猿1『瀬戸んち、生活やめてるってよ』(『恋する猿の惑星_I』)


 リハーサルを終えて、今日はもう玲を家へ送るだけだ。愛車の運転席に乗り込むと、一気に体の緊張が溶けるのを感じた。


「あ、ちょっとごめん。Yさんに昨日の件、返事の電話入れておく」


 助手席の玲にひと言断ってから、今日を締めくくる仕事を済ませる。電話で手短に用件を話しながら、なにとはなしに彼女を見やると、にっこりと花が開いたような笑顔を向けてくる。


 玲が主要なキャストとして出演しているドラマがヒットして、老若男女に広くその存在を知られるようになった。ここのところ、様々な種の仕事が舞い込み、本当に忙しくなっている。

 今日は途中で、玲も少し疲れた様子だな、最近ずっととてつもなく忙しかったし、と考えたが、今こちらの心も柔らかくほどくような目の前の笑顔を見る限り、そんな風には感じさせない。

 電話を切ってすぐに声をかける。


「玲、大丈夫? 無理してない?」

「え、ううん。大丈夫だよ?」


 相変わらずにこにこと返してくるので、健気だなあと思う。

 今の時間はあの番組がいいな、と思いつつラジオを操作していると、


「明日の最初の撮影ってどこでやるんだっけ?」


と彼女が訊いてくる。頭のなかの手帳をめくる。


「A駅の近くのあの古い撮影ビル」


 ああ、この番組久しぶりに聴けるなあと、シートベルトを締めていれば、


「何時入りだっけ?」


と再びの質問があり、予定は自らだいたいきちんと把握している玲にしては珍しい、と内心首をひねる。


「えっと、16時入りだよ。久しぶりにちょっとゆっくりできるよ」


 安心させようと笑いかけた途端、彼女はさらに畳み掛けるように重ねてくる。


「あなたの家ってどこらへんだっけ」


 何を今更、と思いかけて私こそ今更気付く。彼女の家より私の家のほうが、明日の撮影所にだいぶ近い。


「……久しぶりに少しゆっくりできるんだから、ちゃんと休まなきゃだめだよ」


 諭すように言うが、彼女はにこにこを退けない。


「ゆっくりするよ? あなたの家で」

「……妙ににこにこしてると思ったんだよね……」

「いやあ。滋養強壮、滋養強壮」


 ピカピカ顔を光らせて、今にもワッハッハと大笑いしそうだ。


「おじさんみたいだよ、品がないよ。でも本当にたまにはゆっくりしないと、玲、体壊しちゃうよ?」


 本当にそこの部分は心配しているのだ。とみに増えた仕事をどこかで区切って、ひと息つく時間を設けないと、と考えていた。

 しかし彼女は、はっと大仰に口元を押さえ、狭い車内の中で後ずさりをしてこちらから距離を取る。


「……ゆっくりさせてくれないの? 今夜は寝かせてくれないの?」

「君はね〜……」


 はあ、と吐息をこぼすが、こういう気の抜けた会話自体もこのところできていなかったかもしれない。


「……いたした翌日は、『玲、やっぱり化粧のノリいいなー』っていつも思ってるくせに」


 彼女のつぶやくような言葉に驚く。


「なんで知ってるの?」

「わかるよ。下地伸ばしてすぐに、あら、って顔するし、それから微妙にニヤってしてるもん」


 ……うわあ。セクハラじみた思考がだだ漏れだったとは。恥ずかしい。

 二の句が継げずにいたところ、彼女はぐっと握りこぶしをつくって、爽やかに勧誘してくる。


「一緒に綺麗になろっ?」


 化粧品会社か、健康食品の完璧なCMみたいだ。どこかスポンサーがつけばいいのに。……発言内容の真意が下衆いから無理か。

 そのお誘いはとっても魅力的だが、だがそれゆえにおいそれと快諾もできない。


「んー……」


 いまだ発車できていないハンドルに突っ伏してうなり声をあげていれば、おそるおそるといった声が届く。


「疲れてる? たまにはひとりになりたい?」


 ハンドルにもたれかかったまま頭を隣へ向ける。かなり心配した様子の玲が眉を八の字にしている。


「ううん……違う。ていうよりむしろ……久しぶりだから、ちゃんと君のこと気遣えないくらい、夢中になっちゃうかも……っていう心配……」


 そう、私が力なく伝えると、


「ンキャーっ!」


彼女は爆発するように奇声を発して、


「あーっ今すぐちゅーしたい! 抱きしめたい!」


と、目と腕を大きく開いた。

 そして無言でこちらの体に届かない距離で手を不可思議にわきわきと開いたり閉じたりしていたが、やがて彼女の腕は自らの体へ、つまり、”自分抱きしめ”へと落ち着く。浮かべる表情は苦悩そのもの。おお、ギリシャ彫刻のごとき美しさ。


「……」


 この頃は玲への注目も高まってきているので、不用意な接触を行わないようにしている。

 ともすれば通常の仕事仲間の距離感を逸した仲の良さを晒しがちなので、ごくプライベートな空間でもある車の中でさえ接触しないよう約束していた。どこに世間の目やカメラがあるかわからないためだ。


 ハンドルから頭が浮かせられないまま、万感の思いを込めてため息をつく。


「せつないねえ」

「せつないねえ」


 しみじみと返ってくる。二人で数瞬しみじみとしていたが、ふいに玲は活気づく。


「よしっ早く帰ってやることヤろ!!」

「……情緒のかけらもない」


 苦笑いしながらやっとエンジンを入れる。ちょうど、追い立てるようなドラムが印象的なロックの曲がラジオから流れてきた。



 家が近くなってくるにつれ、口数は減り始め、やがて質量のある沈黙が車内を包み出した。

 ラジオの音声ばかりが場を盛り上げよう、あるいはリラックスさせようと頑張っているが、車の中の空気は緊張感を増していった。信号待ちでは互いを何度もちらちらと盗み見ては、気まずげに目を逸らしたり、目がばっちりと合っては苦笑いを浮かべたりする。


 ようやっと着いたマンションの駐車場で車を降りて、街灯もまばらな暗い道を二人無言で早歩きする。カツカツカツカツ、とふた組のヒールが立てる音が半狂乱に響いていた。ふっと我に返って、くく、と思わず笑い声が漏れる。まだ早歩きのペースを落としていなかった玲が少し先で、歩調を落としたこちらを訝しげに見やるので、笑いをこらえながら現状を伝えてやる。


「やばくない? まるで盛りのついた二匹の猿だよ、うちら」


 玲もぶふっと吹き出し、腰を折ってどうにか笑い声を耐えている。


「確かに……私たち、異常に切羽詰まってたね」


 ご近所に迷惑のない程度に二人でヒーヒー笑っていたが、ひと足先に笑いの沼から抜け出た玲が、


「ほらっ、早くゆっくりするよっ」


と言いながらこちらの腰へ粗雑に腕を回して歩き出す。


「早くゆっくりって何よ」


とまた少し笑ったが、久しぶりに感じた彼女の体温が高くて、うまく笑えなくなってしまう。


 妙に煌々と明るいエレベーターの箱の中で、じらすようにじわりと増えていく階数を見上げていたが、視線を感じて玲のほうへ目だけ回すと、彼女が白い歯を見せてにっと頼もしく笑いかけてくる。どちらからともなく、熱い指が絡み合った。

 ドアへ鍵を挿すのももどかしく、乱暴に玄関を開けてすぐ、靴を脱ぐことも電気を点けることもなく、二人まろぶように玄関のマットの上へ横たわって、上になったり下になったりがあったり。

 ――猿二匹が先を争うように互いを貪り食べてしばらくのち。


「……だめだこれ。こんなところでこのまま最後まで突っ走りかねん。いったんやめよ」

「確かに……人間に戻ろう」


と笑い合って、乱れた衣服を整え、きちんと靴を脱いで揃える、性欲を少し満たしてどうにか人間に進化した二人です。



===============


「いつ来てもあなたの部屋って、どんなに熱い熱も冷めるような……」


 電気を点けて根城へお連れすると、玲は呆れた言葉を言い切らぬうちに止める。


「なに」

「察して」

「察さない。でもごみは放置してないよ」

「それ察してるよ」


 脱ぎ散らかした服やストッキング、山と積まれた本や投げっぱなしで散らばる書類を足で華麗に脇へよけて、お客人の通る道を作る。ティッシュやゴミ袋やペットボトルが放置されている状態はまったく好まないので、そういう本当のごみの類はない。かろうじて。


「怖いなあ、ごみに埋もれて死なないでね」


 哀れなものを見る目だ。


「ごみはないんだって」


 なけなしのプライドをもって言い返すが、彼女は肩をすくめて寂しげに笑うだけだ。

 普段作業するダイニングテーブルの周囲は比較的片付いているので、そこに玲を座らせてお茶の用意を始める。

 だが、彼女は落ち着かないらしく、立ち上がっていそいそと服をたたんだり、書類をまとめてトントンしたり、拾っても拾っても失くならないストッキングをつまんでは顔をしかめたりしている。


「ストッキングを履いては脱ぎ捨て、その中で埋もれて暮らさずにはいられない、そういう病気なの?」


 本気で嫌そう。ちょっと傷付く。

 何も言い訳できないので、黙って静かに微笑み返すだけにした。


「普段はあなた綺麗好きそうなそぶりしてるのに、とんだカマトト野郎ですよ、これ」

「……さっ、働き者のお嬢さん、お茶の用意ができたから、おててを洗って席に着きなさい」


 スマートに無視して紳士然としてみるが、彼女は意に介さない。


「前より部屋がすさんだ感じがするんだけど。なんかお茶飲むのも怖くなってくるなあ……得体の知れない菌とか入ってないよね……?」


 もはや目には恐怖すら浮かんでいる。

 確かにここ最近のこの部屋の様子は、ちょっと自分史上でも類を見ないほどのワイルドなものになっていた。仕事が忙しく余裕がなくなっているとはいえ、これはちょっとまずい、とは自分でも考えていた。


「案ずることなかれ。水周りだけは綺麗&綺麗にしておかなきゃ気が済まないから、そこは大丈夫だよ」


 証明するように手を広げてキッチンの手洗い場へ誘導する。彼女は胡乱な目をして、手につまんでいたストッキングたちをとりあえず部屋の隅に落とした。


「あ、ほんとだ綺麗。……ていうか」


 手を洗いつつ、数脚のワイングラスだけが逆さになっている水切り場を目ざとく見つけた彼女が非難がましい視線を寄越す。


「ちゃんと食べてる? 心配なんだけど」


 こくりと頷いて、さっさと席に着くよう促す。彼女は素直についてきながらも、


「最近やつれてきた気がするし」


と不安げにこぼした。


 着席してお茶をすする玲を見ていると、改めて違和感に驚く。何度彼女がこの家に来ても、玲が自分の部屋にいるということに毎回感動を覚えてしまう。玲の周りだけ発光しているように感じるのだ。


「私の部屋で、玲は眩しいくらいに輝くなあ」


 普通に腰掛けていた彼女がやおら椅子の上であぐらをかき、


「荒野に咲く花です、ごみの山で燦然と輝く奇跡です」


人差し指と親指でわっかを作って釈迦っぽいポーズ。


「生きてる間に奇跡を拝めて、オラ幸せだあ」


 手をすり合わせて、巡り会えた奇跡に感謝する。彼女は足を解いて微笑みながらも、


「でも、本当に心配してるんだからごまかさないで。ちゃんと食べてよ?」


と釘を刺すのを忘れない。本当に輝いてるなあと思ったんですが、という反論を飲み込んでこくりと頷くも、


「ちゃんと発話して。あとで冷蔵庫もチェックしますからね」


と彼女は怖ろしい顔をする。


「へい、へい。姫様のお口に合うものがあるかわかりゃあしませんが、気に入るものがあれば、どうぞこの老いぼれから残りわずかな貧相な品でも何でも掠め取っておくんなせえ」


 猫背になって恨みがましく彼女を見上げても、「悪者みたいじゃん、もー」と、飢饉ただなかの村人と血も涙もない姫様ごっこにノッてくれない。心配してくれている彼女にきちんと応えるべきかと、背筋を伸ばして安心させるべく笑みを浮かべる。


「大丈夫だって。玲こそ、私の目算だと……ここ2週間で0.6キロは減ったと見てるんだけど、どう?」

「うわ、こっわ。ジャストなんだけど。何、どっかに体重計でも仕込んでるの?」


 彼女は寒気をおさえるように両腕をさすっている。


「私の君に関する観察眼をなめないでください。忙しくても、三食きちんと食べてください。そして最近クマが目立ちます。隠すの大変です。きちんと寝てください」

「……はい」


 神妙に彼女は答える。私は自分の茶器を持って立ち上がりながら、しかし言っておかなければならない。


「でも、玲はいつでも最高に可愛いよ」


 思いがけないタイミングの言葉に、口ごもった玲が困ったようにこちらを見上げていた。いやあ最高に可愛い。通りすがりにぽんと彼女の頭に手を置いて、移動した先の流しから声をかける。


「お風呂洗ってくるから、ゆっくりしててね。ちゃんとゆっくりするんだよ。ストッキング集めなくていいからね」


 キッチンカウンターの向こう、少しだけ振り向いた彼女が「……ずるいなあもう」とぼやいていた。



 風呂を掃除しながら、今冷蔵庫に食料は何が入っているか考える。

 ビール、ワイン、日本酒、ウィスキー、炭酸水、かろうじてつまみのチーズ、サラミ、ああ、これはヘルシーポイントが高い、ヨーグルト。豆腐もあったはず。……以上かな。やばい、怒られるな。どうか玲が冷蔵庫のこと忘れていますように。

 お風呂場から戻ると、果たしてやはり彼女はストッキングを集めて回っていた。ストッキング以外の衣服も両手にわんさと持っているが。


「玲さんの趣味ってストッキング集めだった?」

「怒るよ? 何本あったと思う? 20本だよ? まだあちこちに肌色が見え隠れしてるよ? 同じストッキングは二度と履けないの?」


 想定以上の迫力に気圧される。


「貴族なので……」

「貴族はこんなごみ屋敷に住まないっ」

「ご、ごめ……」

「それから」


 低く静かな声に身を硬くする。


「冷蔵庫を見ました」

「……」

「なんでしょう。あのうら寂しい、世紀末みたいな冷蔵庫。さっき健康的な生活について他人へ指導を垂れた人間の冷蔵庫とは思えない」


 凍えるように冷たい目を向けてくださる。何も申し開きできない。


「……」


 玲曰く20本のストッキングと、しわくちゃな洋服を何枚も両腕いっぱいに抱えて仁王立ちする彼女は、冷静に考えれば滑稽な姿だが、美しさが冷たさ方面に振り切れている今は、恐ろしさのほうが勝つ。


「……はあ……。尻尾丸めたチワワみたいにしないでよ……」


 怒気を鎮めて、彼女はうなだれた。チワワとは。

 チワワなりに、鬼様に私めの汚れものをいつまでも持たせるわけにはいかないと愚考する。


「とりあえずそれらをいただきます。洗濯機に放り込みます」


 鬼から人へ戻った彼女は頷いて、


「明日絶対に洗濯機を回しますからね。買い物へ行って、二人でご飯も作り置きするからね」


 玲はちゃんと休まなきゃ、と抗弁しようとして、しかしその気配に再び鬼が顕現しかけたので、


「…っ……はい……」


反駁の言葉は飲み込み、深く頭を垂れてみせた。



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 洗濯機の蓋を閉めて、深いため息が漏れる。涙まで出そうだった。

 最近は本当に全く余裕がないほど忙しくて、ぎりぎりの状態で仕事を回している感覚がある。捌いても捌いても別の仕事が押し寄せてきて、なんとか水面に鼻先だけ出しているものの、思いがけない小波が寄せてきたら、このバランスは脆くも崩壊するだろう。

 自分一人だけの仕事であれば、少し無理をしたりどこかで帳尻を合わせたりすることも簡単だが、玲というもう一人の別の人間、しかもコンディションは常に最高であってほしい、だが無茶はさせたくない、と矛盾する条件を実現するには、やはり自分にはまだまだマネージャー業の経験が圧倒的に不足している。玲自身の努力や調整があってこそ、現状どうにかなっている状態だ。

 そんなぎりぎりの状況で私生活は荒れ果て、このざまだ。

 つかの間の休息がせっかく久々に取れたのに、私の日常生活がだらしないばかりに、彼女の貴重な休息時間を台無しにしてしまう。


 彼女を支えて、彼女を元気づけて、笑わせてあげたいのに、うまくできない。

 自分がふがいないばかりに、玲へ負担をかけてしまう。


 洗面台の鏡を見上げる。暗い陰気な顔つきをした女がいた。いけない、と思う。空元気だって、落ち込んで彼女に心配をかけるより遥かにいい。

 ぱちん、と両頬を挟んで、「っし」と気合いを入れる。


「や〜溜まった洗濯物を片付けるために明日は大家族並に洗濯機大回転の一大行事になるねこりゃ」


 陽気に登場してみたものの、ソファに腰掛けて湯呑みを両手で持つ玲は、物憂げだ。


「……お茶のお代わりいる?」


 無理やり上げたテンションのやり場に惑い、不自然なほどに静かな声音で訊いてしまった。


「ん。ありがと」


 彼女が優しげに微笑んでくれるから、鼻の奥がツンとする。やばい、疲れて涙もろくなってるや。


 急須を置き、玲の隣に座って頭を垂れる。


「ごめんね。私のせいで、君をゆっくりさせてあげられない」


 顔を上げて、しっかり目を見て続ける。彼女も真剣に聞いてくれている。


「本当なら、ありがたい申し出をつっぱねてでも休んでもらうべきなんだろうけど、君はきっと無理してでも付き合ってくれるでしょ。だから、謝るね。ごめんなさい。そして、ありがとう」


 もう一度、頭を下げる。膝の上へ置いていた手が彼女のそれに包まれた。


「ううん。私はあなたといられて嬉しいもの。それに、無理にお家へ上がり込んだのも私だもん。急に家へ来て生活のことをどうこう言うのは、嫌な思いさせたな、と思った。私こそごめんなさい」


 ふるふると頭を振って、とんでもない、と表す。私のことを思ってくれているからこそであるのは、伝わっている。


「でもね」


 玲が包んでいた手に力を少し込める。


「この頃ずっと忙しくて、私も疲れてたけど、あなたは私を家に送ってからも仕事をしたり、また事務所に帰ったりしてるでしょ。家のこと、余裕ないのも当然だよね。それで、なにかあなたの負担減らせないかな、って考えたんだけど、送り迎え、あれ、事務所からタクシー代が問題なく出るよね。……だから、わざわざ車運転してくれてるあれだけでも、タクシーに変えたらいいんじゃないかなって、思った、んだけど……」


 彼女は、最後になると声を落として、戸惑った表情を浮かべていた。


「……大丈夫?」


 玲が悲しそうに、こちらの頬へそっと触れてくる。


「え?」

「泣きそうな顔、してるから……」


 何かおどけてみせようと息を吸うが、言葉は何も思い浮かばず、顔の筋肉は意志に反して崩れていくのが自分でもわかる。取り繕うのは諦め、視線を落としてありのままに伝える。


「それは……その時間は、奪わないでほしい。触れられなくたって、二人きりでいられる、私にとっては大切な時間なの」


 朝、これから始まる仕事に向かって、覚悟や緊張感を高める玲や、一日が終わり解放されて落ち着いた玲。


「いろんな素の顔を見せてくれる玲と同じ時間を過ごせるのは、私の特権だなと思ってる。仕事が大変だった日の帰り道も、一緒に起きてようと頑張ってくれてて、でも結局安心しきって眠る君を見てると、なんだか自然と、よっしゃこれからもがんばるぞって思えるんだよね」


 日常のなかの様々な彼女を思い出していると、自然と笑顔が浮かんだ。

 だが、それらたくさんのものを抱えられるほどの腕の長さを持たない者は、宝物も手放さざるをえない。


「でも……こうやって君に余計な心配をかけたり、無理させたりするくらいなら、やっぱりそれも諦めるしかないのかな……と思うと、本当に、自分の力不足が悔しくて、情けなくて……」


 ふわりと、温かさに包まれる。私を抱きしめた玲が静かに話す。


「ごめんね、そんなにあの時間のこと、大切に思ってくれてると思わなかった。私だって、本当はもっとあなたといたい」


 玲の声が、密着した体の骨を震わせながら響く。彼女の温もりのなかで、私は駄々っ子みたいに首を振るしかできない。


「謝らないで。私が悪いんだもん。もっとマネージャーとしての力量があったら、うまくやれたら、玲に余計な心配も苦労も、負担もかけることないのに……」


 今や完全に泣き声となってしまった弱々しい声で、泣き言を連ねる。情けない。

 抱きしめてくれる彼女の手が、私の後ろ頭と背中を、ぽん、ぽんと触れる。そして、ゆっくり体を離すと、肩を両手で掴んでからこちらの目を覗き込み、噛みしめるように言う。


「『余計』な心配じゃないよ。私にとってあなたは大切な人で、その人を思うことは『余計』なことじゃないよ」


 にじむ涙をぐしぐしとこすって、目をこらして彼女を見つめる。


「……」

「二人でやっていくって決めたじゃん。自分だけで背負い込まないでよ。力が足りないのは、これからどんどん二人でどうにかしていくんだよ。私は、隣にいるのがあなただからこそ頑張れてるんだよ。頑張ってるのをちゃんとあなたが見てくれてるのがわかってるから、もっともっと頑張ろうって思えるんだよ。まだまだ慣れないことも、大変なことも多いけど、少しずつ、一歩ずつ一緒に登っていこうよ」

「……うん。ありがとう。そう、だった。二人だった。二人で天下取るんだった」


 少し涙が引いたのに、まためそめそしてきてしまった。鼻をぐずつかせて目をこする私を見て、にっこりと笑った玲が再び腕の中に私を包み込んだ。


「うんうん」


 ぱたぱた、あやすように背中を叩かれる。強張っていた体の芯から力が抜けていった。目をつむって全身でその思いやりの温かさを味わう。


「ふふ」


 声を漏らして笑った彼女の気配に、首を少し動かして疑問を投げかける。すると、彼女はくっついていた体を少し離し、それから額同士を当ててきて、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら言う。


「弱ってるあなたが珍しくて、可愛いなあって思って」

「……」


 恥ずかしくて、目を背けて口を尖らせるだけだ。顔が熱い。

 回されていた腕をのそりと抜け出して、彼女の背後から抱きつく。


「なに、なに」

「玲とくっついていたいけど、顔を見てほしくないので」

「え〜可愛いのに。見せてよー」

「君は君の温かさと柔らかさをこの私に提供するだけでいいのです。振り返るなかれ」


 もぞもぞと動いていた彼女を押さえ込んで、ぎゅうと抱きしめる。諦めた玲は背中をゆったりと預けてくる。華奢なのに、柔らかくて、安心する。甘い匂い。


「……ありがとう。ほんと、君は私の奇跡みたい」


 甘い匂いの強いほう、彼女の耳元へと顔を寄せてその僥倖を伝える。少し身をよじらせた玲が愛しくて、もっと、と思う。

 うなじ、耳元、首筋、と何度も往復して口で触れるが、乱れ始めた玲の息の音を聞いていると、物足りなくなって彼女の唇を求めた。

 伸びて晒された白い首やあご、唇を行き来しているうちに、浴槽の湯が張り終わったのを知らせる音楽が、遠慮がちに鳴った。それを無視して、こちらは引き続き音高く別の音楽を奏でていたが、服の下へ這うこちらの手にひと際高く玲から上がった吐息を合図に、テンポを徐々に落とす。


「……寝巻きとタオル出しておくから、先にお風呂入ってきて」


 すっかりくったりと脱力した様子の彼女に囁けば、


「……な、生殺しだよう…」


とか細い声が返ってきた。

 抱きしめていた腕をほどき、立ち上がって玲の手を引く。玲がちょっと屈んできて、もうしばらくの間、またキスをする。――と、いつの間にかまたソファの上へなだれ込んで、気が付けば彼女に組み敷かれてキスの雨を受けている。


「す、ストップ。お風呂、ほら」


 唇の前へ両手を差し入れて、もう何度目かわからない口付けを阻めば、彼女は一瞬切なげになるも、こちらの手のひらに、ちゅ、と慎ましく唇を付けてから、


「一緒にお風呂入る?」


と、とろんとした目で言う。理性を振り絞って、苦笑を浮かべてみせる。


「ううん。残ってる仕事、少し片付けてるから、君はゆっくりしてきなよ」


 こくりと頷いた彼女はふわふわした足取りで浴室へ向かっていった。

 少し間を置いて、玲用に質のいいバスタオル、私のあまり着古していないスウェット上下を脱衣所に置いておく。曇りガラスの向こうから、私の動く影に気付いた彼女が「ありがとねー」とのんびりした声をかけてきた。


「はーい」


 どうぞ、ゆっくり疲れを癒してね。



 さて。リビングに戻り、見慣れた己の部屋をぐるりと見渡す。OK、一分の隙もなく、こりゃあもう乱雑として汚い。生活感があるというより、むしろ生活がない。人間の暮らしがない。

 このままにはしておけない。きっと、私が入浴している間も彼女はまた部屋の片付けに着手などして、せっかくお風呂へ入ったあともいい汗をかいたりするのだろう。ならば、それを邪魔するのみ。

 こいつらを――片付ける。原野へ押し寄せる大量の軍勢を前にした強者のごとく、覚悟を決める。


 まずは、景観を大いに損ねてだらしなさを演出している衣服たちを拾い集めて紙袋に入れる。玲がストッキングハントをすでにしていたので、ストッキングは少なめ。それから散らばっている書類。たいていが仕事に関するもの。そもそもタレント本人の玲の目へ触れていいものか怪しげなものも混じっている。読まなかったことを祈ろう。ざばっと集め、大まかに分類してファイルに収納、作り付けの引き出しの中へ。

 そして最後は、積み上がり、転がっている本たち。本棚へ収まりきらないので、大きさや向きを揃えて、部屋の片隅にそびえる本の塔にするしかない。これが今できる最高の手立て。いつか私に読まれて、本棚メンバーの座を奪ったり、古本屋にもらわれていったり、しかるべき道を君たちは歩むはず。信じて。それまでは部屋の隅で積み上がっていて。


 ……ふう。

 首にかけたタオルで吹き出す汗を拭く。我に返って、自らが作り出した光景に目を見開いた。

 おお。床が、見える。限りなくどこまでも広がって、見えているぞ……!

 掃除機は……今の時間はやめておこう。クイックルワイパーを手早くかけた。


 ふっふっふ。この短時間で自分の為した偉業にほくそ笑んでいると、ざばりと玲が湯から上がって、風呂のドアを開閉する様子が聞こえた。

 ジャスト。冷凍してあるライムのくし切りを炭酸水に浮かべ、ついでにダイニングテーブルの上も綺麗に拭き清めて、待つ。

 余裕綽々で小粋に、冷たい飲み物を用意した綺麗な部屋で何食わぬ顔をして彼女の登場を待ちたいところだが、あいにく大急ぎの片付けによる汗が止まらない。玲の驚く顔が見たくて、私はめちゃくちゃ必死である。


 やがて、髪を濡らして頬を上気させた彼女がドアを開けた。


「いいお湯でした。ありが、おぉっ?」


 髪を拭き拭きお礼を言いかけた彼女が部屋の様子に目を丸くした。


「……人間の住む部屋になっている!」


 にっこり得意げな顔になっているだろう私は、黙って炭酸水を渡す。


「ありがとう! ありがとう! 頑張ったねえ。ていうか、あなためっちゃ汗かいてるねえ」

「ちょっと頑張りました」


 頭を撫でて労われる。へへ。二人してにこにこと平和だ。部屋は綺麗にしておくものだ。


 椅子へ座るよう彼女を促して、ドライヤーを手に持つ。我が家に泊まるときは玲の髪を私が乾かしているので、いつも通り彼女がドライヤーをリビングへ持ってきていた。丹念に玲の長い髪を乾かしつつ、飲み物に手を伸ばす彼女の腕へ目をとめる。

 私のスウェットは、玲には寸足らずだ。小さくはないが単なる棒のような私とは異なり、彼女はそれ以上にすらりとし、それでいて女性的な優美で柔らかい曲線を持つ完全美を体現したスタイルで、私のスウェットに身を包むと、つんつるてん仕様、かつ悩ましげな曲線美が強調された不思議なバランスの格好になる。

 ドライヤーの音に負けぬよう声を大きくする。


「ごめんね、服。いつも、玲には小さいだろうな、買おう買おうと思ってはいるんだけど」

「いいよ別に。不自由してないし」

「でも、なんか正直言うと、そのつんつるてんな感じで私の服着てる君を見ると、可愛いっていうか、萌えるっていうか、興奮するんだよね」


 ちゃんと聞こえるようにひと言ひと言区切って伝えていると、彼女は笑っているのか体を小さく揺らした。玲がちょっと振り返る。茶目っ気を効かせた目をしている。


「どうせいつも朝まで着てることなんかないんだし、わざわざ無駄な買い物することないよ」

「身も蓋もない」


 私も笑ってしまうが、確かにそうかと思う。

 丁寧にブローを続けた彼女の髪は今夜も艶々と輝きを放っている。背中側からさらさらと戯れに髪を流して見事な美しさを確かめる。


「シャンプーのCMくるねこれ」

「おかげさまで。ありがとう」

「じゃあ、お風呂入ってきます」


 ぺこりと頭を下げると、


「はい、お待ちしております」


彼女もぺこりと頭を下げてくれる。

 見合わせた顔はだらしなく緩んでいる。へへへ。私も同じようなものだろう。

 近付いてまたキス。今夜は見境なくちゅっちゅしているけれど、その価値が大暴落するかというとまったくそんなことはない。

 静かに何度か唇を重ねてから顔を離すと、メイクを落として普段より少しだけ見た目の幼くなった玲が、恥ずかしそうに笑っている。


「なんか、今日ちゅー多くて照れる」

「久しぶりなんだもん。明日、唇オバケみたいに唇腫らさないよう気をつけようね」


 いい加減お風呂をさっさと済まさないと、夜の時間が短くなってしまうので浴室へ向かう。背中に声がかかる。


「何か本、読んでていーい?」

「いーよ」


 この子は毎回律儀に聞いてくるので微笑んでしまう。部屋を出る間際に視線を向ければ、早速本のタワーたちの隣で顔を横にしながらタイトルを吟味しているようだった。可愛いったら。



===============


 可及的速やかに、しかし体の隅々まで入念に磨きあげて風呂から上がった私は、果たしてソファの上で猫のように丸くなって眠る彼女を見つけたのだった。


 か、可愛いが、しかし、がしかし……と煩悶の気持ちを抱えつつ、タオルでがしがし頭を拭きながら、寝室から毛布を持ってきてその猫にかけてやる。本に指を挟んだまま寝ていらっしゃる。まさに寝落ちといった体。この人は可愛さの極限を体現してやまない。

 撫でくり回したい気持ちをぐっとこらえ、目線の高さを合わせて、起こさないようそうっとその形のよい頭を撫でる。あどけない表情で眠る玲には、この先良いことしか起こらない気持ちにさせられる。触れる指の先から幸せが流れ込んでくるようだ。


 期待ではち切れそうになっていたぎらついた欲望はしぼんで、代わりに穏やかな充足感が満ちていった。

 抜き足差し足でドライヤーを脱衣所まで持って帰り、髪を乾かす。

 だが、ソファで変な体勢のまま眠り続けるのもあまり疲労回復には貢献しない気がするので、いつかは途中で起こさねばならないだろう。このまま朝を迎えるのは私が寂しいから、とかでは決してなく。本当に。うん。



 照明を絞ったリビングで、玲が視界に入ると集中力が削がれるので、背中を向けて山積みになっているタスクをノートパソコンでやっつけていく。

 本当に仕事が増えているので、スケジューリングも難しい。ほうぼうへの気遣いや根回しも、面倒ではあるが大切な仕事のうちのひとつだ。事務所内外のパワーバランスを考慮して立ち回らなければ、玲にも余計な負担を強いる。私はいまだにこれが得意ではないので、特にこの部分で彼女が背負っている部分が大きいのではないかと思う。

 今日の撮影だって、同じ事務所の年次が少し上の子と、他の事務所だが大手のところに属する子に挟まれ、だが人気の勢いでは玲が一番、という立場で、彼女もかなり気を遣っていた。

 私がマネージャーとしてもっと関係者各位と円滑に根回しできていれば、より玲は目の前の仕事に集中できたはずだ。申し訳ない気持ちで頭を搔きむしりたくなるのをこらえ、できることを積み上げていくだけだ。


 静かな暗い空間でキーボードを叩き続けていると、そのキータッチの音にどんどん集中力が研ぎ澄まされていく。時間の経過も忘れて没頭していると突然、首と胴体に何かがするりと絡みつく感触がした。


「ヒッ」


 驚いて大げさな声をあげてしまう。ふふ、と笑う気配がすぐ耳元でして、囁き声が届く。


「ごめんね、寝ちゃってた」


 椅子の後ろから玲が私の体を抱きしめて、首筋にひとつ口付けを落としてくる。


「……よかった。あれだけ期待させておいてこのまま朝まで寝ていられたらどうしようかと思った」


 何の未練もなくすぐさまパソコンを閉じて背後の彼女を見上げる。にこにこと明るい。


「寂しかった?」

「ええ、とっても」


 彼女は滑らかな動きで膝の上へと座ってくる。先ほどまでのからりとした無邪気な笑顔は、一瞬にして蠱惑的な色を帯びる。こちらの肩にしなやかな腕を載せて、絡め取るような視線を寄越す。


「疲れてない?」


 にやりと笑って正直に答えてやる。


「ぎんぎんです。一瞬で臨戦体勢にさせられてます」


 彼女は妖しげな雰囲気も散らして声をあげて笑い、私の肩に顔を埋める。からからと笑うその息すら、今この身には切ない。

 顔を上げさせ、柔らかいキスを何度か。やがてそれも深まっていく。

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