猿2『Call Me by **My** Name』(『恋する猿の惑星_Ⅱ』)
なかなか鎮まらなかった火照りもようやく引いた。
ベッドのなかで向き合った玲の髪を撫で、交歓の充足感にその美しい瞳と無言でしばし浸っていると、やがて彼女の目がきらきらと活気を帯びていく。そして、まるで内緒話を打ち明けるかのような昂揚感を醸しつつ口を開く。
「提案が、あるんですけど」
「……今、玲はろくでもないことを言い出すときの顔をしています」
「え、そう? なにそれ、どんな?」と彼女は自身の頬に触れて不思議そうな表情へ転じた。
「しょうもないことを思いついて実行せずにはいられない小学生みたいな」
「しょうもなくないよ。だいじ、ちょ〜〜だいじ」
彼女は真面目くさった顔つきで、しまりのない台詞を口にする。
掛け布団から出た白い肩が眩しくて寒そうなので、布団を引き上げてかけてやる。
「出来るなら聞かないほうが私の身のためな気がするけど、まあ、どうしたって聞かせられるんだろうし、はよう言ってみんさい」
頷く玲の顔はなぜかわずかに強張っていて、こちらも改まって正座する気持ちになる。実際には横たわっているので気持ちだけなんだけれど。
「あなたは私のこと、いつも"玲"とか"君"って呼んでくれるよね」
「うん」
「私はすごく、その呼んでくれる声が好き。愛されてるなあって感じる」
「うん、愛しています」
正直に伝えたところ、彼女は布団を掴んで鼻の上まで引き上げてしまう。そこだけ見えるようになった目がだらしなく弧を描いている。
「……愛情がまっすぐすぎて、もだえる」
「もだえられると可愛くてまたむらむらしてきちゃうんですけど」
布団のなかのくびれた腰に手をかけ、ぐっと近付けるが、玲は慌てて腕を突っ張り距離をとる。
「提案が先っ」
はいはい、と腕を布団から引き出して、両手を無罪主張のポーズ。その左手を彼女の右手が掴んで繋いできたので微笑んでしまう。
「でね、呼ばれるのはすごーく好きなんですけど。一方で、玲という名前は、ありがたいことに世間一般のみなさまにも知られるようになってきて、こう、みなさまにも玲、玲と、普通に呼ばれるようにもなってきました」
「君が頑張った結果だね」
繋いだままの手を彼女の頭にやって撫でる。へへ、とくすぐったそうに笑う玲は私と手を繋いだままであるため、見ようによっては自分で自分の頭を撫でてにやついているようでもあり、滑稽だが可愛い。
「私だけじゃなくてあなたと二人で、の結果だけどね。ユーアンドミー、おーけー?」
へらへらしていてもここの部分は外さないところが玲だと思う。
「おーけーおけー」
今度は彼女の手に導かれて私が私の頭を撫でることになったので、笑ってしまう。どうしても私たちはすぐいちゃついてしまう。
「私たち、すぐいちゃいちゃしちゃうね」
「私も今それを思っていましたよ。お話の続きをどうぞ」
「はい。でね、世の中のみなさんに"玲"と呼ばれる、その『玲』はあくまでも、みんなの玲、みたいな。パブリックイメージの玲を指す名称なわけでありまして。そして、今ここであなたといる私は、そのパブリックな玲から離れた、いち個人であるところの、むきだしな私なのですよ。ありのままのレリゴーな。つまり……オンとオフでモードを変えたいわけなんです」
「ふむ」
「ところで……私にも本名っていうものが当然ながらあるんですよ。私の本名はご存知ですか?」
「当たり前じゃん。お宅訪問のときにもしっかり把握してたじゃん」
「……」
玲の真摯な眼差しが私の言葉の続きを待っている。私の頭は記憶の底をさらってすさまじいスピードで回転している。
「…………けい。智慧の慧の……
「合ってるけど、小声だし顔めっちゃこわばってたよ」
若干非難めいた視線を向けて、すかさず玲が指摘してきた。
「女優の卵すら騙す、すばらしい演技じゃん、見習いたまえ」
彼女は目を細めるがそれ以上は追及してこない。そして表情を改めると、簡潔に訊いてくる。
「で、どうでしょう」
「――オフのときには本名で呼べ、と」
「強制ではなくて。……呼んでくれたら、私は嬉しいのですが、いかがでしょう、という提案です」
彼女は茶化す気配も見せず、あくまで真剣な顔だ。少し、緊張すらしている。
……彼女を喜ばせることはできる限り叶えてやりたいと常々考えてはいるが、すぐには了承の意を伝えられない。躊躇する気持ちがある。
言葉を選びながらそれを伝える。
「ええっとね、伝え方が難しいんだけど……。それに、君はもしかしたら、……冷たくっていうか、不快に感じるかもしれない」
「ここぞというときの、あなたの意外と突き放すところには慣れてるつもりだけど、何」
やや緊張を増した表情で、玲は先を促す。
ありのまま伝えていいものだろうか迷う。もしかすると、彼女を傷つけるかもしれない。けれど、実際そうであることは確かだし、私の前でレリゴーな玲でいてくれるのであれば、私もレリゴーな私をレリゴーするべきなんだろう。
「私が君と出会ったときから君は『玲』であって、それはさっき君が言ったように、世間に対して提示している『モデルの玲』っていうかたちで君を認識してきたのね。
もちろん、仕事を離れて今こうして二人でいるときの飾らない君の姿も知って、全部込みで私は人間としての君を好きなんだけど。大好きなんだけど。
……でも、私は玲の最初期から玲を知ってる、ずっと『玲』のファンみたいなもんだったし、今でもファンみたいな気持ちがある。どう表現するのが適切かわからないんだけど……」
ここまでの話を、彼女はどう感じただろう。玲の感情をその目の中に見ようとするが、ただこちらを無色透明に見つめ返してくる彼女からは何も読み取れない。だから、偽らざる気持ちを伝える。
「正直……いまだに君のことを、ある種の手の届かない偶像っていうか、虚構みたいに感じてるところがある。今もまだ、こうしてることが、本当には信じられていないところがあるの」
繋がった手を持ち上げて見つめてみるが、やはりどこかでそれが嘘なんじゃないかと感じる自分がいた。
目の前に横たわる人を改めてとくと眺めれば、ため息が自然とこぼれそうになる。
自分が知る限りの言葉では彼女のその美貌は描写しきれない。辞書を一枚一枚繰って、"善なるもの"を指し示す単語をいくら並べ立てたって、眼前にあるこの美しさの真髄を全て表しきれるとは思わない。
いや、"善"に属するものだけではなく、"負"の言葉も欠かせない。
彼女の前に立てば、その目に見つめ返されれば、鋭く恐怖をかき立てられ、何ら献上物を持たない不安を、せめても一張羅で着飾らずに相対している恥を、彼女の貴重な時間の一瞬ですら浪費することの焦燥を感じる。
様々な種類の語彙を総動員して、しかしやはりどうしてもその存在の全容には追いつけない。
また、刻々と変化する彼女の表情を、仕草を、声音を、その対象に入れようとすれば、世界中の人類の叡智をかき集めようが、あらゆる言語で書かれた古書から現代に至るまでの本を血眼で探そうが、どうあがこうとそれをぴったり修辞できうる表現などないはずだ。
そそのかされるまでもなく、彼女の興味がそれへ向けられたなら、禁じられた果実へ手を伸ばすのに一瞬の躊躇も必要としない。花々がかぐわしく咲き乱れ、小鳥たちがよろこびを歌い合う天上の楽園も自ら進んで出て行って、暗く陰鬱で惨めな地の底で生きることも甘んじて受け容れる。
どんな世界最先端のコンピューターをもってしても、彼女が体現する絶妙な美の調和の数式を解き明かすことはできない。それを再現しようとすれば演算処理は追いつかず、国ひとつの電力の全部を投入しても足りなくて、街の灯りがみな消えてくっきりと見えるようになった幾万の星空に見とれた人々が、ふと、地上の彼女に目を転じれば、暗い地べたにあってなお何より輝かしいその彼女のきらめきに驚嘆の念を禁じえないだろう。
――そして最後には、こんな誇大妄想を連ねる自分こそが狂人で、その礼賛する対象なんて本当には存在しないのではないか、と己自身にも疑念が湧いてしまうのだ。
深く息を吸って吐く。
「私には、君の存在が信じがたいんだよ。人間界に実在しているだけでも不可解ってレベルで。天使が落っこちてきたのかな? って初め思ったくらいだし。
だけど、ヘアメイクの仕事の相手としてなら冷静に観察できる。"美しさ"を対象とするお仕事だもん、人外の美しさ、どんとこいだよ。美を司る女神様を相手取ってさらに美しくしてみせるなんて、血がたぎるじゃん、美の定義、更新してやろうじゃん」
私が勇ましく言うと、彼女は少し口の端を緩めた。ほら、そんな風にちょっと微笑みの気配を見せただけで、私の心は震えてしまう。
「……ブラシやビューラーっていう武器を持ってなら君に立ち向かえるし、いちファンとして『玲ちゃんLOVE』って団扇作って全力で応援するのは平気なんだけど、でもね。個人として、何にも持たずに無手で差し向かうと、やっぱり時々、なんだか怖いような気持ちがするよ。なんでこの女神様と私は二人きりなんだろう? なんで触れるのを許してもらえてるんだろう? こんなの私、いつか罰を受けるに決まってるって。
――そこをね、さらに本名で呼ぶってなると……なんだか、畏れ多い、みたいな……。生身の君に触れるみたいで、恐ろしいような感情が湧くの。……わかる?」
本人を目の前にして、偶像だの虚構だのと抜かして失礼極まりないし、さんざん身体的な接触を重ねている今もって生身だなんだって気色が悪いし、改めて自分はサイコパスじみている。
玲は苦笑を漏らす。
「うん、あなたがそんな風に感じてること、なんとなく伝わってた。でも、だからこそ、の提案なの。私を遠ざけないでほしい、違う場所に置かないで、って。その、一線を引かれたような場所からあなたの内側か、あるいは私の内側にあなたに入ってほしいからこそっていう。……その線を切り崩す、戦略的提案だったんだけど」
玲はそんなことまで感じ取っていたのか。
驚いて無言のままの私に、玲は初めて不安げな、悲しみのにじむ目をして、繋いだままの手を彼女の頬に触れさせる。
「もし、今まで通りがいいならそれでいい。怖いなら、無理しなくていい。でも……。やっぱり、『みんなの玲』じゃないと、嫌……?」
玲を遠ざけたい意識なんてあるはずもなく、ただ、その美しさに心酔した信徒がその女神様を同じ高さから見つめるには、その存在が眩しすぎて、自己防衛心が自然と働いてしまうのだ。
だが、それで女神様が寂しい思いをするぐらいなら、喜んでその聖域まで駆けのぼりその手を取って一緒に踊りたいと思う。
玲の頬に導かれた手を、今度は自分の意志で、彼女の体温を感じ取ろうと動かす。
「まさか。これは私の、単なる……勇気、の問題だから」
目尻を下げて彼女が笑う。
「では、そこを一歩。ささ、ずいっと」
頬に触れている手を力強く握り、全身で近寄ってくる。目を上向けて、改めて玲の本名を漢字で思い浮かべた。
「……慧? ……慧、けい、けい。けい……」
口に出して、その感触を確かめ、落ち着ける。
玲もとい慧さんの顔を見つめながら、その名を呼んでみる。
「……慧」
「…………」
玲は目を逸らして、耳まで赤くしている。触れている頬が熱い。
「言わせておいて何それ! 覚悟が足りないよ!」
赤くなった耳をつまんで玲を揺さぶる。声に出して呼ぶのは慧に慣れていくとしても、やっぱり自然と心のうちで呼びかけるときは玲と言うのだと思う。
「いやあ……うん、格別ですなあ……」
ぼそりとつぶやく彼女はにたついて、不審者っぽい。
「そうやってにたにたしてると、君もだいぶ普通の人間っぽくて親近感が湧くわ」
「じゃああなたが私に嬉しいこと、無限にしててください」
「無茶言うねぇ」
それから玲は咳払いをして真面目ぶる。
「もひとつ」
「はあ、まだなにか」
「普段、私、あなたを穂高さんって呼んでるじゃない?」
目を輝かせて言う彼女を見ながら思い返してみたが、全然思い当たらないので首をひねる。
「そう……だっけ。君、あんま私の名前呼ばない気がする」
彼女は拍子抜けしたような表情。
「あれ、そう? まあとにかく、ふたりのときは……ほ、ほたかって呼んでもいいでしょうか」
「別にいいけど……。満を持して、みたいな雰囲気出してるけど、穂高さんとも普段呼ばれてる認識がないから、私としては代わり映えしないよ」
思ったことをそのまま伝えれば、彼女は明らかにしゅん、とした雰囲気を身にまとう。
「あ、いや、呼ばれてないからこそ、呼ばれるだけで新鮮だよ、嬉しいよ」
慌てて取り繕うと、玲は自信なさげにつぶやく。
「ほたか……」
「うんうん、慧」
太陽の光が射すように、ぱああ、と玲の顔が輝く。なんだか罪悪感が湧く。
「君ぐらい喜べなくてごめん……」
彼女は目を閉じて、悲しげに眉をひそめた。
「やっぱり、私ばっかりあなたを好きな気がする……」
そんなことは断じてない。
「あたいの愛情なめんなし、表出ろし」
巻き舌で食ってかかると、彼女は布団を頭までひっかぶって隠れてしまう。
「やだーヤンキー怖いー」
「あたいの特攻服の背中には、『玲あいらぶゆう』って書いてあるんだし。あいはラブの愛、らは神羅の羅、ぶゆうは武勇伝の武勇、だし。あ、玲じゃなくて『慧愛羅武勇』か。とにかく、このチームを引き継いで14代目、筋金入りの愛情だしなめんなし」
布団を引っ張ってみるが、彼女は出てこない。仕方がないので、夜露死苦スタイルから近所の幼馴染に鞍替えして、布団をぽんぽん、とノックする。
「慧ちゃん、慧ちゃん、あーそーぼ。慧ちゃん。裸のお姉さんがお布団の外で待ってるよ。慧ちゃん、あーそーぼ」
「……」
布団からそろりと顔を覗かせた彼女は、慧ちゃんと呼ばれたのが恥ずかしいからか、また顔をちょっと赤くしている。
「いつまでも照れて、かわいいな君は」
また布団の中へ隠れてしまわないように、ほっぺたを両手で挟んでしっかり固定する。
「慧、慧、慧……」
額同士をくっつけてその名を呼べば、彼女は次第にうっとりと目を潤ませる。
「慧」
ひと言呼ぶたびに、新しく慧という刻印をその体に刻みつけるように口付けていく。
みんなの玲ではなく、二人でいる間だけの慧の身体にしていく。
===============
水を注いだコップを持ってきて、寝転ぶ玲の頬に軽く当てた。
閉じていた目をゆっくりと開くが、その目はいまだぼんやりとしている。
「……ありがと」
彼女はタオルケットを胸元にかき抱いてゆるりと半身を起こし、受け取ったコップの水面をしばらく見つめてから、喉を鳴らして水を飲み干した。
空のコップを両手で持ったまま、またもぼんやりしているので、その手からコップを抜き取ってサイドテーブルに置いてやる。
私もタオルケットに下半身だけつっこんでベッドに腰掛けると、肩にこてんと彼女の頭が乗ってくる。
いつもくるくると表情を変えて忙しい彼女が、そんな風におとなしい子どもみたいにしているのが可笑しくてたまらない。
「なんかいつもより、玲、じゃなくて慧、感度よかったよね」
もたれかかった頭を離すことなく、気怠げに視線を巡らせた彼女が口を尖らせて、しかし黙って目を逸らす。
「ん?」
普段の勢いのよい反論が返ってこずつまらないので、からかいの気配をたっぷり込めて追撃をする。
「だって……ほたか、すごく名前呼ぶから…。素の自分っていうか……鎧のない状態の、もろに自分って感じで……なんか……恥ずかしかったんだもん……」
身体を縮こめた玲がたどたどしくしゃべる。
やばいなあ、こんな可愛らしい生き物、国宝に指定しなくて大丈夫? この可愛さは、国をあげて守るべきなんじゃない? いや、でもやっぱり誰にもこの希少価値を知らせることなく、ひっそりと私だけが独り占めしておこう。ならん。誰もこの子の真の可愛さを見てはならん。誰も見てはならぬ。
そうひとり考えながら、その愛くるしさを全身で感じるべく、いそいそと玲を背後から抱きかかえる。彼女はされるがまま、おとなしく抱っこされながらも、しみじみ噛みしめるようにつぶやいた。
「私は"玲"っていう名前に誇りも愛着もすごくあるけど、なんていうか……22年ずっと使ってきた名前で呼ばれるのって、やっぱり違うんだなあ……」
「……22年、かあ」
うきうきと弾んでいた気持ちも、さっと吹いた風にかき消えてしまう。
黙り込んだ私の様子に気付いた彼女が、緩んだ腕の中から見上げてくる。
「なあに?」
「ん、や。……君やっぱ若いなーってちょっと改めて思った、みたいな」
苦笑を返して言うと、玲は体を少しずらし、私の髪を耳にかけて不満げに話す。
「それよく言うよね。そんなに違うかなあ」
十近く離れているので、結構な年齢差があるとは思う。彼女がしっかりしていて、こちらが未熟であるがために、恥ずかしいことに普段はそこまで意識もしないのだが。……それよりも後ろめたいのは。
顔も合わせたことのある彼女の家族一人一人が頭に浮かぶ。
慧の親御さんたちは、私を信頼してそのだいじな娘さんを預けてくれているだろうに、それを裏切って、私はこうしている。仕事のパートナーとしては完全に不適切な感情を持って、不適切な距離で、あの家族から22年間だいじにだいじにされてきた『慧ちゃん』をこうして腕の中に抱いている。
……あのご両親は、いつかはこの美しい娘が選んだ人を紹介されて、その人との間に可愛い孫だって生まれてくるのを、ごくごく普通に楽しみにしているだろうに。
だが――とも一方で思う。
現時点で、私たちはこの先どうなるかわからないのだ。この子の将来を私がずっと縛るわけでも、縛れるわけでもない。
じくり、と心臓が痛む。その事実にも、そう考える自分自身にも。
だから、全ては言わずに。家族の気配は押し隠して、なんとか声を絞り出す。
「この美しく若い娘っ子をたぶらかして……みたいな罪悪感を感じているのであります」
そうして苦い心のうちの一部を吐露すると、彼女がにやりと笑って、こちらの顎に手を添え、くっと持ち上げてくる。
「この私をたぶらかしてるつもり? 手のひらの上で転がされてるのはほたかだからね」
いっぱしの悪女の顔である。その色香に惑わされて右往左往しているアラサーが私だ。
「ちげぇねえ」
彼女は満足げに唇を弓なりの形にして鼻息を漏らすと、今度は頬を優しく手のひらで包み込んできた。
そうして満たされたような穏やかな表情を浮かべて言う。
「こうしてるのは私の意志だから。幸せだよ。……あなたは、不本意ですか?」
本当にこの人には参る。ため息をついて首を振る。
「ううん、失礼だったね。私も、私の意志で、底なし沼みたいな君の魅力に自ら溺れに行っております。そんですげー幸せっす。ほんと、君はしっかりしてる。私は君という人間を尊敬してるよ」
ちょっと目を大きくしてから彼女は照れたように微笑んで、
「でしょうでしょう」
と頷いた。
時計に目をやると、宵も更けきった時間だ。
「やば、お肌のゴールデンタイム終わるよ。早く寝ろ、玲」
まどろんでいた身をがばりと起こして、抱きかかえていた彼女を布団に包み込む。
「ちょっと。急に"玲"呼びで仕事モードなんですけど」
「そうだよ、業務命令だよ。あんたの肌を綺麗&綺麗な状態に保つのが私の仕事だよ、寝ろ、玲」
「ヤったら急によそよそしくなる、無慈悲なマネージャーに馬車馬のごとく働かされる哀れな私……」
泣き真似をしてみせる彼女を放っておき、小さく点けていたスタンドライトを問答無用で消して部屋を真っ暗にする。
私も布団に潜り込み、ぴったりと玲に抱きつく。
「こんなにマネージャーに想われてる人間が他にいるかよ。ちなみに、本当は朝までだっていちゃいちゃしていたいのに、職人魂を奮い立たせて引き裂かれるような思いをしているマネージャーは、ここにいます。褒めてよ、そして寝ろ」
ふふふ、と笑い声がすぐそばでして、頭を撫でられる。温かい。こんなに幸せな夜はいつぶりだろう。安心と一緒に広々とした眠気がやってきて、玲が眠りに就くのを見届けることもなく、意識を手放した。やっぱり私はプロになりきれない。
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====
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久しぶりに、眠りから浮上する意識とともに幸福感を得ていた。甘い寝覚め。
近頃は、いつも何かに追い立てられるような心地と共に浅い眠りから身を起こし、気がかりな仕事についてすぐさま考えを巡らしていたものだ。
まぶたを薄く開けると、部屋の中はまだ薄暗く、本格的な夜明けまでいましばらくの猶予がありそうだった。首を隣へ向けると、少し距離を置いて白い背中がある。弛緩しきったあくびをひとつした。
薄暗い室内にあって、その背中はぼんやりと白く発光するようだ。胸を満たしていく幸福感に、この肩甲骨のあいだから羽が生えていたって驚かない、と思う。もっとじっくりその背中を見ようと、寝返りをうつ。
カーテンの隙間から細く射し込む朝の光が彼女の体へ伸びて、そのしなやかな二の腕を伝い、背中まで流れて柔らかな線を描いている。その線はこちらの顔まで伸びていて、夜明けに向かって少しずつ明るさを増していくそれは、まだほとんど眠りのなかにある己の目には眩しい。彼女の体に触れた光が自分にまで届いて彼女と私を繋げていることすら、ほんのりと嬉しく感じながら、体を少しずらしてその奇跡のようなまばゆさから逃れる。
半身を下にして横たわっている彼女の後ろ姿を眺めた。
ぴょこりと慎ましく突き出た可愛らしい耳から、ほっそりとした首、すっきりと華奢な肩が描く線を辿っていく。たおやかな二の腕は、白く光る裸の背中の向こう側へと隠れている。脇から下はなだらかな稜線を描き、腰に至るとそれはきゅっと谷底を表すようにいちど止まって、再び坂を登り始めている。魅力的なその曲線のその先は、残念ながら掛け布に覆われていた。
少し縮こまるように眠っているその背中の真ん中には、一定の間隔で小さい背骨が連なっている。律儀なリズムで並ぶそれがとても愛おしく見える。
半分寝ぼけたままそれを観察していると、薄い皮膚の下から存在を感じさせるその凹凸に恐竜を連想した。子どもが外を出歩いて、気になるものを見つけると即座に触ってしまうような衝動で、それへと手を伸ばす。まずはうなじの出っ張りにそっと触れたが、反射によるものか、ぴくりと彼女の体が小さく動いた。
息を詰めて見守るが、どうやら起きる気配はない。安堵して、再びその骨を中指でゆっくりと触る。
愛しい起伏を下へと辿るうち、やはり図鑑で見る恐竜の背骨の隆起を思い起こす。太古の昔、恐竜がこの地球を悠々と闊歩していた時代がこの背中の上部あたりだとして、背中の中ほどあたりにはもう恐竜は絶滅して、哺乳類が繁栄しだしたろうか。
でこぼこはやがて気配を薄くしていき、布に包まれた腰に至る。
――人間なんて存在しなかった頃を経て、この美しいヒトは、今この地球のここに、私の隣に居る。
もう一度、その奇跡を思う。
自然と口元は綻んで、息が漏れる。裸の肩に、布をかけてやる。ずっと曝け出されていた肩はひんやりと冷たかったので、その背中へ体を寄せて後ろから抱きしめた。甘い香りに安心感がやってきて、眠気がまた私を包む。
おやすみの意味を込めて、うなじへ口付けた。
好きな人を抱きしめながら二度寝する幸福をお供に眠りの舟に乗りかかっていれば、ふいに彼女の手が動いてこちらの手と繋いだ。起きてたの、と声をかけたが返答はなく、その代わりにもう少し強く手を握られた。
彼女のすべらかな脚がこちらの脚へ伸びてきて、存在を確かめるように絡んだ。
まるで天国みたいだ、これも夢の一部なのかもしれない、と考えながら、ふたたび意識を夢の世界へ送り出した。
===============
カーテンの隙間から力強く射す朝日に再び目を覚ます。
置き時計に視線を巡らせた。朝にしてはもう遅めの時間だが、腕の中でまだ眠る玲を起こさぬよう慎重に慎重に動き、そろりとベッドから抜け出してカーテンをぴたりと閉じ合わせる。まだまだ彼女にはゆっくり寝ていてもらいたい。
今朝はよく晴れている。溜まった洗濯物第一弾を干し終え、シリアルとヨーグルト、冷凍していた食パンをトーストにして、どうにか朝食らしい体裁を整え、コーヒーを沸かす。
そろそろ起こしてもよかろ、と寝室に向かおうとすれば、小さめのスウェットを着た玲が目をこすりながら起きてきた。
「おはよ」
むにゃ、といった風情で挨拶をする玲は朝の奇跡だ。輝かしい一日の始まり。
「おはよ、ちょうどよかった。今コーヒー湧くから座って待ってて」
ありがと、と返事をする彼女はまだ眠そうだ。
世紀末みたい、と彼女に言われた冷蔵庫を覗いて、ジャムの瓶を確かめる。世紀末にもジャムはある。甘いものは生きるために必須だ。
「玲はジャム、苺とブルーベリーのどっちがいい?」
「……」
ブルーベリー派だった気がする。返事がないので冷蔵庫から振り返ると、なんとも妙な表情で見返してくる。
「玲はここにいないけど、慧はブルーベリーがいいと申しております」
「はいはい慧ちゃん」
さっきまで寝ぼけ眼だったのに、しっかり聞くところは聞いているのが可笑しい。
バターとブルーベリーの瓶、淹れたてのコーヒーふたつを盆に載せて、"慧"の待つテーブルへつく。
「ありがとう、"ほたか"」
はきはきと言葉を区切りながら、にっこりと彼女は笑う。
いただきます、と声を合わせてから、バターを塗りつつ、思いつくままに言う。
「穂高って、女らしくない名前でしょ。小さい頃は恥ずかしかったんだあ」
「そうかなあ? ”か”で終わるのって女の子の名前らしい音だし、漢字でも、背筋がすって伸びて、でも優しく風に揺れてる感じがあって、穂高さ、――ほたかによく似合う名前だなあって思うよ」
そう言って朗らかに微笑む玲への愛情に、胸が満たされていく。
「……テーブル挟んでなかったら、ちから一杯君のことハグしてた」
すぐさま椅子を引いて立ち上がった彼女が両手を広げている。
「する?」
「ぎゅー」
面倒がってトーストをかじりながら抱擁の擬音だけ発したところ、彼女は口を尖らせておとなしく椅子に座り直した。
「あ、もう洗濯しちゃったんだ」
ベランダの窓の外、風にそよぐ洗濯物のシルエットに目をとめた玲が言う。
「まだまだあるから、あれは第一弾。次の洗濯までに乾いてくれるかなあ」
「今日はよく晴れてるみたいだし、大丈夫なんじゃない」
穏やかに笑む彼女の言葉に、もしも二人で暮らしたらこんな会話を毎日交わすのだろうか、なんて考えてしまって、コーヒーの香りに意識を逸らすことで、その妄想の気配を振り払う。
しばらく、シリアルやトーストを食べるざくざくという音、ベランダの植物の実をついばみに来たらしい鳥の鳴き声やらに耳を傾けながら、彼女の本名を胸のうちで繰り返してみる。自然と口をついて呼べるようになるには、まだ時間がかかりそうだ。
「君は外で私のことを、ほたか、と呼び間違えても、『あれ、確かあの子、マネージャーのことは"さん"付けで呼んでたはずなのに、本当はいつも心のなかでぞんざいに呼び捨てしてて、気が緩んでそれが口に出ちゃった、生意気で性格の悪いモデルか?』ぐらいですむけど、私が君を慧って本名で呼んじゃったら、かなり不自然だよね」
「人気業の私にしたって、そんなふうに思われるのは大した損失だよ」
だが、彼女はこぶしを握って励ましてくる。
「学校で先生を、お母さんって呼びかけちゃうくらいの失敗だよ、微笑ましいよっ」
にこにこしている玲を見ていると、その失敗は実現度が高そうだという気がしてきた。
「君はむしろそのときを楽しみに待ってそうだね」
ため息混じりに私が言うのを、彼女は意にも介さない。
「プロでしょ、切り替えられるよ」
すでに天高く登った陽の光を受けてきらきらと笑う玲、いや、慧を見ていると、諦めと、むくむくと幸福感が沸き起こってくる。
簡単に言ってくれるよほんと。
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