1-10 「撤退する! 鐘を鳴らせ! 総員撤退だ!」

これから帝国は内乱に突入するわけだが、その原因は、皇帝への忠誠や、虐げられた民の解放というような綺麗なお題目ではなかった。当然、反旗を翻す側としては、権力を封じられている皇帝の解放を大義名分に掲げはするが、そんなものは口実でしかない。


実際は、中央集権を目指すアルベルトと、権力回復を要求する地方貴族の権力闘争だった。


アルベルトが実施した政策の中で、最も好評かつ不評だったのが、大幅な減税だった。平民達の実収入を査定する手段が未熟だった時代、名目上の課税額が徴収されていたとは限らない。しかし、いくら収入がごまかせるからとは言え、農作物の年貢率が五割ともなれば、生活は困窮する。実際は三、四程度しか収めないとしても、それでもなお高税率と言えた。


宰相の地位に上り詰めたアルベルトは、平民に対する税率を基本として一律一割と定めた。十分の一税として布告されてもう何十年かたつが、全土に広まっているとは言いがたい。この減税の恩恵を受けているのは、大都市を中心とした一部に留まっている。唯一、アルベルトの直轄地であるブランデルン王国だけは全土で徹底されているが、これは例外中の例外だ。


減税が実施されるに当たり、帝国から査定官が送り込まれるはずだった。税の徴収権を手放そうとしなかった地元貴族に配慮し、その土地の民から、どの程度の徴収を行うべきかの判断だけを中央政府が行うことになっていた。だが、貴族達はこれも拒絶した。自分たちの私腹を肥やすには、もっと多くの税収が必要だったからだ。


貴族達にも言い分はあった。長い間、帝国が外国への抑えの軍しか持てず、内部での反乱や暴動を鎮圧できなかった時期、地方の安全を守ってきたのは地元の有力者たる貴族だった。騎士や兵士、傭兵達を組織して山賊を討伐し、近隣との最低限の交流を確保したのは自分たちだという自負があった。


そしてまた、あまりにも大きな組織に依存し、地方の管理を委ねることは、帝国が衰退したときに再び混乱を呼び込むことになる。より長期にわたって安定した帝国を保持するためには、地元貴族の維持が必要である。


アルベルトに登用され、まだ間もない頃のエリスが尋ねたことがある。


「おーさまはものすごい怖がられてるけど、税率下げたの? 上げたんじゃなくて?」

「そうだ。儂は民の暮らしを楽にしてやってるんだ。そんなに怖がられる謂われはないんだがな」


どうして自分が恐れられているのか、魔王自身にはよく分かっていないらしい。大衆が理屈や利益など、合理的な判断をするとは限らないことは理解していても、やはり納得がいかない。


「強い国を作るって言ったじゃない? お金なくても作れるものなの?」

「儂が言うのも何だが、最強の力とは、すなわち数なんだよ」


劣勢を覆して勝利したことをきっかけとして、アルベルトは台頭した。少数精鋭を地で行く男の言葉としては、意外なものだった。


「皇帝は一人。王は数人。貴族も、まぁ数えられる程度だ。だが、平民はどうだ? 誰がそれを数えられる」


数こそ力。力は数の中にある。その思想の果てでは、平民を国家の中枢に据えるのが当然という答えが待っていた。


「所詮王も皇帝も、率いるのは平民だ。より多くの平民を率いた側が勝つ。騎士だ貴族だとのたまったところで、倍する平民にすら後れを取る有様よ」

「ふーん」


エリスが読んできた本の中でも、王が、貴族が、民衆の反乱に飲み込まれて消えていくことが多かった。


「でも、お金ないと反乱と戦う兵士も持てないし、おーさま困るんじゃないの? 私はお偉いさんがどうなってもかまわないけど」

「反乱が起きるからそうなる。起こさせなければいい」

「でも起きるものは起きるでしょ」

「なくすことはできずとも、抑制することは可能だ」


軍の中枢は常に平民が担っている。貴族を主力とした軍など見たことがない。平民を味方につけることができれば、軍は敵にならないということだ。


「暮らしぶりが維持されていれば、大きな反乱まで行き着くことはない。人は困窮して初めて、過激な闘争に身を委ねる。ほかに行き場をなくした最後にな。だから儂は税率を下げた。これで、山賊にならねばならぬほどの民は減っていき、治安維持のための戦力も削減できる」


アルベルトにしてみれば、地方の治安維持にかかるコストが大きすぎた。わずかばかりの地域、地方を守るために、多くの貴族、騎士、兵士が養われている。それは各地が自前の組織を持ち、互いに威嚇し合い、隙を窺っているから余計だ。治安維持のための戦力が、そのまま隣接地をかすめ取る戦力としても用いられる。


この分裂した組織を国家が統合し、必要な規模に再編成すれば、領土面積、領民人口に対する維持費は大幅に節約できるだろう。その分が平民の資産として残り、商業が活性化され、外国との交易も盛んになる。国は富み、人々の暮らしを保証する。民はそれを守るために、国家も守る。


最大多数の最大勢力によって守られた国が、そうでない外国に破られる道理はない。アルベルトの目は、外国に向いていたのだ。


王子アルフレッドが貴族達に担ぎ上げられたのは、猪武者のため頭が弱かったから、ではない。質実剛健を旨とし、騎士物語に出てくるような勇者を志した戦士にとって、個々の力に劣る平民達が国家の中核であるという考え方は、納得のいかないものだった。


治世の能臣、乱世の姦雄であった父に憧れた者として、個人の才覚よりも大衆の数が優先される世界を受け入れられなかった。まして、数を論じたその口で、珍しい才能の持ち主を集めて回っているのだから。思案することに慣れていない人間からすれば、ただの矛盾にしか見えないのは無理もない。


アルフレッドが魔王の統治に満足していないことは感じつつも、まさか反乱を起こすまでとは思っていなかった。アルベルトはここで、魔王の魔王たるゆえんを示すこととなる。


「ね、ねぇ、本当にこれで大丈夫なの?」


準備の整ったアルベルトは、一万二千の兵を率いて都を発った。五千の兵で帝都を預かるのは第三王子フリードリヒであり、旧友にして王国元帥のエルンストを付けてある。


アルベルトは援軍として、正体不明の反乱勢力の鎮圧に乗り出した。どこにどのくらいが潜んでいるのかは不明だが、それほどの規模となれば、伯爵や公爵などが裏で手引きした部隊だろうというくらいは誰でも分かる。そのため、十分な戦力を動員したというのが、表向きの理由だ。


一路西に向かう彼らを出迎えるように展開したのが、アルフレッド率いる一万三千の西部軍だった。彼らがランカプールを空けて東部へ向かった理由は、アルベルトに出兵の礼をするため、ということになっていた。


もちろん、両者ともにお互いが嘘をついていることは承知済みだ。正確な事情を飲み込めていなかった各地も、きな臭さを感じ始めた。


アルベルトは街道を下り、エルティール伯領の東あたりでの会戦を予期していた。反乱軍としても、最も力を込めてぶつかれるいい場所だ。戦場を指定したかのように両者が進軍する中、突如としてアルベルトが隊列を抜け出した。


会戦予定地よりも南に砦がある。反乱勢力圏の東端に当たり、そこを抑えれば東側への流出を封じられる地点だ。今は少数の地元貴族の部隊が駐屯する程度であり、防御は固まっていない。王子の主力軍はアルベルトを北西から迎え撃つ形で配置され、砦に急行できる大部隊はいなかった。


その隙を突き、軽装部隊だけを率いて砦を奪取するというのがアルベルトの作戦だった。強行軍で距離を稼ぎ、反乱軍が砦の防御部隊を増員する前に落としてしまえばいい。そうすれば、西部におけるアルベルト達の拠点として使うことができる。


魔王が短期決戦に応じたと思い込んでいた反乱軍ならば、即座に対応することはできない。短期決戦をするつもりなら、その砦は戦いに関与しないはずだったのだから。


千人程度の別働隊の先頭を行くアルベルトに、エリスは不安そうに小声で尋ねた。ほかの家臣の目があるので、あまり大きな声で無礼な物言いはできない。


「何がだ?」


気にかけるべきこともないという感じで、魔王は逆に聞き返す。胸騒ぎのするエリスは、ほかの護衛達の様子も窺った。魔王の身辺警護を務めるのは親衛隊員だった。第二親衛隊が組織されたときに第一親衛隊と命名されたが、それまでは親衛隊といえば彼らのことだった。


彼らとは言うが、隊長は女だ。アルベルトよりもやや年長の、老婆、という雰囲気ではないが、いい加減現場は辛くなりそうな年齢だ。若い頃からアルベルトと共に戦い、守ってきた。魔王の武芸師範でもあり、姉代わりも務めた弓の女神ヒルダ。瞬きする間に十人を射殺したという伝説の持ち主。マリーが最も恐れる女だった。


百戦錬磨の護衛達の表情に変化はない。考えてみれば、エリスの従軍は初めてだ。ここ二年、エリスが隊長となってから、アルベルトが出陣したことなどなかった。戦場でのアルベルトが具体的にどう行動するのかなど、全く知らない。もしかすると、これが普通なのかもしれなかった。


「だって、砦があるんでしょ? 守備兵だっているんじゃないの?」

「なに。戦いにはならん。黙って入れてくれる。まだ、儂らは争っておらんのだからな」


エリスにはその理屈が分からなかった。どうして殺し合いをすることが前提の相手を、砦に入れてくれるのだろうか?


「儂としては、拠点となる砦を一つ奪取できてうれしい。相手としては、儂を砦に閉じ込められてうれしい。だから、何も言わずに入れてくれるよ」

「え? 閉じ込められる?」


街道からはおよそ一日半ほどの距離にある砦だった。西部軍の斥候は、正確な情報を持ち帰ってはいるだろう。アルベルトの部隊が、突如として方向を転換したこと。離れた砦が目標らしきこと。別働隊が先行したこと。


「あやつらの主力が儂らに追いつくことはできん。だが、このあたりの領主の手元にも、まだ戦力は残されていよう。会戦に勝っても負けても、すぐに動くためにな」

「ごめん、意味わかんない。それ、予定より敵が多いってことじゃないの?」

「そうだ。守備兵はわずかでも、動かそうと思えば砦を攻撃するくらいの兵は揃うだろう」

「頭、大丈夫?」


いつもの調子でエリスの声が大きくなったとき、ヒルダの叱責が飛んだ。ヒルダはエリスの言葉遣いに口うるさかったので、謁見に同席させないようになった。


声を落とし、さらに尋ねる。


「おーさま、まさか自分を囮にするの?」


アルベルトはにやりと笑って見せた。


「まぁ、そんなところだな」


なぜ自分たちが同行させられたのか、エリスにも分かったような気がした。王の護衛はヒルダ達が務めている。確かに優秀な戦士も揃っているとは言え、たかだか数十人の第三親衛隊まで必要とするほど、手が足りないわけではないだろう。


はじめから少数精鋭で相手の意表を突くことを予定していたからこそ、エリス達にも従軍を求めた。会戦での早期決着に応じたのは、振りだけだったということになる。


しかし、そこまでの危険を冒す理由が分からなかった。砦を一つ確保したいがためだけに、援軍要請に応じた振りをしたのだろうか。それから先、拠点を確保しながらの長期戦をするならば、討伐の勅許を取ってもよかったのではないか。


極秘事項とばかり、アルベルトもそれ以上の追求には答えなかった。


陽が落ちる頃、手早く天幕を張り、見張りを立ててしばしの休息を取った。夜明け前には出立準備が整い、陽が昇ると同時に進軍を再開した。


残してきた部隊は、通常行軍で砦に向かっている。あちらは到着までに一日半。先行部隊はおよそ一日。アルベルトの目論見通り、砦に入ることができたとしても、主力と合流するまでに半日の隙間がある。この隙を見逃すほど、敵は悠長ではなかった。


砦にたどり着いたアルベルトが使者を送ると、守備隊長は近隣の村へと引き上げた。すでに、攻撃を受け次第徹底する命令、開城を要求されれば受け入れる命令が届いていた。決戦前から被害を出し、周辺貴族から順に士気喪失する事態は避けたかった。


宰相には、付近の貴族を攻撃する名分があったからだ。補給線襲撃の容疑をかけ、帝国の命令に服さなかったことを理由にすれば、村落の襲撃は正当化できる。これを続ければ、いずれ反乱軍の方から無理にでも会戦を挑まなければならなくなる。魔王は有利な条件で迎え撃ちたがっているのだ。突然の方向転換の理由を、反乱軍首脳部はそう読み取った。


だが、アルベルト自ら別働隊を率いていたことが明らかになり、貴族達が慌ただしくなる。もしもの場合に備え、三千人ほどの部隊は準備されていた。この戦力を投入して砦を襲えば、魔王を討ち取れるのではないか。だが、現場で下せる判断のレベルを超えていた。王子の下に使者が送られ、開戦許可が求められた。


アルベルトの本隊が到着するまでの猶予が半日。その間に使者が状況を報告し、かつ、砦の攻撃を完了できるかどうか。時間との闘いだった。


やるのかやらないのか、その返事を落ち着かない様子で待っていた貴族達だが、煙が上がった。遠距離での連絡を可能にするために使う煙、狼煙のろしというやつだ。砦を攻撃するならば、狼煙を上げるように伝えてあった。


攻めると決まれば、早ければ早いほどよい。アルベルトが率いる三倍の戦力を以て、引導を渡すための進軍を開始した。


当然、砦からも狼煙が見えた。何かの合図であることは予想がつくし、このタイミングで、アルベルト達に無関係なものとは考えられなかった。


「遅いのう。アンリのやつは何をしておるんだ。儂が先行部隊を率いていた場合の予定くらい、あらかじめ立てておけ」


魔王の読みでは、もっと早く敵が動くことになっていた。アンリの戦略眼を高く評価していただけに、がっかりした様子でもある。そうはいっても、アンリは用兵家ではない。知者ではあったが、兵法が専門ではないのだから無理を言うなと言われるだろう。


とはいえ、それでも遊撃部隊で決戦を仕掛ける決断はしたようだ。


「おーさま、本当に大丈夫なんだろうね?」

「あぁ、心配するな、任せておけ。おまえ達も出払ってもらうが、いいか? 絶対に無理をするなよ? 主力が到着するまで時間を稼ぐだけでいい。一人も失うんじゃない」


砦に入った魔王軍は、すでに戦闘配置につき、いつでも戦える準備が整っている。エリス達も前線を支え、主君を守り抜かなければならない。城攻めには三倍の兵が必要だと言われている。敵は、その三倍の兵を揃えていた。


砦の外周部分は、木の柵によって頑強に補強されていた。中心に近づくに従って、石造りの防壁が増えていく。襲撃者達は手はじめに火矢を射かけ、開戦の合図とした。


親衛隊長であるヒルダが櫓に立ち、社交辞令の一言を放つ。


「ロムリア帝国宰相、アルベルト閣下の砦と知っての狼藉か!」


怒号によってかき消され、収まる様子のない兵士達に向け、女神の弓がしなった。年を取り衰えてしまったヒルダでは、開戦の合図代わりに三人の喉を貫くのがやっとだった。


親衛隊は最前線を引き上げ、魔王の最終防衛線を担う。


エリス達の持ち場はその手前だった。ここが抜かれれば、魔王が攻撃にさらされる。もっとも、少しくらい流れたところで、魔王とその側近達は平気だろうが。


東西南北に門を構えた砦は、四方から同時に攻撃を受けている。砦の構造を熟知している敵兵は、戦力を活用しやすい西に多数を集め、特に狭い南側は手薄となっていた。


砦というのは防御側が有利になっており、攻め手が密集する地点には弓兵の射線が通りやすい。応射しようにも、防衛側の射手は建物に守られて手が出せない。火矢を放ち、消火作業に手を回させて防御力を弱体化させたり、大きな分厚い木製の盾を掲げて身を守ったりする。


攻撃側としては、少数で守り切られる戦いを続けるわけにはいかず、数の優位を活かして戦線を拡大する必要がある。遅れて戦場に到着した破城槌で柵の一部をこじ開けると、そこから部隊がなだれ込む。壁をはしごで越える者達もいるが、損害はかさむばかりだった。


突入口が開くと、侵入を防いでいた部隊が後ろを取られることになる。後方部隊が救援に向かい、退路を確保する。一つ一つの区画で、確かに魔王軍の精兵は圧倒的な損害比を達成していた。大きな損害を出すことなく、多数の敵を迎え撃ち、整然と後退戦術を実行している。


突入部隊も、それを率いている貴族も、歴戦の勇士などではない。軍務経験の豊富な西部軍の本隊が相手であれば、こうはいかなかっただろう。数を頼みにがむしゃらに突撃を繰り返すが、いつまでも優勢を保っていられる展開ではなかった。


しかし防衛側としても、余裕があるわけではない。一カ所が破られれば、それと隣接する突出部も、一緒に引き上げなければ取り残されてしまう。防衛軍の輪は徐々に狭まり、敵に取り囲まれていく。


ただ一カ所、アルベルト側が押し込んでいるのが南門だった。攻めにくいということで、多くの部隊が投入されていない箇所だったが、そこに対しては逆に攻勢をかけていた。もしもの場合に、退路を確保するという意味もある。


何時間戦っただろうか。夕日で赤くなる頃、第三親衛隊でも交戦が始まった。今はまだ城壁に守られ、はっきりとした防衛線で敵と味方の勢力圏が分けられているが、飲み込まれるような事態になればいよいよ危ない。


エリスは兵舎の中で指揮をとっていたが、とるほどの指揮もないのが実情だ。こうなった以上、あとは個々の戦闘力に頼むほかはない。ルキウスもベルナルドも、確かに勇戦してはいるが、彼らの武勇は集団戦に向いてはいない。剣士としていくら優秀でも、戦場では限りがある。


マリーも同様であり、さすがに敵の射撃部隊の前に晒すことはできなかった。もしかすると、それでもシルフの加護があるのかもしれないが、物理的に空間が矢で埋め尽くされてしまう場合でも当たらないのかどうか。試す気にはとてもならなかった。射撃班はセオリー通り、矢窓を利用する。


はしごを登り切った敵部隊が、城壁の上部で戦闘を開始した。防御側にも疲れがたまっている。援軍到着を恐れる貴族達は、すべてを投げ打ってでも戦いを休むわけにはいかない。


かなりな兵力が南門の突破に回されているためか、最終防衛区画も破られ始めた。すぐに補強し、相手を押し戻すことができているが、そろそろ限界が近い。二本目のはしごからも敵が姿を見せ始める。


焚かれたかがり火と、打ち込まれた火矢が宵を照らす中、伝令が一人エリスの下に到着した。合い言葉をかわすと、騎士は跪き、木板を掲げた。それを手に取り主君からの指令を読んだとき、エリスの目の前が一瞬真っ白になり、意味を失った。文字は読める。言葉の意味も分かる。だが、それは何を伝えようとしているのか。


魔王の性格。援軍としての出陣。突然の方向転換。「自分を囮にするの?」「そんなところだな」という会話が目に浮かんだ。決して薄まらない、鮮やかな記憶が一点に結びつき、魔王の命令の意図に思い当たった。


「クソオヤジ!」


力一杯に右手を振り上げ、主命の記された連絡板を床にたたきつけた。跳ね返ったそれを、伝令が慌てて拾い上げた。


「役目大義!」


騎士を追い返したエリスは、直ちに配下に対して命令を伝達する。


「撤退する! 鐘を鳴らせ! 総員撤退だ!」


当たり散らすエリスに見覚えのなかった密偵は驚いたが、指示に従い携帯用の鐘を鳴らす。鐘を聞いた密偵がさらに鐘を鳴らし、次第に射撃班まで伝達された。


本当に空けてしまっていいものなのか、前線の戦闘部隊が迷いながら後退すると、正規兵が穴を埋めていく。


「隊長、本当に下がっていいのか」


南門に走り出したエリスを追いながら、ルキウスが確かめる。


「南門が空いた。あとはちょっとずつ下がりながら、全軍脱出する」


エリス達とすれ違うように、帝国兵が走って行く。一般兵らしき姿をしているが、アルベルトの側近だった。その男は怒鳴り、味方の守備隊に向けて退却を促した。


「陛下が討たれた! アルベルト陛下が崩御された! 逃げろ! 南門があいているぞ!」


魔王の精鋭部隊も総崩れとなり、南側から脱出し、一路友軍との合流を目指して北上する。疲れ切り、主目標を達成したつもりの襲撃部隊は追撃することもなく、報復を恐れて砦を引き払い、村に帰ってから酒を交わして祝杯を挙げた。


戦いは、まだ始まったばかりだというのに。

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