第163話策略と純真

 顕如が書いた六枚のお触れに効果があったのかというと、微妙と言うほか無かった。こちら側についたのはおよそ六百人だけだったんだ。数の上では八百対千二百と不利であり、状況はあまり変わらなかった。

 しかし稀代の天才軍師、竹中半兵衛はこれをむしろ好機と捉えた。


「素晴らしいわ。雲之介ちゃんの策、上手く言ったわね!」


 僕と秀吉、正勝と半兵衛さんしか居ない部屋で甲高い声をあげられたので、耳がきんきんと鳴った。


「おいおい。どういうことだ? 雑賀衆の……何割か分からねえが、そんぐらいしか味方にできなかったんだろう?」

「四割だよ。でも兄弟の言うとおりだ。僕としては少なくとも六割は味方につけられると思っていたけど」


 正勝と僕の問いに半兵衛さんは「逆に六割も味方に付いたら駄目よ」とますます訳の分からないことを言う。


「そうねえ。二つほど利点があるわ。一つは、敵方千二百人に疑心を植え付けられた。これは大きいわよう」

「……つまり、土橋の連中は誰が裏切るか分からない状況になっているのか?」


 秀吉の推測に「そのとおりよ、秀吉ちゃん」と肯定する半兵衛さん。


「味方だけど織田家に通じている者が居るかもしれないと疑うのが人間よ。土橋が馬鹿じゃなければ、そう考えるのが自然。それに土壇場で裏切る者が出てくるかもしれない。ま、これは希望だけどね」

「ふむ。では、もう一つの利点は?」


 半兵衛さんは「これは織田家の都合だけどね」と前置きをして言う。


「雑賀孫市の力を削ぐためよ」

「……聞き捨てならねえな。孫市の野郎は織田家に味方するって言ってんだぜ? どうして力を削ぐ必要があるんだ?」


 正勝が少し怒っている。そりゃあまあ、男気のある兄弟のことだ。あまり良い気持ちはしないだろう。

 僕だってそれは同じだ。


「孫市は信用できると思うけど。それでは駄目なのか?」

「信用の問題じゃないの。理由は二つあるわ。一つは織田家の紀伊国支配を簡単にできること。たった八百じゃあどう足掻いても紀伊国に影響力を持てない。そもそも紀伊国は惣村の寄合。それの代表が雑賀孫市ってだけよ。そんな彼がたった八百しか兵を維持できないのは痛恨の極みね」

「それは分かるけど……もう一つの理由は?」


 半兵衛さんは冷静に「雑賀孫市という看板が使えないってことよ」と言い放った。


「自分の部下に裏切られて、織田家の降伏勧告を受け入れる。最強の鉄砲傭兵集団の長としては失格よ。個人的にはああいうの嫌いじゃないけど……いや、嫌いだわ。女装癖の青瓢箪って言われたから。いつかぎゃふんって言わせるわ……」

「……個人的な恨みは後にしてくれねえか?」


 正勝が呆れている。まったく同感だけど、しかし半兵衛さんの言っていることは間違っていない。

 悲しいほど、間違っては居ない。


「話を戻すけど、今は十万の兵で攻めている最中よ。いくら残りの千二百の兵が精強でも疑心にとらわれてたなら勝てっこないわ」

「だとしてもすぐに決着をつけねばならんな」


 秀吉は難しい顔をしていた。


「十万もの大軍が攻め入っているのだ。領地の守りが疎かになっている」

「兵糧もそうだよ。十万もの兵を食わせるのは大変だ」


 すると正勝が「なら明日にでも本拠に攻め入ろうぜ」と気軽に言った。


「土橋の野郎はどこに居るんだ?」

「弥勒寺山城を中心に防衛線を張っているわ……ま、確かに今攻め入るべきね」


 僕たちは秀吉を見た。後は決断を待つだけだ。


「よし。分かった。明日、弥勒寺山城に攻め入ろう。雲之介、孫市殿にその旨を知らせてくれ」


 僕は「ああ分かった」と頷いた。

 軍議が終わったので、僕は孫市の居る部屋に向かう。

 そこには小雀くんしか居なかった。


「失礼。孫市殿は?」

「…………」


 小雀くんは何かを言いたい様子だったけど、何も言わなかった。

 身振り手振りだと、待つように示しているようだけど……


「ここで待て。ということかな?」


 小雀くんは強く頷いた。耳は聞こえるみたいだ。


「君は、話せないのか?」


 またも頷く小雀くん。


「文字は分かるか?」


 これには首を横に振る。


「そうか……まあいろいろあるよね」


 僕がそう言うと小雀くんは驚いたように目を見開いた。

 何か気に触ることを言っただろうか?


「そういえば、前に助けてくれたね。あのときも礼を言ったけど、改めてお礼を言うよ。ありがとう」


 小雀くんはにっこりと微笑んだ。喋れない代わりに表情は豊かで雄弁だ。


「小雀くんは、孫市殿のことが好きか?」


 小雀くんは恥ずかしそうにこくんと小さく頷いた。


「そうか。大切にされているんだな」


 この言葉に不思議そうな顔をする小雀くん。


「誰かを無条件に好きになるのはあまりない。好みの異性でなければね。でも、自分を大切にしてくれたり、憧れているのであれば、その人のことを好きになる。その人のために何かしようと頑張るんだ」


 話していて頭に思い浮かんだのは秀吉のことだった。


「だから、孫市殿は小雀くんを大切にしているんだろうね」


 小雀くんは顔を少し赤らめて頷いた。


「何だよ。恥ずかしいこと言いやがって……」


 がらりと襖が開いて、孫市が入ってきた。蛍さんも一緒だった。

 ばつの悪い顔をしながら、上座にどかりと座る。

 蛍さんは小雀くんに「ここはいいから。ご飯食べに行きな」と言う。

 小雀くんはちらりと僕を見て、それから出て行った。


「小雀と何話してた?」

「大したことは話していない。以前、土橋の一派に襲われそうだったところを助けてくれたお礼を改めて言っただけさ。あ、その指示は孫市殿からだったな。ありがとう」

「そんな昔のこと、どうでもいい……あいつが他人に興味を示すのは珍しいな」


 あいつとは小雀くんのことだろう。


「そうなのか? 人懐こそうだったけど」

「懐いた人間にはそうだろう。ただあいつは喋れないし、文字が分からないから、本心がどうなのか分からん」

「そういうことを言うなよ。彼なりに伝えようとしているんだから」


 思わず反論すると孫市は驚いたように「へえ。お優しいことで」と吐き捨てた。


「俺だって小雀のことは大事に思っているさ」

「踏み込んだことを聞くが、どうして喋れなくなったんだ?」

「戦国乱世じゃありきたりなことさ。目の前で親父をあっさりと殺されて、母親は嬲られて殺されて。幼かったあいつは隠れて見てるしかなかったんだよ」


 悲しいけど、よくあることだった。


「あいつは……俺と出会ったとき、まるで飢えた狂犬みたいだった。触れるもの全て切り裂くような狂気を孕んでいた。そこに居る蛍が情けをかけなかったら殺してただろうな」


 蛍さんに目をやると、彼女は俯いていた。


「なあ雲之介。小雀は――喋れるんだろうか?」


 僕は「医者じゃないから分からないけど」と言う。


「でも、あなたが傍に居ることで、小雀くんが安らぎを感じているのは分かるよ」

「……だから恥ずかしいことを言うなよ」


 気まずくなったのか「そういえば何の用だ?」と話題を変える孫市。


「明日、土橋の本拠に攻め入る。協力してほしい」

「そうか。こちらも異存はねえよ」


 孫市は蛍さんに「戦準備を整えさせろ」と命じた。


「これで土橋も終わりか……」

「宿敵なんだろう? どんな気分だ?」


 孫市は「いい気分じゃねえな」と答えた。


「でもやらなきゃいけねえからな。やるしかねえよ」

「…………」

「雲之介。俺は土橋が嫌いじゃなかった。でも対立しちまった」


 厳しい顔で僕に忠告する孫市。


「あんたもそういうことが起こるかもしれねえ。そんときどうする?」


 いずれ、そうなるときがあるだろう。

 僕は軽く笑って答えた。


「分からないよ。そんなの。実際、そうなったらそのときに考えるさ」


 現時点の答えは、保留だった。

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