第31話清洲同盟

 松平さまは手勢二千を連れて清洲城に入城した。

 同盟を結ぶ前に僕の茶を飲むことになった。場所は城内に長益さまが作らせた茶室で、そこでは僕と大殿、そして松平さまと石川さま、そして本多さんの五人だけだった。

 松平さまは駿河の駿府で今川家の人質として生活していたらしく、作法はそれなりにできていたけど、石川さまは慣れていないようで粗が目立った。本多さんは周りのやり方を不器用なりに真似ていた。


「ふむ。良い茶であった」

「お褒めの御言葉、真に嬉しく思います」


 大殿の言葉に安堵する僕。大殿も作法が完璧になっていたので、些細な失敗は叱責の対象だった。


「それで元康殿――いや、家康と名を改めたようだったな。同盟の条件は俺の娘とそなたの嫡男の婚約でよろしいか?」

「ええ。それが妥当でしょうな」


 大殿と松平さまは旧知の間柄らしい。今川家の人質の前に織田家で人質になっていたとさっき聞かされていた。


「しかしこの青年は本当に織田家の人間だったのか」


 松平さまがこっちに水を向けてきた。みんなが僕に注目してくる。まさか話しかけられるとは思わなかった。そもそも覚えているとは思わなかった。


「ああ。知っているとおり、こいつは雲之介、いやお前も名前が変わったんだったな。雨竜雲之介という。家臣というか陪臣だな」

「ほう。陪臣か。茶道に長けているとは、結構な名家の出だと思うが」

「いえ、僕はそのような……」


 記憶がないのですと言うのは、なんだかはばかられたので口を濁すと、謙遜だと思ったのか「謙虚なことは良いことだ」と深く頷いた。


「是非、わしの家臣に加えたいくらいだ」

「お気持ちだけ受け取っておきます」

「ははは。断られてしまったな」


 豪気に笑う松平さまだったけど、本多さんがぎろりと睨みながら「無礼な……」と呟いた。それを石川さまが窘める。


「そういえば、俺に遠慮して諱を付けなかったと聞いている」

「ええ。藤吉郎がそのように。僕も雲之介という名前を気に入っていますから」

「そうか。だが雲之介では少々名が軽い。後で猿に言っておくから、諱を受け取れ」


 大殿の言葉に僕は平伏して「ありがとうございます」と言う。雲之介は愛着のある名前だけど、大殿の命令なら従うまでだ。

 その後は大殿と松平さまは幼少期の思い出話をして、大いに盛り上がった。まあほとんどは大殿の武勇伝だったけど。元かぶき者って本当だったんだなあ。


「あー、喉が渇いた。雲之介、薄茶を点ててくれ」

「かしこまりました」


 僕は高価な茶器らしき唐物の赤茶碗を使って薄茶を点てる。


「しかし意外だな。信長殿は新し物好きと聞いていたが、茶道に着目するとは」

「ふふふ、家康殿。茶道は政治に使える。そうは思わぬか?」


 大殿の言葉に松平さまは興味を惹かれたようで「ほう。それはどういった意味で?」と訊ねた。


「言葉どおりだ。まあ三河の武士は尾張と違って忠誠心が強いから不要かもしれん。しかしこれから領土拡大を図る俺としてはどうしても茶道、そして茶器は必要なのだ」

「公家や皇族との付き合いのためか」


 大殿は「流石だな」とにっこりと笑う。


「やんごとなき高貴な輩は芸術品や格式の高いものに弱い。時として銭よりもな」

「自分の力の誇示のために、茶道を利用すると?」

「そうだ」


 この時点では大殿は茶道を公家との付き合いの道具しか考えていなかったけど、とある人物の出会いでもっと効果的な活用を始めることになる。


「そろそろ時間だな。それでは参ろうか」

「承知した。数正、忠勝。行くぞ」


 僕は平伏して四人が退出するのを待つ。茶道具の片付けをしなければいけなかったからだ。

 だけど本多さんが「殿、俺はしばらく雲之介殿と話がしたい」と言ってきた。


「馬鹿。お前は護衛役――」

「良い数正。今更我らを殺めたりせんだろう。信長殿、よろしいか?」

「まあいいだろう。雲之介、話し終えたら城門まで案内せい」


 僕は分からぬまま「承知しました」と平伏しながら言う。

 そして僕と本多さんだけになった。


「それで話とは? 茶道具の片付けや手入れをやりながらでも?」

「構わぬ。一つだけおぬしに言いたいことがあってな」


 なんだろう。そう思いながら茶碗や茶入れ、茶杓を拭いたりする。


「服部という者に覚えがあるか?」

「いえ。初めて聞きました」

「そうか。大樹寺のときに、正成さんが見覚えがあると言っていたが……」


 どこか怪しむような目で見る本多さんに僕は「もしかしたら――」と言いかけた。


「なんだ? もしかしたらとは?」

「……僕には昔の記憶がないのです」


 僕の告白に本多さんは戸惑ったように黙り込んだ。


「一人で生きていたときに今の主君、木下藤吉郎に誘われて織田家の家来になって、今に至ります」

「そうか……武家らしくないと思っていたが……」

「しかし、見覚えがあると言われたのは、これで二人目です」


 僕は覚慶さんのことを思い出した。今頃何しているんだろうか。


「その者は何者なんだ?」

「僧侶です」

「僧侶……なら正成さんの言ってたことは……」


 少し考えるような仕草をして、それから本多さんは僕に訊ねた。


「お前は記憶を取り戻したいと思わないのか?」

「記憶を取り戻す……」


 考えたことがなかった。そして思い出そうともしてこなかった。


「正直、それは考えたことなかったです」

「何故だ? 不安ではないのか?」

「不安はあります。けれど、思い出してしまったら――」


 今までの自分では居られないのかもしれない。

 そんな漠然とした不安が胸を締め付ける。


「どうした? 顔色が悪いぞ?」

「……ごめんなさい。考えると気分が……」

「……すまぬ。どうやら触れてはいけないものに触れてしまったようだな」


 本多さんは初めて僕を気遣うようなことを言った。


「しかし今のままで十分なら、無理に取り戻すことはないだろう」

「…………」

「余計なことを言ってしまったな。許せ」


 それっきり、本多さんは僕が茶道具を片付けるまで、一言も話さなかった。

 だけど僕は先ほどの会話を考えていた。

 服部という名。そして正成さんという人。

 服部正成。

 機会があればその人に会ってみたい。


 織田家と松平家の同盟は無事に締結した。

 これで後顧の憂いもなく、美濃攻めに専念できるということだ。

 本多さんの言葉が気にかかるけど、僕は藤吉郎のために墨俣に城を築く方法を考えないといけない。

 前を向かなきゃいけないんだ。




「佐久間さまは予想通り、失敗した」


 数日後。再び藤吉郎の屋敷で僕たち三人は集まっていた。


「次は柴田さまが行なうようだ」

「柴田さま……兄者、戦が巧みな柴田さまなら築けると思うか?」

「小一郎、分かりきっていることを訊くな。あの人でも無理だろうよ」


 僕は「前提がそもそも違うんじゃないか?」と言う。


「僕たちは城を築かないといけない。だから戦うんじゃなくて、築くことを優先しなければ……」

「確かにな。しかし城を築くのが上手い丹羽さまも自信がないと言っていた」

「ならばどうする兄者?」


 小一郎さんの言葉に藤吉郎は「織田家の兵ではなく、美濃の国人を使うのはどうだ?」ととんでもないことを言い出した。


「はあ? 敵だぞ? 兄者、正気か?」

「ああ。国人を味方にすれば、作業をしていても斎藤方に露見することもないし、妨害も龍興の軍勢のみになる。良き考えだと思うが」

「良い案だけど、具体的にどうやって城を築くかを考えないと国人たちは仲間にできないよ」


 僕の苦言に「確かにそこが問題だな」と笑う藤吉郎。


「材料の調達はなんとかなりそうだが、どうやって加工する時間を得るかだな」


 小一郎さんの言うとおり――あれ?


「材料の調達はなんとかなるんですか?」

「うん? ああ、もしも国人衆を仲間につければ、美濃で材料を調達できると思うよ」

「ああ。そういうこと――」


 すると藤吉郎は「それだ!」と立ち上がった。


「ど、どうした兄者?」

「何か思いついたのか?」


 僕と小一郎さんは驚いて藤吉郎を見る。


「美濃で材料を調達するだけではなく、その場で加工してしまえば良いのだ!」

「し、しかし、兄者。加工したものを運搬する方法はどうする?」


 小一郎さんの言うとおりだった。元の材料より加工して組み立てたもののほうが重量も大きさもある。


「そうだな……それは考え付かなかった」


 藤吉郎は落ち込んで座り込んでしまう。

 重い空気を変えようと、僕は藤吉郎を見習って冗談を言った。


「加工した材料が雲のように浮かべばいいんだけどなあ。雲之介だけにね」


 ……あんまり上手い冗談じゃなかったな。

 だけど二人が物凄い顔で僕を見てきて、驚いた。


「えっと……冗談なんだけど……」

「いや、素晴らしいよ、雲之介くん!」


 小一郎さんが僕の手を取って笑った。

 藤吉郎も「おぬしを家来にして良かった」とにっこりと笑った。


「え? え? そんなに面白かったのか?」

「違う。浮かぶというのが大切だ。木材は水に浮くのだ!」


 藤吉郎は墨俣周辺の地図を出した。


「木曽川の上流で材料を切り、加工する。そしてそれを組み立て、川に流す」

「――っ! それならできるかも!」


 藤吉郎はにやりと笑った。


「よし。柴田さまが失敗したら大殿に献策する。小一郎、雲之介。おぬしたち、大いに働いてもらうぞ!」

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