第95話



眠い。頭がはっきりしない。ぼーっとする意識の中で体を揺すられてうっすらと目が覚めてきた。


「……由季、由季?」


私を呼ぶ声が聞こえる。ぼやけた視界には私の愛しい葵の顔が見えた。

あのまま葵は私を寝かせてくれたんだろうか。私はベッドに寝かされているようだった。


「……あおい……?」


まだ頭がぼやけている。手を伸ばそうとしたらなぜか動けなかった。葵は私の顔を覗き込むように私を見てくると心配そうな顔をしていた。


「由季?起きた?具合悪くない?少し薬を入れすぎちゃった……ごめんね」


葵の言葉に段々意識が覚醒してきた。薬?葵は何のことを言ってるんだ。私は体を起こそうとしたら手足が動かせなかった。動こうとすると手首と足首に何かが食い込んで痛い。顔を起こして見てみるとお腹の上にあった腕の先の手首は結束バンドで縛られていた。


「あおい……どういうことなの?」


意味が分からない。なぜ私は縛られているのだ。足も動かせないことから足首にも結束バンドがされているんだろう。葵は私の顔を優しく撫でてきた。


「ごめんね由季。あとで外してあげるから大丈夫だよ。あんまり動くと食い込んじゃうから動かないで?」


「……なに?何で?……葵よく分からないよ。ちゃんと説明してよ」

 

何で葵は私にこんなことを?葵は私の言葉に少し笑うとそのままベッドに座ってしばらく私を優しく見つめてから口を開いた。


「…いきなりこんなことしてごめんね?でも、本当に大丈夫だから。それよりね…………私、由季と離れてからずっと考えてたの。やっぱり……由季に言われた通りだったのかもしれないなって」


葵は私を見ながら切なそうに笑う。

葵の言葉に頭がやっとはっきり覚醒してきた。


「由季の言葉、今までのことを考えると全部当たってた。……だから由季のこと好きなのかなって考えてたけど……やっぱり分からない」


葵も長く一人で考えていたのか。葵の方が私よりも考えていそうだったから納得できる答えが導き出せていないのか?私はよく分からない状況だったけど黙って話を聞いていた。


「私……由季に会うまで本当に楽しくなかった。誰かと話すのが苦痛でいつも不安で…焦ってた。不快に思われたらどうしようって、すぐに言葉が出なかったらどうしようって、話す時は本当に嫌だった。私が上手くできないから話すと外見とは全然違うんだねって言われることがあって、……それも嫌だった。でも、……どうしたら良いのか自分でも分からなくて毎日嫌だなって思ってた時に由季と出会ったの」


私と出会う前の葵のことは何となく葵の話を聞いてあまり良い思い出がないように感じていた。葵は前からあまり話さなかったし私も聞かなかったけど、葵は本当に人生に影響が出るほど悩んでいたみたいだ。


「由季は今まで会ってきた人と何もかも違ったよ。私を外見だけで判断しないし、何でも分かろうとしてくれて何でも教えてくれた。いつも励ましてくれて否定しないでくれた。それに、話してる時はウザそうな目で私を見ることもなかった。私、とろいから……よくそういう目で見られてたんだけど、由季は私をいつも待ってくれて聞いてくれた。いつも優しくて私を本当に大切にしてくれて……本当に、本当に嬉しかった……」


「……誰かに、何か言われたの?」


私は葵の過去を知らない。嫌なことがあったのは分かるけど聞いてしまった。大好きな葵の痛みを分かち合いたいと思ったし葵の悪口を見過ごせはしない。葵は少し黙ってから言いづらそうに答えた。


「……前も……今も…沢山言われてる。体だけは良いよねとか、話すとイメージが壊れるとか……話し方がウザいとか……いろいろ……言われるよ……」


「そんなこと絶対ないよ。葵はそんなことない。私はそんなこと思ったことないよ」


心ない僻みのような最悪な言葉は私をイライラさせた。芸能界にいる分敵が多いのは仕方ないけど葵を蔑むような言葉は許せなかった。常に葵の中に不安があったのはこのせいだ。嫌な記憶は葵を簡単には離さないし心の傷は歳月を掛けて大きくなり過ぎた。葵の今までの言動は人間不信も関係していたんだ。


「……ありがとう由季。由季は本当に優しいね。本当に、いつも私に優しくしてくれるから……私、分からないの」


葵は遠くを見るように私から視線を逸らした。


「……由季が言ってたことは合ってたけど……由季を悪く思えない。でも合ってるから……合ってるから……私が感じた好きな気持ちも分からない……。私は確かに依存してた。だって由季が大好きだから。由季と一緒にいる時間が幸せで嫌なことが忘れられて一番安心できた。……でも、私は…由季が好きすぎて、洗脳に近い状態だったから依存して好きって勘違いしたのかなって思うと……分からない。……出会いも何もかも偶然としか思えないのに……分からない……」


「……葵……」


葵の言葉に私は何も言えなかった。葵は私を否定できないから分からなくて苦しんでいる。答えが出たと思った私の予想は外れていて葵は今気持ちが不安定なのだ。

そんな葵を見かねて私は口を開こうとしたけどいきなり葵は呆れたように軽く笑った。


「でもね由季、私分からないくせに……由季が憎く感じた」


「…どういう意味?」


憎い?私には分からない感情だった。私は知らない内に葵にまた嫌な思いをさせたのだろうか。葵は私から目線を逸らしたまま話し出した。


「……いっぱい考えてたんだよ。だけどこないだのハロウィンの時、由季は私と……話もしてくれなかったよね。私が来たら由季は違う場所に行っちゃって……悲しかった。途中で近くに来てくれたけど私なんか……やっぱりもう興味もないよね?」


葵は一瞬私を見ると明るく笑った。それを見ていたら否定したいのに口が開かなかった。


「……他の人と話してる由季は……私と話すよりも楽しそうだった。友達に囲まれて話ながら楽しそうにお酒を飲んで……笑ってた。……それに比べたら私は……お酒も飲めないし、楽しい話もできない。すごく悔しくて惨めだった。……まだ、……まだ別れてないのに、付き合ってるのに……由季のこと沢山考えてるのに、由季はそんなことないみたいで……愛してたのに、すごく憎く感じた」


「……そんなの…私だってちゃんと考えてたよ」


やっと出たのはそれだけだった。もっと本気なのが伝わるようにちゃんと言わないといけないのに私は葵の言葉に動揺してしまっていた。葵の気持ちをあの日もちゃんと考えていれば良かったと激しく後悔した。


「……もう優しくしないで?」


葵はただ笑って言った。


「もう優しくしなくていいから。由季の優しさに甘えちゃうから……だからもう何も言わないで?」


何で?私の言葉は同情から来る優しさだと思っているのか。それは絶対に違うのに私に顔を近づけてきた葵の顔が真剣で、好きなのに恐ろしく感じて鼓動が早くなった。


「由季が大好きだったのに、愛してたのに、憎く感じたよ。私は毎日由季のことを考えてたのに……由季は違うのかなって。もう私はいらなくて、違う人が好きなのかなって……あの日離れてから、そう思うようになった。由季はあの日……私に無理して合わせてるみたいだったから。……何で?私は、私は由季をずっと想ってたのに……由季は違うの?私なんかとは別れたいの?……もう一緒の気持ちじゃないの?」


瞳から目が離せない。葵は勘違いをしているから否定をしないといけないのに、もう間違えられない現状に緊張してすぐに言えない。だって私の間違えてしまった行いは葵を病ませてしまっているようにしか見えなかったから。

私は黙った葵を見つめながら恐る恐る口を開いた。


「……私は、そんな風には思ってないよ。…私は葵のこと…」


「嘘だよ」


葵は真顔で私の言葉を遮った。もう私を信じられない葵は少し笑うとテーブルに置いてあったコーヒーのコップを床に投げつけた。

それは普段の葵からは考えられないような行為だった。

コップが割れた衝撃の音に私は心底驚いたけど葵は何にも思っていないのか顔色一つ変えずに動じてもいなかった。


「そうやって優しくするの…もうやめて?益々、憎くなるから。私と気持ちが違うと思うだけで……本当に嫌。……本当に殺意が沸くほど憎く感じる」


私の言葉は今の葵をただただ刺激するだけだ。葵は無表情で私を見た。


「……私は、やっぱりウザいよね?……由季が私をもう何も想わなくなったのもしょうがないと思う。私、本当にダメな女だから。……でも、私を何も想ってくれない由季は嫌。殺したくなるくらい嫌。どうにか由季に私のこと考えてほしいから……見てて?」


葵はおもむろにどこからかナイフを取り出した。ナイフの刃の部分に付けられていたカバーを外すとナイフの刃は恐ろしいくらい綺麗に見えた。

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