「さんざん私から嫌味言われて、それでも私の仕事を取るために不本意な会に参加して、記憶もろくに残らないような酔い方して、調子よく、思ってもないこと言ってみせて。――それで、消費してないって?」

「ッ……」


 思ってもないこと、ではない。

 彼女が言っているそれは、私の「結婚したい」という発言のことだと思う。


 咄嗟に色をなして反駁しかけて、だがありのまま言うわけにもいかず、結局黙った私を見た彼女が苦しげに言う。


「何、ちゃんと言ってよ。……本当のこと、教えてよ」



 叶わないことを口にできるのは、無邪気な子どもか、向こう見ずな野心家か、夢を現実にできる力を持つ者だけだ。私はそのいずれでもない。


 私は彼女の恋人であり、マネージャーだ。無力で、臆病者の。


「……」


 全部を言うことは、できない。

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