第50話 冷たいキス

 それまで黙っていた若君の顔色が変わった。


「ナナの母君は、外の国に嫁いだんだろう?」

 若君がまさかといった風に少し頭を振る。

「そうです。そこで私の父と、ただ一人の運命の人と出会えたと母は言っていました。でもそれは、こちらに戻ることが叶わなかったからでもあります――私の母は十五歳の時に白蛇レシュールに丸呑みにされ、まったく別の世界に落ちました。それが私の祖国です」

「ヤポネだったね?」

「いえ。それは、対外的にそうゆうことにしているだけなんです。まず行く人がいないのでちょうどいいと。私の祖国は日本と言います。こことは全く違う国、違う世界です」


 しばらく沈黙が落ちるけど、

(一気に言ってしまわないと、もうこれ以上言えなくなる)

 そう思って、ぎゅっとこぶしを握る。


「ウィルフレッド様は、十四年前にネアーガを祓ったと聞きました。その時半身を失ったとも」

 たぶん、彼は私に知られたくなかったのだろう。若君の傷ついたような目が私の心を抉った。

 でも続けないと、と心を奮い立たせる。

「お願いします。あの日あったことを教えてください。とても大切なことなんです」

 私は、厳しい口調でそう言った。


「ネアーガを祓った光とは何ですか?」

「あれは……二つ身で行った封印の力だ」

 しばし沈黙した後、若君は絞り出すようにそう言った。

「普通、分身して一緒に戦うことはない。一人は安全な場所にいて、もしもの時は半身を引き戻す役割があるから」

「クララ様には、手を合わせて戻ると聞きましたが」

「命の危機の時にはそういうことができるんだよ」

 命の危機。

 その言葉に震えが走る。


「あの日、俺はまだ子供だったから力もそんなに強くなかったし、剣の腕も大したことがなかった。だが町が襲われているのに騎士の姿はほとんどなくて、目の前には今にも魔獣に食われそうになっている人たちがいた。だから分身して、二人で戦うしかないと判断したんだ。倒すのは無理でも封印ならできると。閃光で奴の目をくらませたあとテイバーと光で大きな膜を作って、それであいつを包み込んだ」

 やっぱり他の人と力の使い方が違うなと確信し、私は頷いた。

「うまく封印できたと思って一瞬気を抜いたのかもしれない。あっというまにすごい力でネアーガに引き寄せられ、テイバーはあいつに飲まれた」

「かみ砕かれたわけではないのですね?」

「多分違う。でもどんなに呼んでも、テイバーを呼び寄せることはできなかった」

「そうですか」

 そしてネアーガは消えた。


 話を聞いたことで、私は一刻も早く日本に戻りたいとジリジリした。


「私の母は白蛇レシュールに飲まれ、長い間落ちていき、こことは違う世界である日本にたどり着いたんです。私はテイバー様も日本にいるのではないかと、そこで今も生きているのではないかと考えています」

「まさか」

 若君が声にならない声でそう呟いた。

「いえ。私は生きているって信じてます。そう感じるんです」

「だが俺は何も感じない! 何度呼び寄せてもダメだった!」

 突如感情を爆発させた若君に、私は手を伸ばした。

 できればその苦しみを分けてほしい。そう願うけれど。


「ナナはなぜ、俺の半身が生きていると?」

 悪夢を見ているような若君の表情に胸が痛む。

 私はタキを片手に抱いたまま、そっと冷たくなった若君の手に触れた。

「ごめんなさい、うまく説明できません。でも、ウィルフレッド様の話を初めて聞いたとき、テイバー様のことを強く考えました。その時、私の中に何かが引っかかったんです。言葉では表せない確信が。信じてとはいえません。こんなこと、信じるほうが無理だと思います」

「ナナ……」

 若君は絞り出すように私の名前を呼んで、手をぎゅっと握った。


「俺が、ナナの国に行くことはできるのだろうか。魔獣討伐の時期が済んだら、国外に行けるよう陛下に頼んでみても……」


 若君が日本へ来る。

 そんなことを想像するだけで、胸の奥が甘く痛む。

 一緒に行けたらいい。テイバー様を探しながら、色々なものを見せてあげたい。驚かせたり喜ばせたりしたい。でも……。


「私の国へ来るのはとても難しいのです。間にある障害を、母は最期まで超えることはできませんでした。父も、兄も。そして、ゲシュティに住む母の家族もです」

「でも、ナナは行き来している。だろ?」

「私が二つの世界を行き来できる理由はわかりません。二つの血を分けているからかもと考えたこともありますが、同じ血を引く兄はできないんです」


「じゃあ、もしナナの国でテイバー様を見つけても、こちらに戻れるかもわからないじゃないか」

 オリバーさんの怒声が響く。

 少し前からオリバーさんに壁ができたのを感じていた。私に不信感を持ち始めている。当然だ。今まで信じようとしてくれてただけでも、ありがたいことなんだから。

「必ず戻します」

「バカバカしい!」

「バカバカしくなんかありません! 可能性があるのに、私は諦めるなんてできない!」


「何を企んでいるの?」

 その声に冷水をかけられた気がして、ハッと若君を見る。

 その目は見たこともないくらい冷たくて、同時にとてもきれいな笑顔で――私は完全に若君から拒絶されたことが分かった。

 それは、湧き上がる恐怖を必死で抑え込まなければならないほどの美しい笑顔。

「何も。何も企んでなんかいません。私は、テイバー様をウィルフレッド様のもとに取り戻したいだけです」

 胸が苦しくて息も絶え絶えになり、折れそうな心を一生懸命鼓舞してそう訴える。


「ふーん、そう。半身である俺が何も感じないのに、ナナは感じるんだ?」

「はい」

「何か証拠はあるの? 君以外誰も行くこともできない、その幻の国に俺の半身がいると。夢でも見てるのかい?」

 ふうっと息を吐きだした若君は、グイっと私の顎に手を当て無理やり上を向かせると、その冷たい瞳で私の目をのぞき込んだ。

「そんな話で、俺の気でも引きたかった? 自分は特別だって」

「ちが……」

「ナナはそんなに俺のことを愛してたんだ? 知らなかったよ」

 そう言って若君は私の唇に冷たい唇を押し当てると、間にいたタキに手を引っかかれ私を突き放した。

っ」

 若君は傷ついた手を一瞥し、毛を逆立て、シャーシャーいってるタキにも冷たい視線を向ける。

「タキ、だめ」

 私は震える手でタキを離さないよう抱きしめ続ける。


 ――冷たい口付けだった。優しさの欠片もない噛み付くような口付けは、ただ拒絶されるよりも嘲けられるよりも私の心を抉り、若君が遠くなった。何か言おうと思うのに、何も言葉にならない。


「若君、朝食に遅れます。もう行きましょう」

「……ああ、そうだな」


 二人の足音が遠くなり、タキのイライラした鳴き声だけがやけに響く。

「タキ、ごめんね。守ってくれてありがとう」

 タキをギュッと抱きしめると、ザラッとした舌で顔を舐められる。

「ウィルフレッド様に嫌われちゃった」

 言葉にすると、それははっきりとした現実になって私を覆い尽くす。惨めだった。でも、彼にあんな顔をさせたのは私だ。

「失敗した。試合の前なのに邪魔しちゃった」

 式典が終わるまで待てばよかったのよ。心の中で、別の私が呆れている。その頃なら陛下に側にいて証言してもらうこともできたかもしれないのに、と。


 今日の試合は、私達仕立て士も全員陛下から招待されて観戦することになっている。けど、私は姿を見せないほうがいいだろう。若君にこれ以上不快な思いをさせたくはないし、ちゃんと集中して勝ってほしい。

 でも本当は、――あの目をもう一度見る勇気がないだけかもそれない。


「ご飯、食べてもらえなかったね」

 今日は、前に若君が言っていた照り焼きチキンと卵のサンドイッチにした。気合を入れてパンも焼いた。

「これは、朝食と昼食にすればいいかな……。ちょっと多いかもしれないけど」


 多分もう、若君は私のところへご飯をねだりには来ないだろう。

 そして今後は、私の前でもきれいに笑う姿が目に浮かぶ。

『自分は特別だって』

 冷え冷えとした若君の言葉が木霊する。ドキッとした。たしかに自分は若君にとっての特別だと思っていた。でもそれは間違えても女の子としてではなく、人としてだったのよ。


「……大事なことは、ウィルフレッド様が他の人の前でも素直に笑えることだもの」

 肩の力を抜ける相手でありたかったのは確かだけど、それは私でなくてもいいの。でも今は、私も他の女性たちと同じか、それ以下だと思われている。

 私は唇をゴシゴシと拭った。

「私が嫌われたことは、重要ではないわ」

 そう。こんなこと、まったく重要ではない。

 どんなに胸が痛くても、苦しくて体がバラバラになりそうでも、そんなこと大したことじゃない。でも苦しい。

「ごめんタキ。五分だけ泣かせて」

 涙が止まらない。

 五分泣いたら何でもない顔をするから。ちゃんとするべきことをするから。

 だから誰も私を見ないで。誰も来ないで。お願い。


 両手で顔を覆って声を殺して泣きながら、私はなぜか初めて魔獣に襲われた日のことを思い出していた。大きな狼のような魔獣から逃げ、牙や爪で脇腹を傷つけられ、痛みと恐怖を抱えながら逃げていた。転んで強く肩を打ち、意識が途切れそうになったとき、

「頑張れナナ。大丈夫、僕がついてる」

 と警邏のお兄さんの声が聞こえ、ほどなく魔獣の気配がなくなったのだ。


 あれから何度助けてもらったのだろう。最後に魔獣に襲われてから二年は経つ。服に隠れた私の体には、いくつもの白い傷あとがある。でも致命傷にならなかったのは、いつもお兄さんに助けてもらえたからだ。何度怖い目にあってもゲシュティに来るのをやめなかったのもそう。

 今も苦しくてよじれ、バラバラに砕けそうな私の心に

「僕がついてる」

 と、お兄さんの声が聞こえた気がする。


 私は顔を上向けて大きく息を吸い、涙を意志の力でねじ伏せた。空には雲一つない。今日もいい天気になるだろう。

「うん、大丈夫。悲しむのはこれで終わり」

 癒やし効果のあるハンカチで涙を拭い、足元で私に寄り添うタキを抱き直した。タキが引っ掻いた若君の手が思い浮かぶ。

「若君の傷も、癒やしてあげればよかったね」

 多分、させてはくれなかっただろうけど……。

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