勿忘草の朝露の


 ああ、とうとう超えてはならぬ一線を超えてしまった。


 呆然と目を見開いていた玲を置いて帰った昨夜を、延々と思い出す。


 真に彼女のためを思うならきちんと自分を律するべきだ、その衝動に身を委ねてしまえば必ず後悔する、とわかっていたのに。



 自らの軽率な行動に頭を抱え、玲のマンションから逃げ帰って飛び込んだ酒場でしこたま酒をあおったがために、一夜明けて得た二日酔いと寝坊に再び頭を抱え、どうにか「二日酔い、寝坊、タクシー回す、ごめんなさい」とだけ彼女へメッセージを入れたら「了解」と短く返ってきた。


 彼女のこの簡潔さについては当初から好ましく思っていた点である。であるものの、酔っていた彼女は私の勝手な行いについては覚えていないかもしれない、と虫のよい可能性に賭けていたのだが、この返事ではそれもうかがい知れない。




 鈍く痛む頭を押さえて慌ただしく、ドラマ撮影のための楽屋に入ると、玲は何をするでもなく、すでに鏡の前の椅子へちょこんと座って待っていた。

 昨日の今日で対面を恐れていたが、その姿を目にして咄嗟に「お行儀のいい犬みたい。可愛い」などと一瞬思ってしまい、自らのゆるんだ思考に呆れ返って、腑抜けた面をさらさぬよう素早く目線を外した。



 道具をてきぱきと広げながら彼女の顔を見ないようにして声をかける。


「ごめんね」

「ううん。……大丈夫? 顔色悪い」


 二日酔いで遅刻などしでかす、どうしようもないマネージャー相手に優しい気遣いを見せる彼女に、


「なんとかだいじょぶ。……玲は?」


やや緊張しながら調子を尋ねると、


「――私は、別に」


ほんの数ミリ秒、彼女の返答が遅れたのを察知する。そこにどんな逡巡があったのか。


「……そう、よかった。もし私が玲の顔に吐きかけそうになったら、ケープを翻すなりして防衛よろしく」


 いまだ鏡に背を向けているが、彼女が微笑んだのが気配でわかった。

 ケープを広げて、柔らかい彼女の髪を背に流す。普段なら惹かれるシャンプーの香りだが、今日はどうにも二日酔いの症状を自覚させるだけのものでしかない。みっともない。自分の役割すら満足に果たせない。


 ――でも。臆病な私は、遅刻によって彼女とゆっくり顔を合わせる時間がなくなったことに、内心ほっとしている。



 私にとっては都合の悪いことに、今日は立派なメイク台付きの楽屋だったので他人のいるメイクルームへ行く必要もない。この部屋には私たち二人だけだ。

 ひどく酒に酔っていた彼女は、昨夜の別れ際の出来事も記憶にないのではなかろうか、と淡い期待を寄せて、あわよくばそれに乗じて何もなかったふりをしようと卑怯にも考えていたが、どうやらそんな状況ではなさそうだった。

 彼女が何か言いたげに、遠慮がちに視線を投げてくるのがわかる。対面するときには直接、そうでないときには鏡越しに。

 撮影開始まで時間がないということを盾に、きびきびと機械的な手つきで、それらを無言で撥ねつける。


 道具が立てる音以外、部屋には沈黙しかない。



 抗いようなく張り詰めていく空気のなか、彼女はひとつ喉を鳴らしてつばを飲み込み、とうとう何か言葉を口にしようとする。

 だめだ。何か、違う話題を。ああ、頭の働きが鈍い。何も思いつかない。間に合わない。



 すると、無骨なノックの音が大きく部屋に響いた。

 すぐさま、「どうぞ」と何食わぬ顔で声を返す。間一髪。救われた心地がする。


「すみません、玲さん、ちょっと変更したい台詞があって」


 ディレクターが台本を手に部屋へ飛び込んできた。


 彼女は普段と変わりなく、背筋を伸ばして応対している。

 昨夜の出来事へ言及されるはずだったろう言葉が、無事阻まれたことに対するこちらの安心感が漏れ出ないよう、私は慎重に浅く息を吐き出す。



 しばらくして、嵐のようにやってきたディレクターは「じゃあ、ちょっと前のテイクが伸びてるんで、10分ぐらい押しになるかと思います! よろしくお願いします!」と元気よく頭を下げて、また嵐のように去っていった。

 そしてまた二人きり。



「……あの脚本家さん、最後の最後まで本をいじるって有名だけど、ほんとなんだね」


 沈黙が怖くて、当たり障りのない話題で隙間を埋めようとする。

 不誠実だとは、わかっている。


「うん。……でもこんな端役の短い台詞でも、お話にちゃんと影響する役柄なんだなって思うと、嬉しい」


 書き込みがいくつもされた台本を手にして、玲はしみじみとした調子で噛みしめるように言った。


 ――いいな。そういう風に感じられる彼女を誇らしく思う。

 思いがけず鏡の中の彼女に微笑みかけていた。今日初めてまともに目が合って、小さい雷に打たれたかのごとく、はっと彼女が息を呑んだ。慌てて鏡から目を戻して、グロスの色を確かめていた自分の左手の甲を見つめる。



 もう少しでメイクは終わるから。あとちょっと。


 ……でも、こうやって私はいつまで逃げ続けるんだろう?



 リップクリームを手にして正面に立つ。玲はこちらを静かに見上げている。私も勇気を振り絞ってその目を見返して立つが、どうしてもおどおどと瞳が揺れてしまうのが自分でもわかる。


 なるべく何も思い出さないよう無感情にリップクリームを引き、コンシーラーを指で丁寧に叩き込む。すぐにリップライナー。気の強い役柄だから、唇の輪郭もはっきり強調させたい。

 唇の外周を本来の形より少し大げさ気味になぞっていると、昨日の夜のことが思い出される。



 触れたくてたまらなかった柔らかそうな唇。

 街灯の青白い光に照らされて輝く瞳。

 下ろされていくまぶた。



 喉が鳴ってしまう。部屋へ存外大きく響いたその音に、ばつが悪くて玲の表情を伺う。

 笑うでも気付かなかった様子を見せるでもなく、彼女はただただ静かにこちらを見つめ返している。気圧されて、口紅へ目を落とす。



 リップブラシを手に再び顔を上げると、玲は俯いていた。一瞬躊躇したが、指をそっと彼女の顎にかけて上向かせる。

 いつもやっていること。昨日もやってしまったこと。


 面を上げた玲の表情は硬い。決然として、ゆるぎない。

 まったくの無防備だった昨夜の表情が頭の隅に蘇る。

 それを振り払って筆を唇に這わせようとするが、いつもと違って、塗りやすいようにその唇が協力的に開かれることはなく、真一文字に結ばれたままだった。


「……口、ちょっと開けて」


 喉がひきつれて、声がかすれてしまう。


 彼女はたっぷり3秒の無言、微動だにしなかった。互いに言葉を交わすことなく、押し黙って見つめ合う。



 射抜くようだった彼女の目線が、ふと揺らぐ。

 紅い唇がほんの少し開かれて、そしてゆっくりまぶたも閉じていく。



 カタタ、と音がして、自分の手から筆がこぼれて床に落ちたのを知る。

 激しい動悸ごと抑え込むようにして自分も床にしゃがみこんだ。


 筆を拾って、でも立ち上がれない。暴れ馬のごとく心臓がはしゃぎ回っている。

 リノリウムの床を見つめながら、情けなくも不平をぶつけた。



「…ばかっ。リップなんだから、口だけで……、目は閉じなくていい…っ」

「……だって……」


 悪戯っぽい軽口が返ってくるとばかり思ったのに、小さく絞り出すような声音だったので、驚いて彼女を見上げた。



「だって、なかったことに、したくない……」



 玲の大きい瞳に涙が溢れそうになっていた。

 素早く立ち上がって、ティッシュでその目元を押さえる。



 涙が出てしまうほど彼女を苦しませたこと、そして撮影前の顔を台無しにさせるわけにはいかなくて、仕事の一環として、涙すら流させないこの身の咄嗟の行動に、ずきずきと胸が痛む。



「ごめん、馬鹿は私だった。ちゃんと向き合わずに、君を不安にさせた」


 ティッシュを受け取って目元を押さえる彼女は、弱々しく首を振る。


「泣く、つもりはなかった。大げさになっちゃってごめんね」



 はっきりとした恥と苦さが、つま先から頭まで充ちていく。

 自分はなんて、不甲斐ない、卑劣な人間なんだ。

 彼女を傷付けたくなんてないのに。ちっぽけな恐れから、彼女をこうまで追い詰めてしまう。


 私は、私は。



 玲の腰掛けている椅子を回転させて、こちらの真正面へ向ける。

 ティッシュを持っていた彼女の両手のうち片方を取って両手に包み、片膝をついて、座る彼女に目線の高さを合わせた。

 今はまっすぐに彼女の目を見て言える。


「違う、大げさじゃない。玲が悲しくなるのは当然だった。そうさせる振る舞いを、私はした。情けない」



 さっきまで跳ね回っていた心臓は不思議と落ち着いていって、覚悟が決まる。

 大きく息を吸う。


 ちゃんと、真摯に言え。

 彼女は黙って次の言葉を待ってくれている。



「勇気が……なかった。ごめんなさい。

 玲は、私にとって大切なひと。――それは、ただの仕事相手ってだけじゃなくて……もっと、別の、個人的な……。それを思いがけないかたちで、勝手な振る舞いで、昨日の夜は伝えてしまって……不安になっちゃった。ごめん。

 ……でも、今夜。このあと、仕事が終わったら。ちゃんと話そう。……話すから」


 きゅ、と祈りを込めて玲の手を握る。

 玲はくしゃりと表情を歪ませると、うなだれて何度も頷いた。そして残った片手で器用にティッシュを両目へかかるよう広げて仰向く。


「……う。う、ま、また……私を泣かす……っ」

「ご、ごめん。……でも、やばいな本番前に……」


 なんて可愛らしいの、という想いと同時に、職業人としては微笑ましく思ってちゃいかんだろ、という焦りを抱く。撮影まであと少しの時間しかない。泣き腫らした目で彼女をスタジオへ入らせるわけにはいかない。



 もう一度手を強く握って軽く上下させてからそれを離して、部屋に備え付けの冷蔵庫へ足早に向かう。

 何か冷やせるものはないか。冷凍室で作られた氷を期待したが、製氷皿は空っぽだった。代わりに、銀と青と赤で彩られた細長い缶を凍った状態で見つけた。急速冷却しようとして冷凍室にぶち込まれたまま忘れ去られたか。清潔なタオルにそれをひっくるんで玲へ手渡す。


「なんでレッドブル? 元気になれよって?」


 すん、と鼻をすする玲がきょとんとしている。笑いそうになるがそれどころではない。


「凍ってたから。それで冷やして。私は現場にちょっと遅れるって言ってく――」


 無情にも、また荒々しいノックの音がして、返事も待たずにくたびれた雰囲気のAD風の男性がドアを開ける。


「玲さん、5分後、そろそろ本番で……す?」


 タオルとエナジードリンクで目を隠している玲の姿に彼は目を丸くした。


 遅れる旨を伝えに行こうとしていたものの、理由まではまだ思いついていなかった私はすぐさま事情を説明できず、硬直してしまう。

 視界が奪われているものの、素早く状況を理解した玲が平然と話し出す。


「ちょっと、コンタクトがずれて目を傷付けちゃったみたいで。あと……10分くらいしたら行けると思います。本当に申し訳ないんですが、監督に5分ほど遅れると伝えていただけますか?」

「はあ……うっす」


 レッドブルで頑なに目を隠したまましゃべる玲の間の抜けた姿に釈然としない様子ながら、AD君はおとなしくドアを閉じて去った。



 玲は頼もしい。

 タオルの隙間からスタイリッシュな色合いの缶を見せつつ、それでもって目元を隠す、なんらかの戦隊マンみたいな見た目になっていても、きちんと仕事をする。翻っての自分ときたら。

 腰を折って頭を下げる。


「助かった、ありがとう。私はマネージャーとしても、ヘアメイクとしても失格。何より、ただの人としての振る舞いが最低だった。ほんっとにごめん。

 玲はすごい。玲はできた子だよほんとに。玲は絶対大成する。あと今の玲の見た目は戦隊もののヒーローみたいで私の心をとても癒している。君は、美しくて強くて格好いい、私のヒーローだよ」


 ふふ、と彼女はくすぐったそうに声を漏らす。

 そして凍った缶を少し浮かせて、まだちょっと赤い目元をさらして鏡越しに視線を寄越した。


「私は完全無欠のヒーローにはまだまだほど遠いひよっこだから、マネージャーとしても、ヘアメイクさんとしても私をこの先も助けてほしいです。

 ……あなたがそばにいてくれるなら、私はどこへでも行ける。何にだってなれる。

 だから……これからも、あなたと一緒にいろんなものを見て、壁を乗り越えて、大成を目指して頑張りたいと、私は思っています」


 彼女は恥ずかしげに、しかし莞爾と笑う。


 無手で人ひとりの心臓を握りつぶしやがる。ヒーローどころではない。恐るべき、可憐な、対私専用破壊兵器。慄くしかできない。


「……お、漢気が溢れすぎちゃあいませんかね、兄貴ィ……。僭越ながら……、このあっしも……兄貴を支えて、引っ張って、その美しさと高潔さをますます高めて崇め奉って、どんどんビッグになる兄貴を見つめて、共に世界に打って出る……そういうことができる兄貴の隣にいようと……思ってまさぁ……兄貴ィ……」


 彼女は再び缶で目を隠し、呆れた声音で「兄貴って何、もう」と言うが、口元は柔らかく緩んでいた。


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