ホタカ・セトによる『我々の恋路を困難にさせうる3つの問題とは何か』(『恋人たち_I』)


 スマートフォンをいじっていると思ったら吐息をこぼして、テレビにぼうっと目を向け始めたかと思えば、速読できたんだっけと思える速度で雑誌を興味もなさそうにぱらぱらめくってぞんざいに投げ出したり、指に髪を巻きつけて遠い目をしたり、またため息をついたり。

 休憩も兼ねた、打ち合わせまでの長めの空き時間、広くはない楽屋に二人でいて、視界の隅でちょこちょこと彼女は落ち着かなくて鬱陶しい。


「じっとできないの。うっとうしいなあ」


 正直にぼやくと、まず首をこちらにす、と向け、次いで椅子から立ち上がり、そして、つつつ、とこちらのいる畳までやってきて、少し離れた場所にちょこんと座る。あ、かまってほしいサインだったか。まんまと奴の術中にはまってしまった。面倒くさい。


「めんどくさい。いい、いい、寄ってこんで」


 腕を伸ばしてストップと意思表示するも、彼女は当たり前のごとくスルー。


「やっぱりさあ、私の中で疑惑があるんですけど」

「何が?」

「……未唯さんってあなたの好みなの」


 玲は真剣な面持ちでぐい、と迫ってくる。

 またそんな話か。



===============


 先日、玲と次の現場へ向かう途中で、街なかの大きな広告に未唯が写っているのを見つけた。

 折りよく赤信号で停まったハンドルの上へ身を乗り出し、フロントガラスから屋上広告塔を見上げた。


「ほら。未唯ちゃん」


 指差して助手席の玲に言えば、彼女も前のめりになって、


「ほんとだ」


前髪から水を滴らせて顎を引き、どことなく不敵な笑みを浮かべてスポーツ飲料を手に仁王立ちする未唯の写真を見た。


「未唯さん、最近いろんな仕事してるね」

「ねー」


 彼女にとってやりたい仕事ができているだろうか。面白く、やれているだろうか。

 近頃の彼女の仕事を見かけるに、なんとなく、大丈夫だろう、と思える。


 ふっと笑って車を発進させて、何とはなしに気配を感じて視線を横にやると、玲が何か言いたげな様子だった。


「何?」

「……べっつにー……」


 絶対、別に何もなくないだろう、と断言できる言い方で、玲はふいと視線を外した。




 そして別の日には、雑誌撮影のために赴いたスタジオで未唯もたまたま撮影を行っていた。

 私たちの現場は少し離れた先にあるため歩行の途中で目にとめるくらいだったが、それでも生で未唯の撮影風景を久々に見ると、その印象的な彼女の出で立ちが目に灼きついた。


 玲は、撮影時には空間を圧倒して呑み込む迫力を示し、そこにいる人々全員を釘付けにするような強さがある。未唯の場合は、居合わせた者の心を細い点でひと突きしたのち、その場に執着することなくふっと去ってしまうものの、彼女に穿たれた跡がなぜかいつまでも気になってしまう、といった魅力がある。

 先ほど一瞬見かけただけでも、その点の深さは以前よりも増したように感じた。返答する撮影スタッフに対して自然と向けられていた、自分の知る彼女にしては柔らかい表情も、なんだか嬉しかった。



 などと考えながら歩いていると、袖を引っ張られる感覚があり、原因へ振り向けば、玲のむくれた顔がある。


「何ですか」

「なんか……未唯さんを見てからの、あなたのその慈愛に満ちた表情が非常に気になったんですが」

「いつも私は慈愛に満ち溢れているよ?」

「そうは思わないけど、じゃあ、いつもの百倍は溢れてた」


 むーと半目を向けてくる玲に笑って、百倍の増し増しになっていたという己の慈愛要因を探る。


「そうだねえ。親みたいな感情……なのかなあ。あの子も立派になって、みたいな。子どもの成長を嬉しく思う親心がなせる菩薩の表情だよ」

「あなたの年であんなに大きな娘なんてむりじゃん」


 あくまで納得しようとしない玲の様子に苦笑し、それならば、と彼女の耳へ口を寄せて言う。


「私はもう玲を純粋な親目線では見られないけど。したいことも、できなくなる」


 すぐに離れて彼女の顔を見やると、彼女はその意味を正しく察したらしく、首から上にさっと朱色を走らせた。


「……」


 無言で足を速めた彼女に、この話は一件落着と思っていたのだが。




===============


「……」


 "未唯のことが好みなのか"とくだらない質問を投げかけてきた玲へ冷たい一瞥をくれてやって、背中を向けてノートPCでの作業を再開する。


「黙秘権を行使するとは、怪しいであります! 署に同行するであります〜!」


 そう言って彼女は服を引っ張ってくる。


「服が伸びる。やめて」


 再び温度のない目線を向けて静かに言うと、


「う」


彼女はたじろいで手をそろりと離す。そして、膝からぱったりと床に倒れこんで大の字にうつ伏せとなった。


 行き倒れの図を無視してパソコンに向きなおると、背後で「しゅるしゅる」と畳を擦る音がして、腰に温かい何かが絡みつく。ちらりと振り返ると、畳へ腹這いになった玲が、こちらの腹に腕を回し、顔をくっつけていた。


「妖怪かよ」


 見上げてくる顔は不満げに膨らむが、言葉は返ってこない。

 その腕に触れようかと手を伸ばしかけるが思いとどまってキーボードへと戻す。するとさらに腕がきつく回され、顔が寄せられたのがわかる。

 ああもう、可愛いったら。



 今はこんなに触れ合っていてもなんとか自我を保っていられるけれど、少し前までは小指でしか触れ合えなかったのだ。


 それよりももっと以前は、彼女の唇に指で化粧品を馴染ませるのもなんとも思わなかったのに、今やその唇に手を伸ばすときは、あらゆる場面で何かしらの感情を抱いてしまう。仕事においても、仕事とは別の時間においても。




 ――私たちの関係がはっきりと変わった日のことを思い出す。




===============


 私へ向けられた"素人マネージャー"との揶揄に憤り、酒に酔ってうずくまった玲へ対し、ただの仕事のパートナーでは決してありえない接触をしてしまった翌日、こちらの不誠実さゆえに彼女を泣かせてしまった日。きちんと話そう、と言い置いて彼女をドラマの撮影現場へ送り出したのち。


 公私ともに彼女と寄り添って歩いていくのだ、と輝かしい未来と期待へ胸を膨らませて彼女と離れたものの、セットの中で光を浴びている玲を見ているうちに、夢想した未来へ影が射していく。



 深夜まで及んだ撮影を終え、玲を家へ送るために駐車場へ向かう。努めて、浮かれても沈んでもいないニュートラルな態度を心がけながら、そっと伝える。


「昼の話の続き、誰にも聞かれないように、車の中ででもいい?」

「……うん」


 隣の玲が身を固くして小さく答えた。



 少し空気が春めいて緩む日も時折あるが、深夜はまだまだ冷える。愛車に乗り込んですぐに暖房の出力を上げる。空調が力強く稼働するゴーという音がうるさいくらいに車内へ満ちた。


「……」


 体を捻って、助手席に座る彼女と向かい合う。彼女の顔は強張っている。

 小さく息を吸って話し始めようとしたが、こちらの表情に暗い予感を感じ取ったか、遮るようにして玲が先に口を開く。


「待って」


 唇を噛んで一瞬目を伏せてから、玲は囁くようにして言う。


「……ずるいかもしれないけど、私から言わせて。私の、気持ちから伝えさせて」


 まだ暖まっていない車内で、白い息がふわりと浮かんで宙に消えた。

 黙って頷くと、彼女はどこか悲痛な決意を滲ませていた表情をゆるゆると柔らかくほどき、しゃべりだす。



「あなたはいつもちゃんと言葉にしてくれるよね。『綺麗』、『すごい』、『立派だ』、『よかった』、『いつも頑張ってるね』って。私、それがすごく嬉しくて。きちんとそばで見てくれてる人がいる、っていう安心感と、もっと頑張ろう、もっと魅力的になってやろうって、やる気をもらえて。

 でもね、いつの間にか、いくら、綺麗だ、すごいってあなたから言われても、それだけじゃ物足りないって感じるようになったの。他の人にどれだけ褒められたって、あなたのひと言には代えられない。でも、その嬉しくてたまらないひと言すら、そのうちそれ以上を求めるようになっちゃった。

 ……あなたは、誰より私を認めてくれてるのに、いちばん認めてほしいところは全然気付いてくれないって」


 首をほんの少しかしげて、懐かしむように、どこか自嘲めいて微笑む玲は、一点の曇りなく綺麗だ。今この瞬間にも、とても綺麗だってことを伝えたい。

 儚げだった彼女が数瞬瞑目して、それから目を開くと、はっきりと意志を宿したその瞳に射抜かれる。



「私はあなたが好き、どうしようもなく」



 身体中の血液が、細胞が沸き立って、その声を、表情を漏らすまいと全身を駆け巡っている。


「いつでも優しくて、好奇心に満ちてて、飄々として軽やかで、私が行き詰まったら簡単に違う場所を示して手を取ってくれる。あなたと一緒にいると、こんな風な世界の見方があるんだって、目が開かれてく感じがする。世界には楽しいことがたくさんあるんだって、そう思える。メイクをしてくれるとき、真剣な目で見つめられると、息が詰まりそう。綺麗だったよって心から伝えてくれると、すごく嬉しい。

 ……でも、その言葉以上の意味を持たないなら、いっそそんなこと言わないで、とも思う」


 頬を少し上気させて、ふわりと微笑みながら話す玲に、体温が上がり、動悸が早くなる。


「『綺麗』って言って、思ってくれるだけじゃ足りない。私は、……私は、あなたにとって本当の意味での"特別"になりたかった。それができないなら、せめて、私のこの気持ちを知ってほしかった。

 ……でも、こんなこと、もちろんあなたには言えなくて。……だから、私の気持ちに気付いてくれたんだってわかったとき……マネージャーを辞めないって言ってくれた夜、お店を出たあと、道路でちょっと黙り込んでこっちを見たでしょ。その目だけで、それだけで、ああ、私の気持ち、とうとうバレちゃったんだなあって焦る気持ちと、だけど、やっと気付いてもらえたって、嬉しさが押し寄せた。

 気持ちに気付いてもらえたら、それだけでいい、それ以上は望めない、望まないつもりでいたはずなのに、……いやあ、人間っていうのは欲深いよね」


 はは、と笑って、玲は鼻をかき、


「……あんまり言い募っちゃうと、あなたも切り出しづらいよね。私からは以上です」


そうして不安の入り混じった顔で微笑むのだ。その表情に胸が痛む。



「ありがとう。玲にそんな風に言ってもらえて、本当に、本当に嬉しい。……私さ、ここ2週間くらいでひっくり返るような気持ちの動きっていうか、今でも信じられなくて、混乱してるところがあって……。奇跡体験アンビリバボーの渦中なの」

「そこまでアンビリバボーなことじゃない」


 ぽつりと合いの手を入れてくれる玲に微笑む。


「私の妄想か、ドッキリじゃないかと疑ったぐらいだけど、なんかどんどん意識しちゃって、止められなくて。だって……だって、ずっと玲は私にとって、お天道様の上の、触れられない奇跡みたいだったんだよ?」

「毎日、それこそ私よりも私の顔に触れてるのに?」

「うん。触ってても、届かない、そういう存在。嘘みたいに綺麗で可愛くて、何をしてても絵になって皆の注目を集める。だからといって傲ることもなく、他人に親切で尊重することを忘れない。才能に溢れてるのに本当に頑張り屋さんで、くるくる表情が変わって楽しくて、甘えん坊で、いつでも前向きで、世界に対して新鮮な目を向けてて、真剣で……眩しくて。うん、すごく眩しいんだよね。

 さっき君は、世界には楽しいことがたくさんあるんだと思えるって言ってたけど、そうやって次々新しいことにチャレンジして楽しんでる君の姿に、私も毎日勇気づけられてるんだよ。

 だから……そう、『こんなに魅力的な女性が、まさか、私を?』って。

 ……でもさ、私は長いこと自分で気付いてなかった、のか抑えつけていたのかわからないけど、どうやら、ずっと……」


 息を深く吸って、震えそうな体を落ち着かせる。真正面から玲の目を見て、届け、と言葉を伝える。


「私も……玲が好き、です」


 彼女は、泣き出しそうな顔をして、長い手指を口元に押し付けている。


「それで、お昼に君を泣かせるような失態を演じてまで、ようやっと、よし、どんどんいったれ、好きなんだから、と思ったんだけど。……あの、私たち両想いです。両想い、ですよね?」


 この期に及んで、まだ認識に不安があるので確認してしまう。彼女は急いでこくこくと頷いてくれた。


「両想いならば、折り目正しく交際を申し込みたいところ、なんですが。でもやっぱり、お付き合いする前に立ち止まってきちんと考えておきたいことがあるの。聞いてくれる?」

「……はい」




 咳払いをして、居住まいを正す。わかりやすく、三本の指を立てて愛しい人へ語りかける。


「大きく分けて問題が三つあると私は考えています。……まず一つは、私たちが同性だってこと。でも、これはあくまで触れておくべき事項ってくらいで、私にとってはどうでもいい問題です。好きなんだから」


 きょとんとした顔つきで、玲がおうむ返しで言う。


「好き、なんだから」

「好き、同士でしょ?」

「好き、です、すごく、とっても」

「――私も玲が好きですよ。だから、それなら、そこは当人同士ではクリアだと思うの。玲はどう?」


 彼女は天を仰いで、脱力していた。


「……なんか、そう軽々とそこを飛び越えられると、私の、今までの葛藤というか……」

「うん、まあそこは別に気持ちをねじ伏せてまでどうこうというハードルではないと思ってる。だって……好きになったんだから。でも……これはあとでまた言うね。君はこのことについてもう少し話したいことある?」


 ふふ、と力なく彼女は笑って首を振る。


「ううん、私は散々悩んできたけど、そんな必要はなかったんだって、今わかった。それならこれ以上無駄なことに頭を悩ませたくない」

「はい。では次の問題について話しますね。二つ目は、年齢についてです。君は、若い。ソーヤング」

「年の差が気になるってこと?」

「いえいえ、私の精神年齢が幼い、もといフレッシュで、君は年の割に老け、いや老成、いやシッカリ」


 ここで肩へ羽のように軽いグーパンチを頂戴した。年の差8歳。このようにじゃれつくのを楽しむアラサーが私。


「とにかく、精神的なところでは別に年の差を感じることはないです」

「若々しくなくて悪かったね」

「年下であっても君から学ぶことが多くて尊敬してるよ」


 ――休学中とはいえ、彼女が学生であることに若干の後ろめたさは感じるのだけれど。ここは……見逃して、お天道様!


「じゃあ何が問題なの?」

「はい、問題というのは、……いくつになっても恋は楽しめると思うけど、うーん、やっぱその年齢でしか楽しめない恋愛ってあると思うんだよ」

「私の年齢でしか?」

「うん、君みたいな年頃って、すごく楽しいときだなあって思う。人生の中でもめちゃくちゃいい時期っていうか。いろんなことが目新しくて、柔らかい心によく響いて、すぐにそれを吸収して、どんどん変われる。成長できる。

 さっきは同性であることは構わないと言ったけど、……でも、さ、君は有名人でしょう。

 本当は、女同士で何が悪いって堂々と、他人がどう言おうと公然と仲良くしたいし、それが正しい、っていうか、それを正しい・正しくないとか考えること自体ナンセンスだと思う。でも、それを当たり前にそういう風に振舞った場合に、芸能界での君の居場所を守れるほど、私にはまだ力がない。だから、お付き合いできたとしても、それをオープンにはできない。

 ……それは、わかってもらえる?」


 静かに、彼女は頷く。


「わかってる。仕方がないことだと思う」


 もし、私がもっと力のある人間だったらどうだろうか。この素晴らしく魅力的な好きな人を、なに憚かることなく、全世界に自慢しながら堂々と幸せにできたのではないだろうか。そんな空想から目をつむって距離を置く。



「そう。それで……私は、人生の中でもいちばんいい時期の、君みたいな年齢の子に、陰日向の恋をさせるのは申し訳がない、とそう思っています。誰にも言えず、祝福される機会のない恋をさせることは、今の若い君の時間を……奪うことになるんじゃないかと」


 伝わるだろうか、年齢だけは彼女よりも重ねている私が今この歳で過去を振り返って、彼女の歳の頃の貴重さ、その素晴らしい時期に、誰にも明かすことのできない恋をさせてしまうことへ抱く憂慮が。

 だが、彼女は不満げに、声も低く返答する。


「そんなの、勝手に決めないでよ。私がどんな恋をどんな風にやろうと、それがただ陰気でつらいものだなんて決めつけないでよ。もちろん、あなたと恋人になれたら、本当は大っぴらに、手を繋いで道を歩いて、一緒に色んなところへ行きたい。それができないのはわかってる。……だけど、それでも、私が何歳でどんな恋をすべきかなんて、そんなことをあなたにお膳立てしてほしくない」


 そして、とん、と自らの胸を突いて、毅然として言う。


「これは、私の恋なの。私は、今、あなたが好きなの。21歳の今、たまらなく好きなの」



 ――ああ、もう、この人は。なんて格好いいんだ。



「……そう、だね。本当にそうだわ。私が口出しすることじゃあなかった。ごめん」

「私は私の恋をやる。あなたもあなたの恋をやって。二人の恋が重なるところで、一緒にその恋をだいじにしていけばいいんじゃない?」


 己の頭を抱えてしまう。


「うわ〜……もうなんか、もう、……さらに惚れてしまうやんか……? こんな口説き方ある……? こんなまっすぐ……言われて……」

「く、口説けてた?」

「そりゃあもうがっつり口説かれた、さらなる恋の深みにフォールインした。……こんなかっこよくて可愛くて強い子に好いてもろて……あたい苦しい……幸せすぎて……。私も好きだよ……まじに……どんどん好きになってって身の危険を感じるくらいに……」


 こちらのダメージの受けっぷりにつかの間狼狽していた玲が、はっとして、機を見るに敏とばかりに口早に言う。


「あっねえじゃあもうよくない? さっさとこの恋、平和に成就させよっ? 付き合っちゃおっ?」


 彼女から受けた衝撃にいまだよろめきつつも、軽い雰囲気でなされた提案に安易に流されまいと足を踏ん張り、改めて三本指を立ててファイティングポーズを示す。


「……いや、まだ三つ目、最後の問題があるんです。これはいちばん厄介ですよ……」

「ね、今更だけど、お付き合い前に恋の障害ポイントをTED風にプレゼンテーションされたくない。普通もっと勢いで恋人たちって誕生するものじゃない?」

「プレゼンじゃない、だいじな話し合い。そして今、私、四つ目の問題に気付いちゃいました……」

「えっもうなに、増やさないでよ!」


 半狂乱になって抗議する彼女に、ホラー漫画のコマを意識して言い返す。


「それはこういう私の面倒臭いところだーーっ!」


 楳図かずおの作画で思い浮かべてください。

 だが、彼女は慄くことなく、投げやりな口調だ。


「……もう、いいって、それ込みで好きになっちゃってるから。早く三つ目の問題とやらを解決しよ?」

「……ノーモーションで好きとか差し込まれると、照れちゃうじゃん」

「プレゼンターさん、持ち時間迫ってます、スライド切り替わってますから早く次へ」


 腕時計をとんとんと指し示しながらクールに諭してくれる彼女へ、愛しさがこみ上げる。


「TEDだったらプレゼンターが自分でスライド切り替えるじゃん」

「じゃああなたがスライドの操作もままならない下手くそなプレゼンターってことでいいよもう」


 呆れ返りつつ、笑いがこぼれている玲にこちらもにやけながら、最後の懸念について切り出す。



「三つ目、最後の問題なんだけど。――私たちは、モデルとマネージャーという関係だよね。ほとんどの時間を一緒に過ごす仕事のパートナー。今のところ、とてもうまくいってる関係だと思う。よね?」

「異議なし」

「それで、これからもしお付き合いをすることになって、プライベートでもパートナーとなった場合に、私情と仕事が分けられなくなるのを、私は恐れてるのね。

 ……私はさ、すごくビビりで心配性なんだよ。始まる前からこんなことを言ってごめんだけど、プライベートな関係性を結んでそれを維持するのって、すごく難しいよね。その関係性が絶対に永遠に続くとは限らない。修復不可能になって、決別することもあるかもしれない」


 彼女はじっと黙ってこちらの言葉を聞いている。


「私はさ、『玲』のマネージャーだけど、ファンでもあるんだよ。もっと活躍するすごい玲を見たいし、見られるはずだと思ってる。でもその可能性を、もしも私たちの関係の変化や終焉によって潰してしまうことがあったら、それは世界にとって損失だと思うんだよ。

 はっきりした言葉で形容できるのが"仕事のパートナー"ってだけの今なら、玲がもっともっと仕事で成功する可能性は単に君の頑張りと、運次第ってところだと思う。

 でも、私たちが公私ともにパートナーになって、付き合って長くなればなるほど、そこに私たちのプライベートな関係性って要素が大きく影響するようになるはずで、それが……『玲』の行く道を妨げるんじゃないかと、私は怖いんです」


 そこまで聞くと、玲は首を落として、長く長く息を吐いた。そして、呆れたように首を力なく振る。


「……あなたって本当に……」

「……な、なんでしょう」


 彼女は素早く顔を上げて、きっとこちらを睨む。


「もうっ、ごちゃごちゃとうるさいよ! そんなのなるようにしかならないよ! 仕事もプライベートも充実させようよ、二人で! 世界の損失とかどうっでもいい! 私はあなたを好きなんだもん!」

「お、おう」


 その剣幕にひと言返すのが精一杯だ。彼女は両手を大きく広げ、たった一人の聴衆へ雄弁に語りかける。貫禄あるプレゼンター。


「私がね、今まで仕事を頑張ってこられたのは、あなたがいたからなんだよ、あなたに認めてほしくて、褒めてほしくて、がむしゃらにやってこられたの。

 逆に考えてみて? プライベートでもっと仲良くなったら、私絶対もっと仕事も頑張れる。それ、プラスですよね? 仕事もWin、私生活もWin、私もあなたもWin、Winの嵐、Winの奔流」

「Winでさらに輝く玲ちゃんを見られる読者や視聴者もWin……」

「そうです。いいポイントです。世界が幸せ、何より私が幸せ。あ、待って、付き合わなかった場合、そんなパワーアップバージョンの玲ちゃんを生み出す機会を失うわけで、それこそ世界にとって損失ってことじゃない?」

「なるほど……」


 畳み掛けるようにしてしゃべっていた彼女は少し黙って、真剣な眼差しで続けた。


「……これをね、マネージャーとして、タレントを頑張らせたいがために人参ぶら下げて走らせるみたい、だなんて思わなくていい。

 ううん。思っててもいいけど、でも大丈夫。そんな風に思わなくなるほど、これからあなたを私に惚れさせるから。仕事ぶりでも、女ぶりでも」


 勇ましく気炎を吐く彼女を見つめて、自らの熱くなった頬を両手で押さえる。私は、この若くて美しい女性にしびれるばかりだ。


「や〜……力強い。や、ほんと、かっこいい……」



 玲は片手を腰に当て、もう片方の手を上向けてこちらに差し出す。


「だからさ、余計なことは考えずに、ひょいっとこの私と付き合ってみてはいかがですか?」


 ――それ以外の行動などプログラミングされていないかのように、私の右手が彼女の手に重なる。


「はい」


「……」

「……」


 二人して、相好を崩しながら、しばらく黙す。




「玲に、交際を申し込まさせてしまった……」


 今更ながら、想定とは異なる状況に呆然とつぶやくと、彼女は盛大にため息を吐き両手で頭を抱えてうずくまった。


「あなたがいつまでも意気地なしだからだよぉ〜…。……ああ、結局、全然ロマンチックじゃなかったなあ……」


 笑いながら、夢を壊してしまったこととは別の罪悪感を覚え始める。


「ねえ、私が意気地なしだから色々心配事について話したわけだけど、こうしてみると、私と付き合うにはこんなリスクがありますよ、っていうのも全部わかったうえで、そのリスクをご納得して契約成立いただいたんですからって感じで、なんだろ、生半可に契約を反故にできないところに君を追い込んだような、そんな罠にかけたような、後ろめたい気持ちもしてるよ……」


 しかし、振り向いた玲はシニカルな笑みを薄く浮かべている。ぞっとするほど魅力的で抗いがたい淫靡な笑顔。


「私ね、今まで欲しいと思ったものはたいてい何でも手にしてきた。誰かが喜んで差し出してくれたり、自分で努力して掴んだり」



 彼女のような美しい人間になら、誰でも好意や下心を持って有象無象のあらん限りの贈り物を送ってきただろうし、そのうえ彼女は自分で並々ならぬ努力を継続できる人だ。凡人からしてみれば、およそ手に入れられぬものなどないように思える。

 一方で、過剰な好意や執着、いわれもない敵意や偏見など、望んでもいない感情や事態を様々な人間から押し付けられてきたであろうことも想像に難くない。

 "美人"とは孤独で、大変な生き物だ。


 けれど、そうした事情には一切触れずにただ『手に入れてきた』ことだけを妖しく笑って語る彼女は強い人だと、改めて思う。頷き返す。


「玲は、そうだろうね」

「……そんな私がですよ。こんなに、挫折しながら辿り着いたスタート地点ってなかったと思う。あなたとの新しい関係の始まりのことだけど。

 ……間違ってるのかな、こんな気持ち捨てたい、私ばっかりで、全然気付いてもらえない、あなたはずっとただの保護者目線、どころかわんこ扱いで、やっと気付いてもらえて、嬉しくて、絶対に振り向かせてみせるって意気込んでたら、思わせぶりとかって言われて、ッふりじゃねーよ! どれだけこっちが本気で想ってきたと思ってんだっつーの! って、」

「その節は失礼しました……」

「ええ。そうやってのたうち回ってどうにか手にした、今日、今のこの場所を、私がそう簡単に手放すわけがないんですよ」


 玲はひと呼吸置いて、地の底から生き返ってきた人のごとく、虚ろな目でつぶやいた。


「――そう、罠にかかったのはお前のほうだって感じなんですよ……」

「ッ、こわっっ…なんか重っ……」


 思わず身をすくませて恐怖を漏らすと、彼女は傷ついた顔をする。


「う、私だって怖いよ……! こんなに誰かのこと好きになったことないから、どうしたらいいかわからないんだよう、こんなの私じゃないって毎日思ってるんだよう……」


 そんなに私のことを。

 次第に声をしぼませて、うつむいてしまった彼女の肩を叩く。そして、身振りで想いを伝える。声はゴリラを意識。


「ワタシ、オマエ、スキ、ダイジョブ」

「え……なんでカタコト? 引いてるってこと……?」

「いいえ。君への愛しさの総量が私のCPUの限界値を超えて溢れてしまい、処理が追いつかなかったので、気持ちをごくごく雑に出力させていただきました」

「よくわかんないけど、愛しく感じていただけたなら幸いです」


 にへら、と笑い合う。


「じゃあ、夜も更けてますので、今日のところは帰りましょう……」

「はい……」




 いつも通り小さくラジオをかけて、深夜の街を車で走り出す。いつの間にか小雨が降り出しており、都会の灯りが雨に滲んで綺麗だ。

 二人してしゃべることなくしばらく走っていた。

 お行儀悪く靴を脱ぎ助手席の上で足を抱えて丸くなっていた玲が、窓ガラスに頭を預けて外を見ながら、ぽつりとつぶやく。


「あなたはアンビリバボーとか言うけど、私こそ今が信じられないな、本当かな、夢かな……」


 小さく漏らされた言葉に、胸が切なくなる。


「……玲は、いつ頃からわたくしをお慕いしてくださっていたのですか?」

「ん…んー……」


 隣の彼女をそっと伺う。玲はちらりとこちらを見つめ返すが、すぐ照れたように視線を外して、長い足の間に顔を埋めて言うのだ。


「秘密……」


 ああ……。


「……なんか致死量のキュンキュンを暴力的に投与されてる……にやにやして運転もおぼつかないよ……死ぬかも…?」


 陶然として言うこちらに冷静な声が飛んでくる。


「付き合えて即死ぬのとか嫌すぎるから運転に集中して?」

「じゃあこのキュンキュンを落ち着かせるためにちょっと玲さんブサイクになってもらえます?」

「それは無理なお願いだなあ」

「ィヨッ! この生まれながらの絶世の美人さんめ!」



 玲の家もそろそろ近くなってきた。明日のスケジュールを思い浮かべる。


「あー……やっぱなんか仕事に支障出そう……」

「どうして?」

「どきどきしすぎて、メイクするとき、君に触れられなさそう」

「それは、ほんとに致命的な支障だね」

「だから、予行演習していい?」

「え、どん……な?」


 硬い声で戸惑う彼女に慌てる。


「ごめんごめん、そんな身構えるほどのじゃなくって、ちょっとまじでリハビリぐらいのじゃないと緊張して爆発霧散してしまいそうだから、えーと、小指、小指だけで一回触れさせて」

「小指?」

「事故らないよう、次の信号待ちで」



 沈黙とともに動いていた車が、赤信号でゆっくり停車する。

 そろり、小指だけを伸ばして玲へ近づけると、彼女も小指を差し出してきた。


「なんで君まで小指?」

「それが自然かなって……」

「こんな状態、もう何も自然な部分がないけど、もういいや、はい」


 吸い寄せられるようにして小指の先同士が触れ合う。

 瞬間、電気が流れたかのごとく、指先から鳥肌が全身を粟立たさせた。


「……」


 知らぬうちに、小指が絡み合う。ぐわんぐわんと世界が回って平衡感覚を失いそう。

 彼女の目を見ると、彼女もまた、きっと私と同じ感覚を味わっているのだとわかる。



 彼女の顔を薄く照らしていた赤い光が、青く切り替わった。離れがたいが小指を解いて、無言のまま、車を走らせる。

 ――やばい、ほろ酔いのときみたいにふわふわしてる。まじで運転気をつけなきゃ。



 やがて、窓のほうへ顔を向けながら、ごくごく静かに独り言のように玲が言う。


「……幸せすぎる」

「……同感やで」

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