心千々に乱れて(東風吹きて_Ⅰ)


 あの夜、抱擁を解いて離れたときに見た彼女の表情が頭から離れない。



 振り返ってみれば、色々なことに符号が合う。



 彼女は基本的に他人に対してオープンで、親切だ。

 ただのマネージャーにもよくしてくれて、本当にいい子だと思ってきた。


 だが、彼女が私にこれまで示してきた"優しさ"や"親しみ"が、単に彼女の生来の気質に由来するものではないとしたら?

 もし、もしもこの私に対して何らかの"特別な感情"を抱いて接してきた結果なのであれば。



 注意深く、彼女の態度や振る舞いを観察してみた。

 一度何かの仮定のもとに立って物事を見てみると、それに合致することばかり目につくのが常であるわけだが、はたして、曇りのない目で私は状況を分析できているだろうか。あまりにも甘美で都合の良い絵空事みたいな仮定が、私の感じ方に影響を与えてはいまいか。



 ……。

 いや。でも。いやいや。ありえないって、ほら。



 ――だが、そう。彼女はとっても私に好意的だ!


 いや、以前からそれはわかっていたけれど、その好意のカテゴリーが異なる。

 遊びたがりの犬ちゃんが懐いてじゃれついているとばかり思ってきたけれど。



 記憶を掘り返し、彼女の言動と仮定を照らし合わせてみる。


 あのときのためらい。喜び。苛立ち。落胆。恥じらい。苦笑。昂揚。

 言葉は。眼差しは。献身は。



 愕然とする。

 そんな。まさか。



 ――でもだって、今まさに、こんなにも彼女は好意を表してくれている!




===============


 あの夜以降だって、もちろん毎日仕事で顔を合わせる。

 これまでの認識と足場がそっくりひっくりかえるような目眩を感じながらだって、仕事は今まで通りにこなさなければならない。


 ヘアメイクは、施す対象の人の顔の様々な部分に触れるし、何と言っても距離が近い。

 玲との、距離が近い。


 怯みそうになる気持ちを押し隠し、職人のプライドをかけて、これまでと変わらぬ様子で職務を遂行している私を、誰か全力で褒めるべきだ。

 メイクにとりかかる直前は内心、「ッシャオラー! かかってこいやァ! 甘っちょろい緊張なんてこのわしがぶち倒したらァ! やれるもんならやってみい!」と分厚い胸板をドラミングしながら咆哮している。決死の覚悟で凶暴な気持ちを高めて、その実、涼しい顔をして手に持つのは滑らかな筆やカラフルなパレット、ビューラーなどなのだが。

 作業に没頭しているうちに余計な雑念は飛んでいくので、つくづくメイクが好きでよかったと思う。



 今日のメイクルームでは、ヘアメイク仲間の坂本ちゃん、モデルのNちゃんといういずれも顔馴染みの面々と時間が重なった。

 メイクルームに他人がいれば、おかしな考えごとからも気が逸れてありがたい。


 眉毛を整えられながらスマートフォンを見つめていたNちゃんが口を開く。


「ちょっと前にH駅に新しくできたビルあるじゃないですか。行ったことあります?」


 てきぱきと作業を進めながら、坂本ちゃんも軽やかに返答する。


「うんうん行ったー。混んでてエスカレーター乗るのにも苦労した」

「あそこの最上階のカフェのチーズケーキがすっごく美味しいらしくて」

「あー私もこないだ友達と並ぼうとしたけど、列が長すぎて諦めたわー」


 確かガラス張りのおしゃれな気取ったカフェだった。あの頃も大した混雑ぶりだったけれど、ケーキの美味しさと店内のおしゃクソぶりがSNS上で話題となった今ではもっと人気店になっているのだろう。

 二人の会話へ割り込む。


「そのお店、できたばっかりの頃に玲と行きましたよ」

「えー本当ですか。どうでした?」

「私はチーズケーキじゃなくてフルーツタルトでしたけど、やっぱり美味しかったですよ。玲はチーズケーキだったよね」

「うん。チーズケーキ、濃厚なのにさっぱりしてて美味しかったよ。コーヒーも丁寧に淹れてあってよく合うの」

「そっかーいいなあ。行きたいなあ」


 手は止めず、坂本ちゃんが鏡越しにこちらへ視線を投げてきた。


「ほんと、君ら仲いいよね」


 私と玲を指して"仲が良い"とは周りから今まで散々言われてきたものだったが、現在となってはその評価にも内心どきりとしてしまう。


 この近しさは"普通"の範囲内か?

 思わず、鏡の中にいる玲をちらりと見てしまう。彼女もこちらへ視線を向けていた。


 彼女が坂本ちゃんに返答する様子がないので、焦りにちりつく額を押さえて、


「やーこんな綺麗な"妹"がいたら構いまくっちゃうでしょ〜」


鏡から目を逸らしながら言うものの、鏡の中から玲が一瞬じっと見つめる気配を感じる。見透かされるようでたじろぐ。


「"姉"がシスコンすぎて鬱陶しいんですよ」


 ゆっくりと彼女が言う。


「えーいいよねえ、瀬戸ちゃんがマネージャーって」

「天国だよお。私のマネージャー君なんて生気のないフリーターみたいな感じでさあ。一緒にカフェなんて行ったって絶対楽しくないもん。玲ちゃん、マネージャーさん交換しよ?」

「絶対やです」


 きっぱりとした言葉に、手元のパレットへ下げていた視線を目の前の生身の玲へ向けると、彼女は挑発するような微笑みをたたえてこちらを見上げていた。

 ぞくりとする。


 そう、彼女はしたたかで、あざとく、このうえなく美しいのだ。

 近頃の私の観察するような気配と動揺を見てとって、彼女は好意を隠そうともしないし、あまつさえ揺さぶるような振る舞いすらする。


 これまでだったら何の気なしに交わされた軽口も、何らかの意味を感じ取ってしまう。

 詰まりそうな息を静かに逃す私など当然おかまいなしにあちらの二人はおしゃべりを続ける。


「玲ちゃんったら、即却下だよ。ま、それはそうだよね」

「ヒュー、瀬戸ちゃん愛されてるねえ」


 ――おい、坂本! さかもっちゃん! やめろ! 愛だの恋だの、今の私にとっては禁句なんだよ!

 私の中で世紀末を生き抜く凶暴なドラミングマンが手の中のパレットを握りつぶす幻想。


 これまでなら、「愛されてるし、愛してるねえ。愛し合いだねえ」なんて軽々しく口にしていた場面だが、今、それを言うほどの蛮勇は持ち合わせていない。



 メイクルームは鏡の王国だ。鏡が一面に並び、同じく向こう側に配置されたそれが互いに互いを写し合って、鏡の迷宮を作り出している。

 少し目を巡らせば、室内にいる全ての人間の様子はわかって、鏡に取り付けられた無数の丸い電球が、顔のシミやシワ、表情ひとつ取り逃がすまいと煌々とあまねく光を放っている。


 坂本ちゃんの冷やかしに私がどう反応するのか、三人の注意が鏡越しにこちらへ集中するのがわかる。

 ごく近くには玲がいて、玲に背中を向けてもすぐ鏡があって、それならばとあらぬ方向へ体を向けようと、あらゆる鏡が協力しあって全てを映し出してしまう。逃げ場がない。下手に動揺もできやしない。


「……ァ、ありがてぇこってす」


 窮地に追い込まれて、しゃがれた低い声でぼそりとつぶやくことしかできなかった。


「なんだ。急にジジイだなー瀬戸ちゃん」

「へえ。ジジイだけどヘアメイクやらせてもらってやす」

「ジジイがおすすめする旬のメイクは?」


 坂本ちゃんが手を止めて訊いてきた。


「……眉を全部抜いてお歯黒にするのなんか、最高に艶っぺえと思いやす」

「うわあ。モテる時代が限定されそうな」

「抜かないでよ。絶対抜かないで。ちょっと、ピンセット持たないでってば」

「やっぱり私、おじいちゃんマネージャーよりはフリーター君がいいなあ」


 ははは、とひとまず場が笑いに包まれたので胸を撫で下ろす。




 仕事における苦労でいうと、もうひとつ深刻な問題があった。


 モデルさんは次々と服を着替える。

 ランウェイの現場では、スポットライトが照らすステージ上と狭い舞台裏をモデルが入れ替わり立ち替わりで往復するが、舞台裏では人がぎゅうぎゅうに入って皆慌ただしく立ち働き、戦場の様相を呈する。悠長に着替える場所も暇もないので、そこここでモデルたちは優雅さのかけらもなく早着替えを行い、メイクも数人がかりで取り付いて同時並行で施す。


 忙しなさとけたたましさの中で、モデルたちの美しい裸は色っぽさを感じさせることも感じることもないのだが、それでも、ふとした瞬間に玲の身体が単なる身体以上に知覚されて、どうにも居心地悪く感じるようになってしまった。まとう衣装によっては下着も着けないことだってある。


 舞台裏におけるモデルさんたちの裸は、普通の裸ではない。磨き上げられ、各々の美意識に照らして丁寧にメンテナンスされた身体は、彼女たちの誇りが詰まった武器である。

 そのシルエットや質感はそれぞれにとても美しい。そんな身体に対して敬慕や賞賛の念を感じるのは自然としても、"欲情"するのはなんだか彼女たちと現場に対する非礼や無粋な行為のように私は思うのだ。――思うのだけど。



 メイクするにも着替えの頻発する現場へ入るにも、いったん気合いを入れてから臨まないと、浮ついた気持ちに自分の職業人としての矜持が容易に侵食されるのを感じられて、つらい。




 ――などと、懊悩する日々。

 風呂上がりにドライヤーで髪を乾かしていると、益体のない考えをぐるぐると追いかけ始め、いつの間にか中途半端な乾かし具合のままドライヤーを置いていたり、鼻の下で髪の毛を結んで髭の形にしていたりなど、不審な挙動に至ることが多くなってきた。


 今日もまた、生乾きの髪を鼻の下で髭にしてしまっていた自分が鏡の向こうから見つめている。

 まるで思春期の子どものようなうろたえっぷりではないか。近頃の十代だってこんな風に取り乱したりはしないだろう。

 ちゃんとしたい。もやもやとした気持ちを振り切りたい。


 そうだ、髪をばっさり切ろう、と思いたつ。

 仕事も忙しくなってきて、長い髪を乾かすのも、出かける前にアレンジをあれこれ考えるのも面倒だと思ってきていたところだ。

 明日のスケジュールはちょうど、午前中の早い時間なら美容院に駆け込めそうだ。


 これはとてもいいアイディアに思えた。




===============


「……わ、思い切ったね」


 美容院で思いのほか時間を食ってしまったので、玲にはタクシーで来てもらって、メイクルームで直接落ち合うことにしたのだった。

 肩甲骨あたりまで伸ばしていた髪を、前髪長めのショートボブにした。すっきり! 頭が軽い。首筋寒い。

 この華麗なる変身を指しての玲の発言だった。


「そ、こんなに短くするの久しぶりだわ〜」


 中学生以来かもしれない。

 引っ越しや転職が不安を感じながらも心踊るように、ガラリと自分が変わるのは気持ちのよいことだ。他人にとっては大したことのない変化でも、本人からするとちょっとしたジャンプが必要な転換というのは、その跳べたことだけでも嬉しい。無条件にうきうきする。



 メイクボックスを開いて準備しているそばで、玲も鏡の前の椅子へ座った。

 ケープを彼女の肩へかけていると、鏡の向こうから視線を感じる。

 鏡の中で玲とばっちり目が合った。


 我ながらよいショートになったと調子づいている私は、反射的にウィンクを鏡の中の玲へ投げる。

 一瞬、虚をつかれた様子の彼女だったが、そこはさすがのモデルさん。茶目っ気たっぷりに完璧なウィンクを返してくださった。


 バキューーン……


「くはっ……」


 おどけて胸を押さえてくずおれてみせたが、実際、その可愛さに心臓がぶち抜かれていた。


 あかん、調子乗りすぎてた……。

 悪戯めいた口元から白玉のような歯をちらりと覗かせて、プロのメイクを施す前からバチバチに長いまつげが派手に上下し、親しみの込められたアイコンタクトを自分だけに宛てて飛ばされる。

 その弾速、命中度、破壊力、特別感たるや。

 美人のウィンクは人を殺す……軽い気持ちで美人さんにウィンクなんて飛ばすもんやない、返り討ちにされて死ぬ……。



 浮かれて無防備になっていた自分を戒めつつ、気合いを入れてメイクに臨む。

 髪を大胆に短くして無敵になったつもりだったが、相対するのは天下無敵の玲ちゃんであるぞ。ウィンクだけで居並ぶ屈強な男どもを地に伏せさせる、ウィンクキラー・玲。

 そして私はこの人をもっと最強にすべく、丁寧で繊細な仕事を彼女の顔や髪に施すのだ。



 ……殺人マシーン・玲を最強にチューンナップするマッドサイエンティストを演じているつもりだったが、ほどなくして、その化けの皮が剥がれてくる。集中ができない。


 なぜなら、とっても見てくるのだ。

 殺人マシーン・玲がとっても見てくる。めっちゃガン垂れてくる。次の標的はお前だ、どこまでも追いかけて必ず殺してやる、とばかりにロックオンされている。

 殺人マシーンがもたらす死への恐怖のためではない。恥ずかしさ、あるいはなんとも形容しがたい苦しさから、心臓が速いリズムを刻む。体温が上がる。


 メイク中というのは、カメラのシャッターを切るかのごとく、パッ、パッとごくごく短い瞬間、幾度となく鏡を振り返ってメイクアップの出来栄えを確認するものだ。

 ただ純粋に仕事の一環で、不意打ちのように鏡を見るのだけれど、そのたびに目を逸らされると、なんだか、だるまさんが転んだ、を玲としているような気分になる。

 きっと本人としては意思を持って見つめているわけではないのだろう。時々はっとしてその視線を自ら引き剥がすも、ややすればまた吸い寄せられるようにして視線を注いでくる、というルーチン。


 ウィンクをされずとも、その様子だけでじわじわと殺されている。


「あ、あのー……」


 鏡越しにも、ましてや直接なんて無理なので、化粧を施す手を止め、くるりと彼女に背を向けて、床を見つめながら声をかける。


「なんか、……やっぱり変かな?」

「――え?」


 ぽかんとした彼女の声が背中から聴こえる。


「いや、なんていうか、君…すごく見てくるから……。短いの、私似合わないかなあって……」


 慌てた様子で彼女は言う。


「えっ? あ、ううん、違うの、ごめん! 似合ってるなあと思って、それで、つい……ごめん」


 うん、きっとネガティブな反応ではなくて、そういう風な気持ちから見てくれてるんだろうってわかってた! ああ、恥ずかしい!


「……ありがとね……」


 ぼそりと背中越しに礼を述べてから、深呼吸して彼女へ向き直る。

 今の私は著しく体温上昇している体感があるけれど、玲だって負けないくらいに顔が赤い。


「アイシャドウ塗るんで、目を閉じてくださいまし……」

「……」


 顔を固定するために彼女の皮膚へ触れた指が熱い。

 閉じた彼女のまぶたが震えている。下唇は何かに耐えるように巻き込まれている。


「……」

「……」


 しばらくして、いたたまれなさのあまり、鏡の前の机に両手をついて声を荒げてしまう。


「なんでこんなに照れ合ってるの私たち!」

「ご、ごめん、見ないようにするから!」


 ばっきゃろーめ! 髪を切ったらすっきりするんでは、ナイスアイディア! とか考えた昨日の私のばっきゃろーめ! ドツボだわ!



***


 ……とは言っても、ひとたびメイクに集中しだしたら、ふわふわとした気持ちも徐々に落ち着いて、目の前の人を美しくすることのみに意識が向いていく。私、プロでよかった。ちょっとギリギリ感あるけど。

 ヘアメイクがなんとか無事完了した。



 広げた化粧道具を片付けながら、何気なく目を上げた先の鏡越し、玲と視線が重なった。

 姿を追いかけられていたんだろう、と直感する一方で、知らないふりを装ってしまおうか、とつかの間揺れる私の視線と、偶然目が合ってしまっただけだ、と振る舞おうか迷う彼女の視線。


 一瞬の躊躇の末に逸らされた彼女の目尻に浮かぶ、甘やかな歓びの気配。



 心臓が、ぎゅうと絞られるようだ。

 ……あの、めちゃくちゃに、慕情を感じるんですが?



 恋を。恋をすると。

 知らぬ間にその人の姿を目で追いかけてしまう。

 声が聞こえれば、自動的に聞き耳を立ててしまうし、他人との会話の中でその名前が出てくれば、自分は関係ないのにどこか体は硬く身構えてしまう。

 その人の痕跡が物や空間に気配として残っていれば、ほの明るく、和やかで愛しい気持ちが湧き上がってくる。


 その人とひと言でも交わせれば、言葉は交わせずとも目線が交われば、その人がただ自分の存在に気付いてくれれば、抗いようなく、その日は一日中幸福感に包まれてしまう。


 ……そういう、思春期の狂おしいような、止められない、どうしようもない一瞬たちを、私も覚えている。


 それらが、あの目尻の柔らかさには詰まっているように思われて。

 

 ――――――。

 ―――。

 


===============


 撮影現場を眺めている。

 薄暗いスタジオの隅から、まばゆい照明のもとカメラに対して昂然と振る舞う玲を見ていると、改めて彼女はすごいと思う。


 無責任に浮ついていた気持ちが、すうう、と地表に降りてくる。



 しなやかな体を、ときに儚げに、ときに妖しく、ときに力強く、彼女はまるで魔法のように作り変えている。

 持っているのはひとつの身体だけだ。それだけで、周囲の空気を一変させてしまう。

 指示を与える指も、声を発する必要もない。

 少し重心を、視線をずらすだけで、少しの動きだけで、周りの人間は呑まれてしまう。


 どう表情を動かせば、どう目線を与えれば人の心をざわめかせるか、捉えられるのか、彼女は熟知している。

 意識的であれ、無意識的であれ、彼女の身体は知っていて、それを使いこなす。

 愚かなる下々の人間たちは、底知れぬ彼女の考えをどうにかして汲もうと、慌てふためき、奔走して、熱狂し、呆然とする。




 ある疑念が頭をもたげてくる。


 私は、おちょくられているだけではないだろうか。

 さんざんモテ倒してきた女の子が、年上の女をからかって遊んでいるのではないか。


 こんなに魅力的な女性が、なんだってこの私を? まさか、そんなはずがない。


 それを勘違いして、舞い上がってしまって、私は馬鹿ではなかろうか。



 そうだ、それに、私はつい最近までこの子のことを、若ーい、きらきらしてる、とそれこそ保護者であるか、動物や植物を愛でるような気持ちでいたではないか。

 ……たぶん。そうだった、はずだ。



 ――彼女の姿を私の目が追いかけてしまうのは、彼女が常識的に見て常識外れに魅力的であるからだし、直接話していなくても片耳で常にその声を拾ってしまうのも、彼女に関する話題を小さなことでも覚えているのも、マネージャーとしてそうあることで、彼女の身の回りの世話に役立てられるからだ。そうでしかない。断固として。



 だが、とも思う。私側の事情はそういうことにして据え置くにしても。

 今まで多くの時間を共に過ごしてきて、玲の人間性は知っているつもりだ。

 彼女はそんな風にして人の心を弄ぶような人間だろうか。そんなことは、絶対にないのではないか。


 だとしたら。あの目尻に浮かんだ、恥ずかしそうな甘い歓びの色は……?


 ……いや、あれだって私の錯覚に過ぎない。

 そうあってほしい、そんな幸運がこの身に降り注ぐなら、などという、身勝手でおそろしく夢見がちな妄想が生んだ幻想だ。



 少し頭を冷やさねばならない。距離を置いて、心を落ち着ける必要がある。


 私は、彼女の……単なるマネージャーで、ヘアメイクさんなのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る