第65話 補・トロッコ問題
トロッコ問題とは、倫理学における有名な思考実験だ。
「マルコさんは、トロッコというものをご存知ですか?」
私のいきなりの質問に怪訝な表情を浮かべる老執事は、しかし記憶を掘り起こす。
「トロッコでございますか?確か、山岳地帯で掘り出したものを運ぶ、箱のような物だとか。」
なるほど。この世界にもトロッコはあるらしい。
なら話は早い。
ちなみに彼が持ち出したナイフは受け取って、私達の間に置かれたテーブルに乗せた。
「これはもしもの話です。」
そう前置きをする。
「トロッコが暴走し、その先には5人の作業員がいた。貴方は、目の前のスイッチを切り替え、彼らを救うことが出来ますが、その道には1人の別の作業員がいる。貴方は、スイッチを操作するべきだと思いますか?」
「それは……。」
私の問いに、マルコさんが口をつぐむ。
しばらくの後、彼はこういった。
「それは、しかし、答えの出ない問題ではありませんか?」
「その通りです。しかし、時に人は答えがないと分かっても答えを選ばなければいけない時があることは貴方ならお分かりでしょう。ゼルバギウス家という大貴族に使える執事であるなら、時に小を殺して大を選ぶことも、必要な筈です。」
私の言葉に彼はなんとか、という調子で口を開く。
「それでは、私が貴方様を森に捨てたことは必要なことだったと?そんな。そんな、子どもを捨てるなどと言うことが、正当化される筈がない!」
マルコさんの声が大きくなり、腰が浮きかけるのを、私は手のひらを向け制止する。
「お気持ちは分かります。そして、繰り返しますが、私が捨て子だからといって、その捨てられたゼルバギウス家のご長男と同一人物とは限りません。」
「しかし、その方もルークというお名前でした。私があの方を森に捨てたのは3歳を過ぎた折。ご自分のお名前も言えた筈です。確かに当時の記憶をお持ちかまでは判断しかねるお年ですが。」
一般的に、はじめての記憶は3歳前後。それ以前の記憶は残りにくいと聞いたことがある。確か幼児期健忘とか言っただろうか。
「なるほど。同じ名前でしたか。しかし、私がいくつで拾われたかは聞いたことがありませんが、私の名前は師匠が付けてくださったと聞いています。ルークというのも、あの土地では珍しくない名前なのは、マルコさんもご存知でしょう?」
私の説明に今度は黙るマルコさん。
先程の病気のことといい、今の名付けのことといい、師匠の名前を使った嘘が増えていく。
が、ミリア師匠には勘弁してもらおう。
嘘を信じさせるコツは、多少の真実や権威を混ぜること、なのは常識だ。
「では、もし私が本当にゼルバギウス家に生まれていて、マルコさんに森に捨てられたのだとしたら、貴方はゼルバギウス家を救ったことになる。」
「それは、先程の死者が出るというお話ですか?俄かには信じ難い同じですが。」
彼の疑問は最もだろう。
しかし、それは女神と会った時に思ったこと。
もし私があのまま魔力を増やしていたら、死人が出たのではないか。
そして女神が否定しなかったということは、おそらく事実。少なくともあり得た未来である可能性が高い。
「ただの嘔吐と思われるかもしれませんが、まずは歯や口の中が傷つき始め。それが日常化すれば次は血を吐くことになるでしょう。」
「なんと!それはまことですか!」
マルコさんが目を開く。
彼に説明は出来ないが、胃液とはかなり強い酸性だ。日常的な嘔吐が体に悪くないわけがない。
「師匠から教わったことなので、間違いはないかと。この病気は確かに珍しいものですが、お話しを聞く限り、そのゼルバギウス家のルーク様も同じ病の可能性は高いでしょう。」
まあ、実際は同一人物なのだが。私は説明を続ける。
「私も師匠が作ってくれた魔道具であるこの仮面のお陰で街でも生きられるのですよ。」
「珍しい仮面とは思いましたが、なるほど。ラト様の作品ならば効果も確かでしょうな。」
そうマルコさんは頷いている。
「まあ、そんなわけです。逆に私からお聞きしたいのですが、何故そのルーク様は捨てられたのですか?」
それは根本的な理由。
「それは……。」
言い澱み、顔を伏せる。が、すぐに顔を上げ彼は話し出した。
「きっと蔑まれるでしょうが、私にはあの時はそれが最善に思えたのです。ルーク様を思い出すたびに辛そうになさるご当主様が忍びなく、レイ様という存在がいる以上、誰からも愛されない子どもに生きる価値はない。そう思っておりました。」
その発言は、控えめにいっても最低だった。
「それ故に私はルーク様を森に捨てたのです。主人の苦痛を取り除くのも私の役目と思っての行動でした。」
老執事の言葉は続く。
「実際、私はルーク様を森に捨てた後、非常に清々しい気持ちになっていましたし、主人を始め屋敷中の人間から褒められこそすれ、非難されることはありませんでした。」
私が屋敷中の人間から嫌われていたと、改めて思い知る。
ここで彼の表情がさらに苦痛に歪む。
「ですが、それから5年後。いえ、予兆自体はその数年前からありましたが。私は、私達ゼルバギウス家の人間は罪悪感を覚え始めたのです。」
子どもを虐待し、あまつさえ捨てておきながら罪悪感も覚えない姿にこちらこそ吐き気を催す。
が、同時に事態の異常性も理解する。
なぜ時間をおいて罪悪感を覚えたのか。
その疑問に答えが出る前に、話は先に行く。
「それまでルーク様の名前は禁忌とされていましたが、レイ様が6歳になる前には、使用人の入れ替わりが行われました。ルーク様を知る全ての使用人は良心の呵責に耐えきれず屋敷を去って言ったためです。」
「私もまた、自分の犯した罪に耐えきれず命を断つことを決めました。そして主人であるジルグ様達に最後のご挨拶をしようとした時に事件が起きました。」
「奥方であるエリアス様の自殺未遂です。毒を煽られた奥様は、しかし幸いなことに屋敷にあった上級ポーションで命を取り止めました。奥様自身、毒などの知識をお持ちでいらっしゃなかったことも幸運でしたな。しかし、ジルグ様達もまた良心の呵責に苦しめられていることを目の当たりに致しました。」
「そして私は思ったのです。せめてレイ様がご当主を継ぐまでは、死ぬことは許されないのではないかと。どれだけ後悔しようとも主人を支え家を残すことが、この私への罰なのではないかと。」
「結果として、大罪を犯しながらも死ぬこともせずに生き長らえてきてしまいました。」
「そして貴方様に会い、老いぼれの死に場所を見つけたと確信したのです。私の命は家のためではなく、ここで償うために残ったのではないかと。どうか私の命で、ゼルバギウス家に関わるのを止めていただきたいのです。今貴方の存在が表に出れば、ゼルバギウス家は揺れ、やっと心に平穏が訪れようとしているジルグ様達を苦しめることになってしまう。」
こうしてマルコさんは口を閉じた。
なんと言うか。なんと言うか、なんだよな。
「お話は分かりました。かつてゼルバギウス家で起こった事と、貴方やお家の方が苦しんだことも。」
それで罪悪感があるから罪が消えるとは思えないが、被害者の私が気にしてないのだからどうしようもない。そうである以上、死に場所なんて言われても迷惑でしかないのだ。
「しかし、今のマルコさんは冷静ではありません。」
「私が冷静でない、とは?」
「貴方は罪悪感を抱えて、その罪滅ぼしに私に殺されたいのかもしれませんし、それだけの事をしたのかもしれない。私と言う存在が真実はどうであれ、ゼルバギウス家にとって邪魔になりうることも、そのために貴方が命を捨てると言う話もギリギリ理解しようとすれば出来ないこともありません。」
「ならば!」
「だからこそ、私の迷惑を考えて頂きたいと言うのです。」
「ご迷惑をおかけするつもりは。」
「迷惑ですよ。もしここで私が貴方を殺せば、私はただの人殺しでしょう。さらに言えば、護衛期間中に大した理由もなく離れれば冒険者としても非難される。貴方の提案は、私にとって害でしかないのですよ?」
それはよく考えるまでもなく当たり前のことだ。
マルコさんの目にも理解の色が見え始める。
衝動的に復讐すれば、今度は自分が苦しむ羽目になるし、何度でも言うが私に復讐の意思はない。
「私は今の人生が。今までに得た仲間や師匠との出会いが気に入っています。こんな顔ですが、居場所も見つけることが出来ました。私の生まれが何であれ、私は復讐を望みはしないのです。」
思えば、師匠以外に復讐しない事を宣言するのははじめてかもしれない。女神はまあ、ノーカンだろう。
「ですから私の望みは、期限まで護衛を続け、その後も仲間達と旅を続けること以外にありません。その事をご理解頂きたいのです。」
しばらくのち、マルコさんが言葉を発する。いや、もしかしたらすぐに返答していたのかもしれないが。
「そう、ですな。ルーク様のおっしゃる通りです。私はただ、罪悪感から逃げたかっただけなのでしょう。かしこまりました。貴方の望み通りになりますよう、私も尽力致します。」
「ありがとうございます。私もここで聞いた話は忘れましょう。きっと、それがお互いのためですので。」
「何から何まで、本当に感謝いたします。」
そうして私達は別れるのだった。
きっとまた、明日からも昨日の続きが待っている。
この会話は、今までもこれからも存在しない。
なぜなら私は、森の魔女に拾われたただの冒険者ルークに過ぎないのだから。
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