寒雲、霖雨、初虹
砂糖水煮詰まって
撮影の打ち上げで酒を飲んだが、業界の大物たちの中で気を張っていたのか、解散した途端に玲の足取りは覚束なくなり、一人で帰すことも、翌朝に時間通り起きることすら少し心許ないほど珍しく酔っていたため、こちらの自宅へ一緒にタクシーで帰ってきた。
適切な会話もままならない玲の肩を支えて彼女をどうにか家へ運び入れ、化粧落としと歯磨きを手伝い、風呂へ入れる気力まではないので、髪の毛が肌へ触れないようお団子に結んだ状態で、一旦ソファへ彼女を転がしておいた。
夏の盛り、一日ぶりに帰った自宅には熱気がむっと篭っている。息を吸うたびに喉が焼けるようだ。帰宅時間に合わせてエアコンを作動しておかなかった自分を恨めしく思いながら、リモコンを操作して最大出力で風を送らせた。
人一人を支え続けた運動により上がった体温を下げようと、襟元をぱたぱたと引っ張りつつ、玲を見る。酒と暑さに上気した額へ前髪が数本張り付いていた。
汗をかいて不快かな、と考え、冷たい水に浸してしぼったタオルで腕や首筋を拭いてやっていたら、彼女はうっすらと目を開けて、
「……ん、気持ちい……」
そして、無意識なのか、こちらの首に腕を回して引き寄せようとしてきた。
「おおっと、それ以上気持ちいいことは酔っ払いとはしないよ。おとなしく寝てなさい」
腕を突っぱねて拒否すれば、彼女は少し悲しそうな表情を浮かべてむにゃむにゃ何やら言い、それからまた、すう、と眠る。
少しやっておきたい残務があったので、照明を暗くした部屋でノートPCのキーボードをしばらく叩いていた。すると、呂律の危うい玲の声がかかった。
「――また仕事してる」
ソファへ横になったまま、彼女は紅潮した顔だけこちらに向けている。
「起きた? そこのお水飲んでおいて」
こちらの指差した先へ大儀そうに首を巡らせたものの、玲はまた目を閉じたので、仕方なく立ち上がることにした。
「おーい慧ちゃん、ちゃんとお水飲んで体内のアルコールを希釈してくださいよー」
ぽんぽん、と肩を叩いてから、背中にぐっと手を当てて無理やり体を垂直に起こす。そして口元へコップを持っていき、
「はーい、ごくごくしましょうねー」
少しずつ傾ければ、彼女は素直に嚥下してくれる。
「よくできましたー」
褒められた彼女はふすん、と鼻を鳴らして、得意げな顔をしている。とても可愛いのでその頭をひと撫でする。猫のように目を細めて嬉しそうにするので、また可愛くてもうふた撫でする。しなだれかかってきた玲にはっとして我に返り、
「はい、よい子はベッドできちんと眠りましょー」
と、脇に手を差し入れて立ち上がらせる。
「……」
軽く腰に手を添えて誘導してやると、彼女は幽霊のようにふらりと何歩か歩いたものの、ダイビングテーブルの横に来るとだらりと方向転換をして、椅子に座ってしまう。さっきまで私がノートPCを使っていた場所だ。広げたままのPCをす、と押し出し、机に突っ伏して再度眠りの体勢をとった。
「うおおーい、ベッドまであと少しですってば。頑張ってくださいよー」
根気強く肩を叩いて、お客さん終電ですよごっこをしてみたけれど、玲に動く気配はない。ため息をつき、ブランケットを彼女の肩にかけてやる。PCを引き寄せ、隣で作業を再開することにする。
玲の穏やかな寝息をBGMにしばし仕事を片付けていたが、やがて深呼吸がひとつあり、のそりと体を起こす気配がする。
「お客さん、あったかいお布団行きの下り列車、ずっと発車待ってます」
く、と息を漏らしながら、玲が伸びをする。そしてまた机に突っ伏すが、今度は顔だけを横のこちらに向けている。いまだ酔いを引きずったとろんとした目ではあるものの、先ほどまでよりだいぶ意識がはっきりしているのがわかる。
「なんであなたは酔ってないの」
少し鼻にかかった声ながらも、明瞭なしゃべり方になっていたので安心する。
「私まで酔っ払っちゃったら、何かあってもちゃんと君のこと守れないもの」
「……昔は一緒に酔っ払ったのに」
彼女がぽつりと言うものだから、自然と口の端が上がる。確かにそれも楽しかったが、その頃とは違う感情を抱いているからこそ、それをもって自分を律することができていることに私は誇りを持っている。
「今はもっと個人的に君のことを守りたいって思ってるからね」
「……つまんないけど嬉しいけどつまんない」
表情を曇らせて、拗ねたように言う。幼い駄々っ子みたいで笑ってしまう。額の上へ数本落ちてきていた彼女の髪の毛を耳にかけてやる。
されるがままに、目を閉じてそれを受け入れていた玲が目を開くと、その表情が一変していた。熱のこもった目でじっとこちらを見上げる視線に、一瞬で引き込まれそうになる。
――違う違う、今夜は早くこの子を眠らせて、万全な状態で明日を迎えねばならない。
金縛りに合う前に椅子を引いて立ち上がろうとしたこちらの手を、玲の熱い手が包んだ。敏捷な獣に捕らえられた感覚に襲われる。
「……早く寝ないと」
笑えるほど威厳のない弱々しい声でどうにか抵抗を示す。だが、玲は答えず、座るこちらの膝の上へ乗ってくる。きしむ椅子の音。両肩に置かれた彼女の腕。濡れた目。
「ね、今日撮影で使った真っ赤なリップ、あれ塗って」
幼子みたい、とさっきまで微笑ましく見ていたのに、今はもうその声は艶っぽく、貫禄たっぷりで、とても抗えない。女王様の命令に唯々諾々と従い、振り返って化粧道具の位置を確認する。
「道具一式、後ろなんだけど。これじゃ取れない」
こちらの身体の自由を制限してくださっている玲は、無言で膝の上に乗ったまま、私の背後にある鞄へ上半身を伸ばす。私は椅子の背と玲の身体に挟まれて、彼女の柔らかさを全身で堪能することとなる。
ちくしょう玲め。策謀家め。
彼女の香りと酔って高い体温、感触に包まれて、すぐに再び離れた身体の間に鞄が置かれた。抗しがたい魅惑のボディを持つ美しい人を、非難の意を込めて睨むと、彼女は小首を傾げて婉然と唇を緩めた。
「どれ?」
ご所望のリップを探し出して目の前に掲げる。彼女が身体をひねってテーブルに鞄を置くので、ずりあがったタイトスカートから覗く白い太ももが目に入った。吸い寄せられていた視線を玲の顔へ戻すと、こちらの視線の行方を全て見ていたらしい彼女がにっこりと笑いかけてきた。
ちくしょう、あざとい、かわいい。
そしてリップを持ったこちらの手を両手で包んで持ち上げて、「塗ってください」と言う。酔った人の両手は熱い。
マットで深い緋色をしっかり唇にのせていく。
わずかに開いた唇から漏れる呼吸。普段より荒い呼吸に上下する胸。痛いほど見つめてくる潤んだ目。我慢ならないというように、ゆっくりとかすかに揺れる腰。
一度ティッシュオフさせてもう一度塗り重ねるために、手が届きそうだった机の上のティッシュへ腕を伸ばした。
が、玲の手に止められて、代わりに口が重なる。唇を離した彼女が、こちらの髪を耳にかきあげて、頬に触れてきた。そして、首を傾げて笑う。
「あなたの唇も赤くなった」
ぞくりと、言いようのない恍惚感が全身を走った。だからせめてもの意趣返しをする。
「……慧さん、すごく酒臭いです」
だが、彼女は気にすることもなく、再び体をぴたりと寄せてきて、私の口中はより深く、アルコールに支配された。
しばらくして離れた玲が懇願するように言う。
「私で酔っ払ってよ」
お願いされるまでもないことなので笑ってしまう。
「もうずっと酔わされてるのに」
今度は自分から彼女に身を寄せる。んっ、と嬉しげに、切なげに漏れる玲の吐息に、早く寝かしつけねば、という意思など簡単に吹き飛ぶ。
結局、まったく自分を律することなんてできていない。マネージメントできないマネージャーであった。
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