第200話番外編 或る雨の日の手紙

 文を拝見いたしました。私(わたくし)のような者にまで、とても丁寧な手紙を綴ってくださるとは、あなたさまの人徳のなさるところなのですね。いたく心より感激しております。しかしせっかくのご提案なのですが、お断りさせていただきます。今は亡き母から断るときは早めに言うべしと教えられたものなので。ご無礼いたします。


 あなたさまをがっかりさせてしまうのは忍びないので、少しだけ父の思い出話をさせていただきます。あなたさまはいつも私の父の話を喜んでお聞きなりますものね。それほどあなたさまの中で父は偉大なのでしょう。


 あなたさまの父、石田治部少輔さまもとにかく父を尊敬しておりました。崇拝と言っても良いでしょう。しかし、治部少輔さまは知ってのとおり、命を助けられたからこそ父を崇拝していたわけで、あなたさまが想像するような勇猛果敢な武将ではなかったのです。今は口が裂けても言えませんが、父は『猿の内政官』と昔呼ばれておりました。それを知ればあなたさまは目を丸くして驚かれることでしょう。ですので黙っておりました。お許しください。


 そんな父ですから武将としてではなく、内政官として評価していただくほうが嬉しく思います。今は京暮らしをしていますが、生まれ故郷の北近江の長浜や第二の故郷は父のおかげで発展したと言ってもおかしくはありません。身内の評価ですが、これだけは真実であると感じております。


 でも娘の私が言うのもおかしな話ですが、父は優しすぎたのかもしれません。出自がそうですから、人に優しくしたいと思うのは当然の話ですが、それでも優しすぎたのかもしれません。ひどいことをした兄を許したのは腹違いとはいえ、妹としてはとても嬉しかったのですが、それでも少しばかりの罰を与えたほうが、兄のためだったと老境に差し掛かってから思うようになりました。


 父よりも年老いた今だから言えるのですが、人間は優しすぎてはいけないのだと思います。あなたさまが尊敬し崇拝している父を悪く言うのをお許しください。でも娘だからこそ、言えることがあるのです。あなたさまよりもちょっとだけ年上の老女の戯言と思って流しても結構です。


 私の父は優しすぎました。母にも兄にも姉にも孫にも優しすぎたのです。自分だけの身内ならば良いのですが、それを他人にまで広げたのが問題だったのかもしれません。他人に優しさを強いることがなかったのが救いだったのかもしれません。


 私はそんな父を愛しておりましたが、反対に怖がっていました。同時に不思議に思っていました。どうして人に優しくできるのかと常々思っていました。父に訊ねたこともありました。一度だけですが、父は当たり前のように言いました。『優しさに理由なんかないよ』と確かにそう言いました。


 理由なんかない。そう、父にとって優しさとは呼吸のように自然であり、瞬きのように当然な行ないだったのです。そう聞いて私は父を理解することを放棄しました。私にも優しさというものは少なからずありますが、それでも私は父のようになれないと思いました。憧れもありません。軽蔑もありません。ただ父はそういう人だと認めるしかなかったのです。


 それでもあなたさまは尊敬や崇拝をやめないのでしょうね。政(まつりごと)を行なう者としての崇め奉りたい気持ちは重々承知しております。しかしながら、さほど立派な人間ではないと知ってもらいたいのです。


 自分の優しさを押し付ける人ではなかったのですが、押し通す人であったのは、大返しの逸話でお分かりでしょう? まあもしも父がその決断をしなければ、今の政権は存在しなかったのですが。


 あなたさまが憧れるような人ではありませんでした。天下の名宰相として民に崇められている現状でさえ、私にとっては不本意なのです。決して父を貶めたい気持ちはないのですが、過度な信仰は父も嫌がると思います。


 私の子や孫は父のことをほとんど知りません。私が話していないということもありますが。父のことを知った我が家の嫡男は『どうして教えてくれないんですか!?』と大層立腹でしたね。


 戦国乱世だった日の本を知る人は少なくなりました。天下人の織田信長公や豊臣秀吉公の名は既に威光無く、私の兄のことを知る人が少なくいるぐらいで、ほとんどが過去のものへとなってしまいました。


 それでいいのだと最近思うようになりました。戦国乱世に生きた人間など思い返すことなく、毎日何も考えずに生き、昔の武将に憧れながらも想像に留まり、太平の世を楽しむ軟弱者が居ることこそ、父が望んだ日の本なのですから。


 そうそう。最後に言っておかねばなりません。今は伝説となっている秀吉公の草履の話。実は父が発端だったらしいのです。大昔、父に聞きました。これだけは伝えておかないといけませんね。詳しい話は直接会ったときに言います。


 とりとめもない話を書いてしまいました。というわけで大坂で家族と一緒に暮らすのはお断りさせていただきます。京には父の妻、私の母ではない母が眠っていますし、その隣には父の分骨も眠っていますので。


 外は雨が降っております。まるで父が歴史を変えたときと同じ天気です。もしくは父が運命の出会いをしたときと同じ天気です。雨竜雲之介とは上手く名付けられたものですね。 かしこ


織田 雹


石田少納言重家さまへ

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