第90話冷たい論戦

「あら。可愛いお子さまたちですね。『雲之介』さんにそっくり」

「ええ。『私たち』の可愛い子どもですから。当然です」


 静かな戦いは続いていた。晴太郎やかすみ、そして茶々は不思議な顔をして互いの母親の顔を見ている。


「ねえ。雲之介。茶々ちゃんも可愛いわよね」

「どうですか? 茶々可愛いですか?」


 志乃とお市さまは互いに向かい合っていて、ちょうど三角形の頂点に僕がいる。部屋には子どもたちを含めて六人しかいない。あの薄情者の長政はこの場には居ない。いや逃げてしまった。


「ねえ。雲之介。『私』が聞いているのだけれど」

「志乃さん。『私』も聞いていますよ?」

「あらごめんなさい。忘れていたわ」

「うふふ。その歳で忘れっぽいんですねえ」


 そして二人とも笑い声を上げる。晴太郎が怯えた様子で僕の膝に擦り寄る。ああ、我が息子よ。その年で女の恐さを知ってしまったか。


「えーと。茶々も可愛い――」

「聞きましたか志乃さん。『私』に似た茶々を可愛いと言いましたよ。雲之介さんが」

「何言っているのですか? 茶々『も』と言ったではありませんか。つまり『私たち』の子どもと同じくらい可愛いという意味ですよ」


 駄目だ。何を言っても険悪になってしまう。晴太郎を抱っこすると少し震えている。


「えっとね。お二人とも、仲良く――」

「できるわけないじゃない」

「そうですよ。何を言っているんですか?」


 表面上はにこやかだった二人が、恐ろしいものに変わった。志乃は般若のような怒りの表情になったし、お市さまは逆に能面のような無表情になった。


「私から雲之介さんを奪った志乃さんが許せません」

「未だに雲之介の心を奪っているお市さんは許せないわ」


 ああ、僕のせいだと分かっているのだけど。

 誰か助けてほしい――


「おお! 雲之介! よう戻ったな――」


 救い主の登場だ! 障子を開けて入ってきたのは秀吉だった!


「何か用ですか? 秀吉さま」

「用が無ければ帰ってください」

「おおう? お邪魔だったようだな。しかし雲之介に――」

「雲之介は今忙しいのです。帰ってください」

「そうです。見て分かりませんか?」


 二人の凍るような視線。邪魔だ、さっさとどっか行けと暗に示しているのを受けて秀吉は「……すまなかった」と引き下がってしまった。


「ちょっと、秀吉! これから――」

「どうしたの雲之介。これから『私たち』の話を聞くんでしょう?」

「そうですよ。どこ行くんですか? それに秀吉さまも了承してくださったではないですか」


 秀吉に助けてくれと視線を送る。

 あ、目を逸らされた!?


「それではわしはこの辺で……」

「待って秀吉! 頼むから!」


 その言葉も虚しく、無情にも障子は閉められた。


「雲之介ぇ。あなたどこに行こうとしたのぉ?」

「そうですよぉ。あなたのいる場所はここしかないんですからぁ」


 もしも脇差があれば、この場で切腹したのほうがマシだと思われるほどの恐怖を感じた。


「……はい。そのとおりです」


 僕の言葉で冷たい論戦は再開された。


「雲之介さんを『私』から奪ったときの気分はどうでしたか?」

「最高の気分でしたね。お市さんから奪ったと知ったときは最高の気分でしたよ」

「へえ。人の想い人を奪うってそんな気分なんですねえ」

「ええ。本当に――」

「雲之介さんの一番は今でも『私』ですけどね」

「――今なんて言いました?」

「あら。すみません。本当のことを言ってしまって」

「……雲之介の一番は私よ」

「うふふ。焦っていますね。そうですねえ。一番はあなたかもしれませんね。私は別格ですからね」

「大した自信ですね。結局は手に入れられなかったくせに」

「心は手に入れましたよ……」


 仏教では等活地獄と呼ばれる、罪人が落ちる地獄が教えられている。身を切られても何度も生き返って、苦しみを受け続けるという。

 志乃とお市さまの言葉は僕の心を切り裂く。まさに生きながら地獄に居るようなものだ。


「ねえ。雲之介。あなたが愛しているのはどっち?」


 ついに究極の問いが志乃から発せられた。

 答えれば、彼女たちのどちらかは、確実に泣いてしまう。

 それは避けたい。


「言ってください。雲之介さん」

「言いなさいよ。雲之介」


 僕の覚悟が定まらないまま、何とか言葉を紡ごうと口を開く……


「……あなた方。何をしているのですか?」


 障子をがらりと開けて、怒気を膨らませながら、秀吉の奥方であるねね殿――いや、大名の奥方だからねねさまか――が二人に言う。


「ね、ねねさま――」

「人手がまるで足らないというときに、雲之介さんを拘束するとは、何事ですか!」

「い、いや。今大事な――」

「黙りなさい! あなたたちは武士の嫁として失格です!」


 それからねねさまは僕に向かってにっこりと笑った。


「さあ雲之介さん。秀吉さまが評定の間でお待ちですよ。私はこの二人を説教しますから」

「は、はい! それでは!」


 僕は晴太郎を下ろして、素早くその場から逃げた。


「雲之介! 待ちなさい――」

「志乃さん! まだ分かって――」


 ふう。地獄から抜け出せた。さあ仕事だ仕事。

 ……でも帰ったら地獄が戻るんだよなあ。

 憂鬱な気分で評定の間に入ると仲間たちが暖かく迎えてくれた。


「災難だったね。雲之介くん」

「まったくだな。女の戦いってのは、男には何もできねえ」

「罪な男ねえ雲之介ちゃんも」


 秀長さん、正勝、半兵衛さんが慰めてくれた。


「すまない……拙者はあの場に居る勇気がなかった」

「……まあ、それは分かるけど。謝ったらそれでいいよ」


 長政にはいろいろ言いたかったけど、同じ立場だったら僕も逃げるだろうから、不問にした。

 そして上座に居た秀吉は「ねねはやるのう」と嬉しそうに言った。


「もしかして、ねねさまを向かわせたのは――」

「無論わしだ。ふふ。感謝せよ」


 僕は秀吉の前に跪いた。


「ありがとう……! 僕は一生、秀吉について行く……!」

「おいおい兄弟。そこまで……って泣いてる!?」


 正勝の言葉どおり、僕は泣いていた……地獄から生還できたんだ。当然だろう。


「さて。雲之介も落ち着いたところで、評定を始める」


 取り乱した僕が冷静になったところで、評定が開かれた。


「とりあえず大殿からは北近江を発展させることを命じられている。そこで長政、おぬしならばどうする?」

「そうですね……やはり琵琶湖の水運を使うか、もしくは商業を奨励することですね」


 まあ妥当な判断だろう。


「そうだな。しかしそれを行なうにしても問題がある」

「ああ、人材が足らないってことね」


 半兵衛さんの言うとおりだ。ここに居る六人だけでは難しい。


「浅井家の旧臣を寄越してくれると大殿は言ってくださったが……」

「うーん。でも今のうちに秀吉ちゃんの直臣を増やしておかないとね」


 すると秀長さんが「そういえば母上が有望な若者を推挙してきたよ」と言う。


「虎之助と市松の二人。鍛えれば勇士になるかもしれない」

「おお! それはありがたい! 実はねねの親戚筋からも来てな。浅野長吉という。わしの祝言のときの若者よ。それと侍女の子から桂松という子を推挙してきた」


 四人か。欲を言えば後一人ぐらい欲しい。


「子飼いの家臣が増えるのは良いことだわ。秀吉ちゃんには譜代がいないから」

「そうなのだ。そこがわしの弱点よ」


 それから秀吉は僕たちに向かって頭を下げた。


「これから一層忙しくなるが、皆の者、よろしく頼む」


 大名が家臣に頭を下げる。それは異常な光景だったけど、秀吉を知る僕たちにとっては普通の行動だった。

 だからこそ、僕たちは秀吉に従っているんだ。


「それと、わしの家臣団の中での筆頭を決めたいと思う。わしの代理だな。誰が良いと思う?」


 僕たちは顔を見合わせた。


「そりゃあ……秀長さんしかいないよ」


 僕の言葉に驚いたのは当の秀長さんだった。


「わ、私が筆頭!? 冗談はやめてくれ。筆頭は雲之介くんだ。最初の家臣だから」

「あたしは秀長ちゃんだと思うわ」

「俺も秀長殿に一票だ」

「拙者は入って間もないから、皆の意見に従う」


 戸惑う秀長さんに秀吉が「ならば秀長が筆頭だ」と決めた。


「ま、待ってくれ! 私は何の能力もない! 半兵衛のように軍才もない。雲之介くんのように内政の才もなければ、正勝殿のように戦働きもできない。長政殿のように上に立った経験もない。なのに……」

「秀長さんは羽柴家に無くてはならない人です。人望があって、先ほど述べたことが何でもできます」


 僕は秀長さんを説得した。なかなか首を縦に振らなかったけど、時間をかけたらなんとか頷いてくれた。


「分かった。しかし他に相応しい人が居たら代わる。それでいいかい?」


 こうして羽柴家臣団の筆頭には秀長さんが就いた。

 それからいろいろ話し合いをして、今日の仕事は終わった。

 気が重いけど帰らないといけなかった。僕は自室に戻った。


「ただいま……」

「雲之介。ごめんなさい」


 障子を開けると、頭を下げる志乃が居た。


「ど、どうしたんだ?」

「あなたを困らせて、本当にごめんなさい。ねねさまに叱られたわ。今後は揉めないようにする」


 ねねさま……! 本当にありがとう……!


「良いんだ。僕もはっきりしなかったから。晴太郎とかすみと一緒にご飯食べよう。お腹空いたよ」

「ええ。一緒に食べましょう」


 それから何があったのか分からないけど、志乃とお市さまは物凄く仲良くなった。

 僕と長政が戸惑うくらいに。

 ねねさま、一体何を言ったのだろうか?

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