第217話会議前日

 清洲城――僕がまだ低い身分だった頃、一所懸命に働いていた場所。加えて志乃と二人だけで住んでいた思い出の地。とても懐かしい。懐かしすぎて涙が出てしまいそうになる。

 侍大将が治める番城になっていたため、あまり重要視されていなかったが、織田家と言えばこの城しかない。安土城は織田信雄さまが焼いてしまったという事情もあるけど。

 織田家の始まりであり、そして次代へと続く城だ。


 僕はいち早く清洲城に入り、行雲さまと会うことにした。出家したとはいえ、上様の弟君で在らせられるあの方が味方してくれれば、秀吉は大きな発言力を持てる。

 それに柴田さまの元主君でもあるから、牽制や抑止力としても期待できる。

 だから会うべきお方だと思っていた――いや、それ以外にも理由はあった。津田信澄さまが死ぬ前に、僕への援軍を送ってくれた。そのことも言わないといけない。


 行雲さまは清洲城の一室にて、静かに経を読んでいた。それが終わるまで、僕は部屋の外で待つ。声が途切れたところで「失礼します」と中に入る。


「……雲之介か。随分と久しいな」


 しばらく見ないうちに、行雲さまはかなり歳を召したようだった。ひょっとしたら上様より老けているかもしれない。以前よりますます高僧のように見えた。

 僕と行雲さまは正面に向かい合った。


「ご無沙汰しております。会えぬ不義理をどうかご容赦ください」

「良い。おぬしも忙しい身であろうからな」


 しばし沈黙した後、僕は「信澄さまのことを聞きました」と切り出した。


「信澄さまが援軍を送ってくださったおかげで、なんとか生き残れました」

「左様か……あの子は、自信に欠けるところがあった」


 表情を変えずに、淡々と話す行雲さま。


「兄上に気に入られて、いろいろな務めをこなしてきたが、いつも自信がなさそうだった。自分以外でもできるのではないかと、自身の能力を過小評価していた。身の丈に合わない地位に就いたとぼやくことがあった。しかし、それでも難題を達成したときは、人並みに喜んでおった」

「……ええ。僕もそう思います。亡くなったのは本当に残念です」

「もし明智の謀叛がなければ、織田家を支える柱となれただろう。親の贔屓目もあるだろうが、本当に良い子だった……」


 黙って頷いた。まったくそのとおりだと思ったからだ。


「最後に会ったときに、特別な会話はしなかった。何気ない話をしたと思う。そのくらい、当たり前な関係だった」

「……行雲さま」

「――それで、おぬしは織田家をどうするつもりだ?」


 鋭く切り込む行雲さま。先手を取られた気分だ。

 居ずまいを正して、僕は衒いもなく自分の本音を言った。


「織田家は存続させます。しかし、実権は秀吉に握らせます」

「……では、改めて問うが、おぬしは羽柴殿をどうしたいんだ?」


 その答えは決まりきっていた。言うのは憚れるが、言わなければいけないことだとも分かっていた。


「僕は、羽柴秀吉を――天下人にしたいです」

「…………」

「秀吉を、日の本唯一の存在にする。それしか考えられません」


 行雲さまは――大きな溜息を吐いた。深い落胆を感じるようだった。


「……自分が天下人になろうと考えぬところは好感が持てるがな。しかし羽柴殿を天下人にか……随分と欲深になったじゃあないか」


 胸が締め付けられる思いだった。この人にそんな風に言われたくなかった。

 いや、言わせたのは僕か。僕に原因があるのか。


「おぬしは賢いからな。いろいろ策があるんだろう。その一手として、私に協力を求める……そうだな?」

「ご明察です。僕は――行雲さまに秀吉の味方になってほしいのです」


 行雲さまは「何とも勝手な話だ」と冷たく笑った。


「織田家をないがしろにする企てに加担しろなど……それもこの私に言うとは」

「無礼は重々承知しております」

「……恥を知れ」


 行雲さまは凍えるような目をしていた。


「主家を飲み込むような野心。厚顔無恥な願い。本当に不快だ」

「…………」

「おぬしはそんな子どもではなかった。大人になって、汚いことを覚えたのか?」

「……では、行雲さまは、織田家をどうするおつもりですか?」


 反撃ではない。これは純粋な疑問だった。


「織田家は三法師さまがお継ぎになられる。後見人は信雄さまか信孝さまになります。しかしそれでは織田家は分裂することは必定です。何故ならあの兄弟は仲が悪すぎる。それに個々の能力は上様と信忠さまに劣ります」

「……三法師を皆が支えればよい」

「幼い当主では、広大な領地を持つ織田家をまとめられません。だからこそ、力ある者が継がねばならないのです」

「それは羽柴殿の言い分であり、その家臣であるおぬしの都合だろう?」


 分かっている。これは僕の身勝手な構想なんだ。

 でも無理を承知で押し通さないと道理が引っ込まない。


「では聞きますが。行雲さまは織田家が内部分裂しても良いとお考えになられますか?」

「良いわけなかろう。だから三法師を中心にまとまれと言っているのだ」

「強大な君主を失えば、自然と国は分裂します。古代の春秋戦国から今日の戦国乱世が良き例です」


 行雲さまは僕の言葉に詰まってしまったようだった。

 それを見て、畳みかける。


「しかし行雲さまが秀吉の味方をすれば、秀吉という巨大な力の元、分裂は抑えられます。それどころか日の本を太平の世に導くのに時間はかかりません」

「…………」

「もし行雲さまが味方してくださらなかったら、群雄割拠の戦国乱世に逆戻りです。柴田さま、信雄さま、信孝さま。そして滝川さまは羽柴家と敵対するでしょうね」


 行雲さまは目を閉じた――悩んでいるようだった。


「お願いします。太平の世となって、民が安心して暮らせる世を作るために、力を貸してくださりませんか?」


 平伏して、行雲さまの返事を待つ。


「……おぬしは変わってしまったな」


 行雲さまは僕を哀れむように言う。


「あの優しかった少年が、ここまで成り下がってしまったとは」

「……返す言葉もありません」

「戦国乱世とは、残酷なものよ。もしも太平の世であれば、そんな風にならずに済んだだろう」


 行雲さまは「面を上げよ」と言う。存外優しい声だった。

 ゆっくりと上げると、行雲さまは仕方ないなという顔をしていた。


「おぬしの言い分は良く分かった。しばし時間をくれ。私にも悩ませてほしい」

「行雲さま……」

「雲之介。おぬしも悩んだであろう。私に言うべきかどうかを」


 悩まなかったと言えば嘘になる。

 行雲さまに嫌われる覚悟を持つのに、時間がかかった。


「一つだけ、おぬしに頼みたいことがある」

「なんでしょうか?」


 行雲さまは、昔と同じような明るい笑顔で言った。


「茶を点ててほしい。一緒に兄上と信忠、そして信澄を偲んでほしいのだ」


 僕は肩の荷が下りた気分で言う。


「ええ。喜んで」




 清洲城に続々と諸将が集まってきた。柴田さま、丹羽さま、池田さま。それに前田さまや佐々さまも来ている。各地で名を馳せた猛将や知将が、織田家の今後を決めるためにやってくる。

 しかし関東に居る滝川さまは来れないらしい。北条家に攻められてしまったとの情報が入った。裏切られて攻められるなんて、何とも情けない話だ。

 仕方ないので、会議は秀吉、柴田さま、丹羽さま、池田さま、そして一門衆の代表として行雲さまが出席することになった。五人の話し合いで、織田家の今後の全てが決まるのだ。

 秀吉にとっても正念場だった。ここで諸将の信望を得なければ、太平の世など望めない。

 会議がどうなるのかは分からないが、僕にできることは全て行なった。

 後は、天に任せるだけだ。

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